第九話 双子と夏風邪

 気がつくと、俺は何もない白い空間に立っていた。

 ここがどこなのか瞬時に理解できる。

 ここは俺の夢の中だ。


 「こんにちは。璃央くん」


 いつものように、もう一人の俺が姿を現した。

 もう一人の俺は、いつもどおり捉えどころのない表情をしている。


「キミは過去と向き合い、それを克服することができたようだね。実のところ、僕はキミの心と身体が心配だったんだよ。だけど、キミは傷ついたが、壊れはしなかった。周りの人物にも恵まれているようだし、キミ自身も強くなったようだね」

「む……俺は強くなったのか? あまり実感は湧かないが。でも、俺の周りにいいやつが多いのは認めるよ。あいつらのおかげで、乗り切れたようなもんだしな」


 もう一人の俺はニコニコと笑いながら、俺の目の前まで近づいてきた。

 間近で見ると、まるで鏡を見ているような錯覚に陥る。


「今のキミなら、これから思い出す記憶もきっと乗り越えられるだろうね」

「……おい、俺にはまだ思い出せてない記憶があるのかよ? これ以上つらい記憶があるのは勘弁してほしいんだが」

「大丈夫、それほど心配はいらないよ。キミの周りには仲間がいる。それに、僕もついているしね」

「そうか……。ありがとな」

「……素直に感謝されると少し恥ずかしいね」

「おい、俺と同じ顔で照れるなよ。こっちも恥ずかしくなってくるだろ」


 もう一人の俺は若干顔を赤らめている。

 なぜ自分との会話で照れなければならないのか。

 そのとき、真っ白な空間が崩壊し始めた。

 毎回急に来るんだよな。

 もう慣れたけど。


「今は過去の記憶を探らないほうがいい。無理に思い出すと、キミの身体に障るからね。今はゆっくりと休養をとるといい。それに、もう夏休みだろ? 一夏の青春を謳歌したまえ」

