第十三話 双子と夏の魔物 肆
補習授業も終わり、やっと学校から解放された。
夏休みは、本当の意味での休みではない、と改めて実感させられる。
溜まったストレスを発散させるために、俺たちはこの町で一番大きなプール施設を訪れていた。
この施設は室内プールと室外プールに分けられている。
室内プールでは波のプールや二十五メートルプール、サウナ、ジャグジー。
室外プールでは、流れるプールと何種類ものウォータースライダーがある。
もちろん、フードコートも複数あるので、昼食に困ることはないだろう。
今日はカラッと晴れた天気で、絶好のプール日和だ。
夏休み中ということもあって、プールに遊びに来ている人たちは多く、かなり混み合っていた。
今日プールに訪れたメンバーは、俺、瑠璃、鈴音、牧本、米原、剛志、千歳である。
弘人と中城さんは、とある理由で来ることができなかったのだ。
弘人は最初、ウキウキで来たがっていた。
だが、中城さんは、「ほかの女性の水着姿をひろくんに見せたくない」と言ったのだ。
その結果、弘人と中城さんはプールに行くことを断念したのである。
どうやら、中城さんはかなり独占欲が強い女性のようだ。
今回のイベントの真の目的は、剛志と米原の仲を深めさせることである。
今日の計画は元々中城さんが提案したものだ。
しかしながら、作戦の立案者が来ない、というのはさすがにどうかと思う。
まあ、一応みんなにも協力を仰いだし、なんとかなるか。
今日の目標は、『プールで遊ぶのをきっかけに、剛志と米原がお互い話だけでもできるようになればいい』というものである。
二週間ほど前、剛志と米原が実は両片想いである、ということが判明した。
そして、瑠璃が剛志と米原両方に「お互いが好き」という状況にあると、あえて伝えたのだ。
その結果、二人の様子はかなり変化したのである。
補習授業で一緒のクラスのときは、お互いにチラチラと視線を送り合っていた。
それから、二人が偶然に出会ったときは互いに顔を真っ赤にして、そのまま動けなくなったりしたのである。
二人の行動は、見ているこっちが恥ずかしくなる光景ばかりであった。
これが青春ってやつなのか、と思いながら、二人の様子をまじまじと観察したものだ。
剛志と米原には、ぜひともこのまま付き合ってほしい。
だから、親友のためにも今日の計画は絶対に成功させる。
現在俺は、室外の日除けのパラソルがある場所で、シートを敷き荷物番をしていた。
荷物番をするのは別にいい。
それより、今はなんとかしなければいけない問題が発生した。
なんと、今日のメインである剛志と米原が、俺を真ん中に挟み、三人で一緒に荷物番をしているのだ。
本来この時間は、剛志と米原が二人きりで荷物番をするはずだった。
だが、両者から、「間が持たないからここにいてくれ」と懇願されたのである。
なので、俺は仕方なく一緒に荷物番をすることになった。
ちなみに俺たちの水着事情だが、俺は青色のサーフパンツで、剛志は黒色のサーフパンツ。
一方、米原は気合いを入れて、布面積の少ない黒いビキニを着ていた。
米原は結構攻めてる水着だな。
いや、今は水着のことなんてどうでもいいか。
それより、どうにかしてこの状況を打破しなければならない。
だが、助けを求めようにも、ほかのメンバーはプールで遊ぶのを楽しんでいて無理そうだ。
今日の主旨はみんなに伝えたというのに……。
やはり、補習授業があったから、みんな相当ストレスが溜まっていたのであろう。
俺にとっては、補習授業なんかより、現在の状況のほうがよっぽどつらかった。
さっきから剛志と米原は、あえてお互いを意識しないように、視線を泳がせている。
そして、たまに視線が合うとお互いに顔を赤くして、顔を背けてしまう。
こんな状況では、ストレスを感じないほうが無理というものだ。
というか、もう耐えられそうにない。
この状態のままでは、いつまでたってもいい雰囲気など作れるはずもないだろう。
俺は覚悟を決めてから、勢いよく立ち上がった。
二人が何もしないなら、俺が動くしかないよな。
今だけは直接サポートしてやろう。
「喉が渇いたから、飲み物でも買ってくるわ」
「えっ?」
「お、おい! 璃央!」
俺はその場から逃げ出すようにして、フードコートへと足を運んだ。
その際、後ろから「待ってくれ!」とか聞こえたが、無視してそのまま歩き続けた。
そして、俺はフードコートで二人の好物である、メロンクリームソーダを買ってやることにしたのだ。
さすがに、あの喫茶店で提供されるものほどおいしくはないだろう。
しかし、これが会話を生むきっかけになるかもしれない。
クリームソーダを買ったあと、アイスが溶けないうちに、急いで二人のもとへ戻った。
荷物置き場に戻ると、二人はまだ顔を別の方向に向けて座っている。
おいおい、頼むぜ二人とも……。
俺はそう思いながら、買ってきたクリームソーダを二人に渡した。
「あ、ありがとな」
「お、お金はあとで払うから」
「いや、別に金はいらないぞ。これは俺からのささやかなプレゼントだと思ってくれ」
それから、俺は座ることにした。
今度は真ん中ではなく、剛志の右隣に。
「おい、剛志。もっと詰めろよ」
「り、璃央、そんなに押すなよ」
「そ、そうだよ。考えて座りなよ」
二人の言葉を無視して、無理やり剛志を押し込む。
そうして、二人の肩が触れる距離まで詰めることに成功する。
二人は観念したのか、満更でもなさそうな顔をしながら、クリームソーダを飲み始めた。
「あ、あたしね。クリームソーダが好きなんだ!」
「お、おう、俺も好きだぞ!」
「そ、そうなんだ? このクリームソーダもおいしいけど、もっとおいしいのを出す喫茶店を知ってるんだけど……」
「そ、そうなのか?」
「も、もしよかったら、今度二人でその喫茶店に行ってみない?」
「よ、よしわかった! 俺の休みの日は……」
クリームソーダをきっかけに、二人はやっと会話を始めた。
ここまでお膳立てしておけば、あとは大丈夫だろう。
俺はトイレに行くと二人に嘘をついて、この甘酸っぱい空間から足早に離脱した。
俺は現在、みんなと合流するために、室内プールを探索している。
そして、偶然二十五メートルプールがあるエリアにきた。
さすがにこの場所には誰もいないよな。
俺はほかを当たろうとした。
「おーい! 璃央! ちょっと手伝ってくれ!」
だが、そこには牧本がいたのだ。
牧本はこちらに向かって手を振っている。
「よお、牧本。どうかしたのか?」
「今から五十メートルを泳ごうと思ってるんだ。だからさ、タイムを計ってくれないか?」
「別にいいが、俺は時間を計るものを持ってないぞ?」
「璃央の感覚でいいからさ。じゃあ、頼むぞ」
「お、おい……」
牧本はすぐにプールへ入り、泳ぐ体勢をとった。
それから、こちらを見てくる。
「それじゃあ、今から泳ぐからな」
「……了解した。こっちはこっちでなんとか頑張って数えてみるよ」
牧本は水中ゴーグルを着けると、勢いよくプールの壁を蹴って泳ぎ始めた。
同時に、俺は頭の中でタイムを数え始める。
牧本の泳ぎ方はクロールだ。
かなり綺麗なフォームで泳いでいる。
泳ぐスピードも結構速い。
牧本は十四秒くらいで、二十五メートル以上泳いでいた。
すでにターンをして、こちらに向かってきている。
しかし、疲れてきたのか、泳ぎ始めたときよりも、若干スピードが遅い。
そして、牧本はそのまま五十メートルを泳ぎ切った。
「はぁはぁ、どうだ? 何秒くらいだった?」
「だいたい二十九秒くらいだと思うが……」
「よし! 三十秒の壁は越えられたな!」
牧本は、はつらつとした笑顔を作り、嬉しそうにしている。
俺には速いか遅いかわからなかったが、牧本の泳ぐ姿はすごく格好いいと純粋に思った。
「じゃあ、璃央! 今度は競争しようぜ!」
「む! わかった! その勝負受けて立とう! 俺に負けても泣いたりするなよ!」
「璃央のほうこそ悔しがったりするなよ?」
「そんなことしねぇよ。俺も本気をださせてもらうぜ」
実のところ、俺は泳ぐことがあまり得意ではない。
だが、俺はこの一年間、ランニングや筋トレを毎日続けてきた。
おそらく、前よりは泳げるようになっているはずだ。
「よっしゃあ! 私の勝ちだな!」
「はぁはぁ、きつ……」
俺は牧本にあっけなく敗北した。
タイムはだいたい四十秒くらいだったと思う。
やっぱり、陸上での運動を頑張るだけじゃダメだったようだ。
それから、俺は何回も牧本と勝負をしたが、結局一度も勝てなかったのである。
だが、不思議と悔しさは感じなかった。
俺は牧本のすごさに、ただただ感服していたのである。
その後、俺たちはプールのそばにあるベンチに座り、休憩をすることにした。
「牧本は陸上だけじゃなくて、泳ぎも得意なんだな」
「一応、スイミングスクールにも通ってたからな」
「そうなのか。ほかにどんなスポーツができるんだ?」
「えーと……。サッカー、ソフトボール、バレーボール、バスケットボール、スキーにスノボ、スケートとかかな? まあ、一番得意なのは陸上競技だけどな」
さすがは牧本だ。
スポーツに関してはなんでもできるのか。
「やっぱり牧本は運動神経抜群だな。素直に尊敬するよ」
「へへ、そうか? でも、一通り普通にできる程度だから、そんなに大したことじゃねぇよ」
「いいや。牧本自身の能力が高いからこそ、多種多様にできるんだと思うぞ?」
「そ、そうか? それじゃあ、褒め言葉として受け取っておくぞ」
褒められたのが嬉しかったのか、牧本はさっきのように笑顔を作っていた。
水に濡れた牧本の笑顔は、普段よりも輝いて見える。
「そういえば、牧本はどうしてスポーツを始めたんだ? やっぱり親の影響なのか?」
「……いや、親は関係ない。私は自分からスポーツがやりたいって言ったんだ」
「自分からか。それはすごいな。もしかして、何かきっかけや理由があったりするのか?」
「実は私さ、小学生のときは運動音痴で、体育の授業でさえ嫌いだったんだよ。しかも、授業のときはいつも体調不良ってことにして、ずる休みしてたんだ」
「今の牧本からは想像できないな……」
「そんなとき、私はある男子と出会ったんだ。そいつは学年で一番足が速かった。だけど、走るフォームがメチャクチャでみんなに笑われてたんだ。でも、そいつは毎回笑われながらも一生懸命に走ってた。その結果、そいつは授業や運動会でいつも一位を取ってたんだよ」
「いつも一位はすごいな」
「私も最初は馬鹿にしてんだけど、だんだんそいつに憧れるようになってさ。そいつにみたいになりたくて、体育の授業に参加するようになったんだ」
「その男子がきっかけだったのか」
「私はどんどんスポーツにのめりこんで、体育の授業で高成績を修めるまでになった。あるとき、そいつとかけっこをする機会があったんだ。今の私なら勝てると思ってたんだけど、結局そいつには全然追いつけなかった。そんな中、そいつからある言葉をかけられたんだ」
『キミは足が速い。もっと頑張れば僕より速くなれるよ』
「憧れてたやつからそんなことを言われて、私は嬉しかった。だから、私はもっと努力した。そして、私はついに、かけっこでそいつに勝利することができたんだ」
『やっぱり思ったとおりだ。キミはすごい。これからのキミの将来がとても楽しみだ。応援してるよ』
「そいつは負けたのに悔しがる顔もせず、そう言ってくれたんだよ。そこから、私はもっとほかのスポーツもやってみたいと思ったんだ。そいつに勝つために、努力して手に入れた足の速さは、どんなスポーツでも役に立った。今こうしていろんなスポーツができるのは、そいつのおかげでもあるんだよ」
「そんなドラマのような出来事があったんだな。それで、その男子は今どうしてるんだ?」
なぜか牧本は、視線を下げたまま、急に黙り込んでしまう。
しかし、すぐに俺のほう向き、笑顔を作って喋りだした。
「……そいつとは中学も同じだった。けれども、そいつは途中で転校したんだよ。私にはそいつが今、何をしているかはわからない。でも、今も走るのはやめてないんじゃないかな」
「それは残念だったな。俺もその男子に会って、一緒に走ってみたかったよ」
「もしかしたら、璃央もそいつに勝てるかもな」
「そ、そうか? 俺なんかの足の速さで太刀打ちできるのか?」
「璃央はそいつに勝った私と、毎日一緒に走ってるだろ? だから、璃央が負けるわけねーよ」
牧本はさっきよりも明るい笑顔を作る。
その屈託のない笑顔と、普段では見ることができない水着姿が乗算して、思わずドキッとしてしまう。
すると、自分の意思とは関係なく、俺の視線は牧本の女性らしい部分に注目するようになっていく。
毎日激しい運動をしているせいなのか、牧本の身体は引き締まっていて、無駄な肉が一切なく、芸術的な域まで達している。
しかも、着痩せするタイプなのか、意外と胸も膨らみも大きい。
それに、部活でできた日焼け跡が妙に色っぽく見える。
……というか、何まじまじと見てるんだ俺は!
相手は牧本だぞ!
変なことを考えるのはやめるんだ、俺!
「お、おい! お、お前、さっきからどこ見てんだよ!」
「え?」
どうやら牧本は俺の邪な視線に気づいたらしい。
顔を赤くしながら、胸を両手で隠している。
その普段見せない仕草のせいで、俺は牧本の女性らしさをはっきりと意識してしまった。
その際、無意識にゴクリと生唾を飲み込んでしまう。
「い、今ゴクリって聞こえたぞ! や、やっぱりお前もほかの男と同じで獣なのか!?」
「いや、待て、牧本! 誤解だ! い、いやらしいことは何も考えてないぞ!」
「ほ、本当か!? も、もし、嘘をついたら瑠璃にこのことを言うからな!」
「そ、それだけは勘弁してくれ! な、何でもするから許してくれないか?」
「……お前今何でもするって言ったよな? 訂正するのはなしだぞ?」
……まずい。
百パーセント俺が悪いのだが、瑠璃にチクられるのだけは回避しなければ!
しかし、思わず何でもすると言ってしまったが、牧本はいったいどんな要求をするつもりなんだ?
「……じゃあ、また私とこのプールに来てくれ」
「え? そんなんでいいのか?」
「おう、いいぜ。何か問題あるのか?」
「いや、ないです」
「なら許してやるよ。でも、二度目はないからな?」
「わ、わかりました……」
牧本の怒りはなんとか収まってくれたようだ。
とりあえず、一安心だな。
この程度で済んでよかった。
というか、前にも似たようなやり取りをした気がするな。
たしか、前回は立場が逆だったはず……。
「お前今、『この程度で済んでよかった』って思わなかったか?」
「お、思ってないぞ!」
「ふーん……。ならいいけどよ」
俺ってやっぱり考えが顔に出やすいタイプなのか?
これからはもっと気をつけなければいけないな。
牧本の直感力は恐ろしいものだ。
「じゃあ、私はまだここで泳ぐから、璃央はみんなのところに行ってやれよ」
「わかった。お昼になったら、荷物が置いてある場所まで戻ってこいよ。昼飯はみんなで食ったほうがうまいからな」
「おう、わかった。じゃあ、またな」
「ああ」
牧本と別れた俺は、みんなと会うために施設の中を歩き回っていた。
しかし、この施設は広いので、なかなかみんなを見つけられない。
しかも、さっき牧本と競争をしたせいで、俺の身体には疲労がかなり溜まっている。
そこで俺は、休憩がてら波のプールの波打ち際に座ることにした。
波打ち際に座っていると、今にも消えそうな小さな波が身体に何度も当たる。
それが気持ちよくて、俺は少しの間波打ち際でボーッとしていた。
すると突然、視界が何かに塞がれて真っ暗になる。
「わ!? な、何だ!?」
「璃央君みっけ! さて、私は誰でしょう?」
「……こんなことをするのは一人しかいない。鈴音だろ?」
「はい、せいかーい。正解した璃央君には、私とデートする権利が与えられまーす」
「デ、デートって……」
鈴音はプールに来られて嬉しいのか、テンションがいつもより高い。
……というかなんだその水着は!?
ただでさえ、スタイルのいい鈴音が、赤い三角ビキニを着ている。
引き締まった脚、大きな胸、モデルのような細いくびれ、そして整った顔。
いったい鈴音のどこを見て話せばいいんだ?
俺は鈴音の姿をちゃんと見ることができず、視線が泳いでしまう。
「あれれー? もしかして、璃央君は水着姿の私を直視できないのかなー? 璃央君ってやっぱり恥ずかしがり屋さんなんだね」
「そ、そんなことはない! ……たぶん」
「それじゃあ、行こっか?」
「い、行くってどこに?」
鈴音は俺の腕をがっちりと掴んだ。
そして、そのまますごい力で引っ張られ、強引に連行された。
す、鈴音ってこんなに力が強かったっけ?
鈴音に連れてこられた場所はサウナだった。
現在俺たちは、横並びになって座り、サウナの暑さに耐えている。
「なあ、鈴音。せっかくプールに来たのに、サウナなんかに入ってていいのか?」
「ふっふっふ、璃央君はわかってないね。サウナはただ座ってるだけで、健康になれるんだよ? プールで泳ぐのもいいけど、私あんまり泳ぐのは得意じゃないんだ。それに、プールだと身体を使うから疲れちゃうでしょ?」
「鈴音は運動が苦手なのか?」
「運動自体は好きだよ。体型維持のために筋トレとかウォーキングもやってるし。でもね、体育の授業では、結構みんなに迷惑かけちゃうことが多いんだよ。好きだけど得意ではないんだ」
鈴音はあまり運動が得意ではないのか。
体育の授業中、あまり鈴音のことを見ていなかったので知らなかったな。
鈴音は身長が高くてスタイルもいい。
だから俺は、勝手に運動が得意なものだと思い込んでいた。
そういう安易な決めつけはよくないよな。
鈴音のためにも、これからは軽率な発言を控えることにしよう。
かくいう俺もそんなに得意というわけではないしな。
「それにしても暑いな……」
「おや? 璃央君はサウナが苦手なのかな?」
「俺は暑いより寒いほうが好きだからな」
「私は寒いの苦手だなー……って璃央君? なんで立ち上がろうとしてるの?」
「いや、だって、今言ったろ? 暑いのは苦手って……」
「ま、待ってよ! まだ十分も経ってないよ! 私、璃央君とサウナに入るのをすごく楽しみにしてたのにー!」
「えー」
鈴音は落胆の表情を見せている。
そういえば、夏休み中、鈴音とこうして直接話す機会はあまりなかったような気がするな。
仕方ない、ここは鈴音のためにもう少しだけ我慢するか。
「しょうがないな、あともう少しだけだぞ」
「やったー!」
「おい。なんか距離が近くなってないか?」
「気にしないで、大丈夫大丈夫」
「いや、俺が大丈夫じゃないんだが……」
鈴音はいつも距離が近い。
鈴音はどう思っているか知らないが、俺はその距離感のせいでいつも緊張してしまうのだ。
今日は水着ということもあって、さらに緊張してしまい胸がドキドキして苦しい。
「おやおやー? やっぱり璃央君は、私に何か思うところでもあるのかなー?」
「そりゃ、鈴音みたいな美人が近くにいたら誰でもこうなるだろ」
「……璃央君って、そうやっていつも私のことをよく褒めてくれるよね? もしかして、ほかの女の子にも似たようなことを言ってたりするのかな?」
「そ、そんなことはないぞ! 俺は軽い男ではない!」
「へー……」
鈴音は疑うような視線を俺に向けてくる。
違うんだ。
これはサウナの暑さのせいで、頭が回らないことも関係してるんだよ。
俺は誰にでも美人とか言う男じゃないんだ。
すると突然、俺の右手に何かが乗ってきた。
その何かは俺の指に絡みついてくる。
暑さのせいか、それが鈴音の手ということに気づくまで、数秒かかった。
「あ、あのー、鈴音さん?」
「……」
鈴音は、うつむいたまま急に黙ってしまった。
手を離そうとしても、さらに指を絡めてきて、逃げられない状態になる。
こんなところを瑠璃たちに見られたら、きっと勘違いされてしまうだろう。
というか、このサウナには、ほかの人もいるんだぞ……。
俺は恥ずかしさと緊張で、サウナにいるのに冷や汗をかいてしまう。
いったい鈴音はどういう意図で、こんなことをしているんだ?
「私だけにしてよ……」
「な、何か言ったか?」
「だから……そうやって褒めるのは私だけにしてよ」
「なっ……!?」
鈴音は真っ直ぐ俺の目を見ながらそう言った。
暑さのせいなのか、鈴音の顔は真っ赤になっている。
それに目も虚ろで、顔や身体にも大量に汗をかいていた。
それが妙に蠱惑的で、色気を感じてしまう。
次の瞬間、身体の内から健全ではない欲望が湧き上がってきそうになる。
俺はその欲望を抑えるために、左手を爪が食い込むほど強く握りしめた。
なんとか耐えるんだ、俺!
しばらくの間、俺と鈴音は無言で見つめ合っていた。
その間も、お互いの手はしっかりと繋がれている。
……いったい何分経ったのだろう。
俺はもういろいろと限界に近いのだが、鈴音は大丈夫なのだろうか?
すると鈴音は、我に返ったような顔をして突然立ち上がった。
「り、り、璃央君! わ、私、そろそろ限界だから、出るね! り、璃央君はどうする!?」
「あ、ああ! お、俺も限界っぽいから出ることにするよ!」
俺たちはお互いに混乱しながら、サウナ室をあとにする。
シャワーで汗を洗い流したあと、鈴音の提案で広い円型のジャグジーに入ることになった。
ジャグジーの水温は少しぬるいが、サウナのあとに入るにはちょうどいい温度だ。
ジャグジーに入っていると、身体全体が大量の泡に包まれる。
それがとても気持ちよかった。
ちなみに、鈴音はサウナのときと同じように、俺のすぐ隣に座っている。
周りには人がたくさんいるので、鈴音はさっきよりも大人しくなるだろう。
しかし、俺の考えは甘かった。
なんと、鈴音はさっきと同じように、強引に手を繋いできたのだ。
一見ただ隣に座っているだけに見える。
だが、泡立つ温水の下では、俺と鈴音は手を繋いでいるのだ。
この行為に、俺は一種の背徳感のようなものを覚えてしまう。
「ふー、あったかい。ねぇ、璃央君。今頃、剛志君と一紗ちゃんどうしてるかな?」
鈴音は顔色一つ変えず、平然と話しかけてくる。
俺はなんとか気持ちを抑え、平静を装う。
「そ、そうだな。俺の予想だと、今ごろ仲良くおしゃべりでもしてると思うぞ」
「そうなの? でも、二人ともすごいガチガチだったよね?」
「俺が二人のために、話をするきっかけを作ってやったんだよ。そうしたら、二人はようやく会話を始めたんだ。せっかくのいい空気を壊すと悪いから、俺はあいつらを二人だけにしてやったんだよ。あの雰囲気なら、きっと大丈夫のはずだ。……たぶんな」
「へぇー。璃央君は、剛志君と一紗ちゃんの恋のキューピッドを演じたんだね」
「ま、まあ、一応な」
そのとき、俺の頭の中に一抹の不安がよぎる。
果たして、誰とも付き合ったことのない人間が、他人の恋を成就させることなんて、本当にできるのだろうか?
今は上手くいっているように見えるが、結局はあの二人次第だ。
さっきの行動は本当に正解だったのだろうか。
俺は疑心暗鬼に陥ってしまう。
「璃央君、どうしたの? 急に元気がなくなったようだけど……」
「……ちょっと不安になってきたんだ。俺は本当にあいつらをくっつけることができるのだろうか、ってな」
「璃央君。それは、きっと取り越し苦労だと思うよ」
「そ、そうか?」
「私も恋する乙女だから、少しはわかるんだ。あの二人なら大丈夫だよ。それに、私たちもサポートしてるしね。そもそも、あの二人はお互い好き同士なんだから、もうほぼ成功してるようなものだと思うんだけどなー」
「……ああ、そうだな。剛志も米原もお互いに仲を深めようと努力してる。そのうえ、みんなで応援してやってるこの状況で、失敗なんてあるはずがないよな」
「そうそう。璃央君は考えすぎなんだよー」
「ありがとな。鈴音のおかげで、俺は目が覚めたよ」
「どういたしまして」
そうか、やはり俺の考えすぎか……。
こういうときは、何事もポジティブな思考でいないとな。
鈴音のおかげで、俺は冷静になることができた。
この場に鈴音がいてくれて本当によかったな。
……ん? ちょっと待てよ。
そういえば、今の会話には少し違和感があったような気がするぞ。
たしか、鈴音が自分のことを、「恋する乙女」って言っていたような……。
「な、なあ、鈴音……。もしかして、お前にも好きなやつとかいるのか?」
「……いるよ」
「そ、そうなのか? でも、好きなやつがいるなら、なんで俺なんかと手を繋いでるんだよ?」
「……なんでだろうね?」
待て待て。
この場合、好きなやつが俺以外なら、きっとこんなことはしないはずだ。
だって、そうだろ?
好きでもない男子と二人きりになって、手を繋ぐなんて、普通はありえない。
もしも、鈴音の好きなやつが俺だったら?
そう考えると、今までの鈴音の行動にも納得がいく。
だが、なぜ俺なんだ?
俺と鈴音は知り合って、まだ半年くらいしか経っていないんだぞ?
いくら隣の席だからといっても、授業も別々のときが多い。
それに、俺から特別なアプローチをかけたこともないはずだ。
何かきっかけでもあったのか?
考えれば考えるほど、沼にはまっていくようだ。
どうしても理由を探してしまう。
「……ねぇ、璃央君」
鈴音の声を聞いて、俺は我に返った。
なぜか鈴音の声色がいつもと違うような気がする。
それだけでなく、鈴音の息が俺の耳にかかるのがわかった。
俺は変に意識してしまい、鈴音を直接見ることができない。
しかし、鈴音の顔がすぐ近くにあるということは感じ取れる。
「私の好きな人って、誰なんだろうね?」
鈴音の艶やかな声が、耳元で囁かれる。
同時に、鈴音の熱い吐息が耳にかかり、俺の身体は今まで感じたことのない感覚に陥った。
「そ、そんなの、俺には――」
「璃央君ならわかるよね? だって……」
鈴音が何かを言おうとした、まさにその瞬間。
お昼を知らせる館内放送が、大音量で施設内に流れたのである。
その音のせいで、鈴音の声もかき消されてしまい、何も聞こえない。
館内放送が終わったと同時に、鈴音は繋いでいた手を離した。
そして、素早くジャグジーから上がり、俺を見下ろしたのである。
「……璃央君。もうお昼だからみんなのところへ戻ろうよ」
鈴音はさっきまでの行動が、まるで嘘のように平然とそう言ってきた。
切り替えが早すぎないか……?
「わ、わかった。戻って昼飯を買いに行くとするか」
「私、お腹ペコペコだよー。ここのフードコートは何がオススメなのかな?」
「そういや、でっかいハンバーガーがオススメだった気がするぞ」
「そうなんだ! でも、午後も遊びたいから、あんまりお腹いっぱいにはなりたくないなー」
「じゃあ、瑠璃や牧本とシェアして食べればいいんじゃないか?」
「それもありだねー」
他愛もない会話が続く。
いったいさっきまでの雰囲気は何だったのか。
俺の心の中では、モヤモヤとした黒い霧のようなものがかかっていた。
一方、鈴音は何事もなかったように、話しかけてくる。
……いろいろと考えても仕方がない。
とりあえず、この気持ちはいったん呑み込むことにしよう。
俺と鈴音は軽い雑談を交わしながら、みんなのもとへと戻ったのだった。
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