「……わかった。素直にお前の忠告を聞き入れるよ。またな」

「ああ、また会おうね」


 もう一人の俺と会話を終えた瞬間、空間がなくなり、俺の意識は現実へと戻った。







 敦と千歳の件から、一か月以上が過ぎようとしている。

 ついこの間まで、俺は過去の記憶が頻繁にフラッシュバックしてしまう状態に陥っていた。

 だが、現在はその頻度も減り、再び早朝ランニングができる状態まで回復したのである。


 期末試験が終わり、夏休みも近づく中、部活に入っているやつらは慌ただしかった。

 この時期は大会があったからだ。

 そういえば、剛志と弘人と牧本は一生懸命部活に身を費やしていたな。

 俺と瑠璃、鈴音と米原の四人で応援に行ったり、スポーツドリンクの差し入れなどもした。


 剛志と弘人と牧本は、運動能力が高い。

 皆それぞれ活躍していて、観戦している俺たちも手に汗握る熱戦に興奮したほどだ。

 この暑い中、スポーツをするには大変だっただろう。

 しかし、競技をする人や応援する人たちは皆一生懸命で、それがどこか輝いているように見えた。

 俺たちは、これぞ青春という感覚を味わうことができたのである。


 そして、昨日終業式を終え、ついに夏休みに突入した。

 課題や補習などは多いが、長期の休みとなると、かなり気分も上がってくる。

 これで彼女でもいれば、きっとさらに青春らしいことができるだろう。

 だけど、今の俺には彼女がいない。

 そんな現実を、ただただ受け入れることしかできなかったのである。







 夏休みの記念すべき最初の一日目。

 不幸にも、俺は夏風邪を引いてベッドに寝たきりとなっていた。


「璃央、体調は大丈夫? 寒くない?」

「体調はそれほど良くはないな。あと寒いというより、むしろ暑いし」


 俺は今、瑠璃に看病をしてもらっている。

 風邪をうつすといけないので、この暑い中、俺はマスクをしていた。

 余談だが、さっき熱を測ったら三十八度に近い数字がでたので、少し不安だ。


「……なかなかつらそうね。おじいちゃんがいたら、車で病院まで連れていってもらえたんだけど……」

「病院に行くほどでもないと思うぞ。市販の薬を飲んで、今日一日寝てればきっと治るさ」

「何か食べたいものとかはある?」

「食欲はあまりないな。……いや、でも果物とかなら食べられそうだ」

「じゃあ、林檎を剥いてくるわね。私が来るまで安静にしてなさいよ」

「ああ、ありがとな」


 俺は瑠璃の剥いたうさぎ林檎を食べた。

 爽やか甘味と酸味、瑞々しい果汁が渇いた身体に染み渡る。

 その後、風邪薬を飲んで寝ることにした。


「じゃあ、何かあったら私に連絡してね。すぐに駆けつけるから」

「了解」

「おやすみ、璃央」

「ああ、おやすみ」


 瑠璃が出ていった直後、俺は急激な眠気に襲われ、そのまま倒れるように寝てしまった。







 何時間経ったのだろう。

 俺はそんな疑問を抱きながら目覚めた。

 部屋の時計の針は午後二時を指している。

 寝始めたのが午前八時頃だったので、約六時間も寝ていたようだ。


 薬が効いたのか、熱っぽさもなく、身体も軽い感じがする。

 体温を測ると三十六度台まで下がっていた。

 これなら大丈夫そうだな。

 

 俺はふと喉の渇きを感じた。 

 すると、いつの間にかベッドのそばにスポーツドリンクが置いてあるのに気づく。

 おそらく、瑠璃が用意してくれたのであろう。

 俺は瑠璃に感謝をしながら、喉を潤した。


 そのとき、部屋の外から複数の足音が聞こえてくる。

 足音は俺の部屋の前まできて、ピタリと止まった。

 そして、部屋の扉がゆっくり開き、誰かが入ってきたのだ。

 俺はベッドに横になり、咄嗟に寝たふりをする。

 それから、誰が来たかを確認するために、薄目を開けて扉を注視した。


「お邪魔しまーす。璃央君、大丈夫?」

「璃央! お見舞いに来てやったぞ!」

「ちぃーす」


 部屋に入って来たのは、なんと同級生の女子たちだった。

 鈴音、牧本、そして米原までもが、俺の部屋に無断で入ってきたのだ。

 お見舞いに来てくれるのは嬉しいが、もし風邪がうつったらどうするんだよ。


 今すぐ起きてみんなに忠告をしよう。

 だが、俺はあることに気づいてしまった。

 自分の部屋に初めて瑠璃以外の女子がいる、という事実に……。

 そう思った瞬間、なぜか急激に緊張してしまう。

 その結果、俺は狸寝入りをすることにした。


「あれ? 璃央君寝てるね?」

「おーい、璃央。土産を持って来たぞー。起きて一緒に食おうぜー」

「葵月、せっかく寝てるのに起こしたら可哀想でしょ」


 鈴音たちはテーブルの上に何かが入った袋を置く。

 それから、その場に座り始めた。


「私、男の子の部屋に入ったの初めてだよー」

「私もだ。璃央のやつ、意外と小綺麗にしてるよなー」

「そういえば、あたしも璃央の部屋には初めて入るかも」


 鈴音たちは俺の部屋を見回しているようだ。

 俺はやめてくれと言いたかったが、寝たふりを継続した。


「ねぇねぇ、葵月ちゃん。璃央君のお部屋を少し探索してみようよ」

「お、いいな、それ。面白いもんが見つかるかもな」

「あたしはパス。お二人でどうぞ。……ねぇ、このお菓子食べてもいい?」


 鈴音と牧本は、俺の部屋の中を興味津々で探索し始めた。

 一方、米原はのんびりお菓子を食べているようだ。


「机は……綺麗にしてるね。物とかきちんと整理されてるし」

「引き出しの中身も、特におかしなものはないな」


 どうやら牧本は、机の引き出しを勝手に開けているようだ。

 おかしなものなんてねぇよ。

 勝手に漁るな。


「ねぇ、見て! 可愛いペンギンのお人形さんがいくつもあるよ!」

「こっちもいろんな種類のペンギンのフィギュアがあるぞ!」

「璃央君って、本当にペンギンが好きなんだね。ちょっと可愛いかも」

「意外だよなー。でも、なんでペンギンが好きなんだ?」


 俺のプライバシーがどんどん明るみに出てくる。

 なんだか恥ずかしくなって、身体がむずむずしてきたぞ。


「漫画もあるな。……ってこれ、少女漫画じゃねぇか?」

「璃央君って、少女漫画も読むんだ。あ、でもこの漫画って、結構エッチなシーンもある漫画だよ」

「そうなのか? なんか璃央のいけない秘密を知ってしまった気分だ」


 違うんだよ。

 その漫画は瑠璃のものなんだ。

 結構面白かったけどな。


「男子の部屋の探索は楽しいねー。ねぇ、葵月ちゃん。今度はベッドの下とかも探索してみない?」

「え! ベッドの下!? さすがに璃央が怒るんじゃないか?」

「大丈夫、大丈夫。だって璃央君は今熟睡中だからね。起きるなんてことは、ありえないよ……」


 鈴音はニヤつきながら俺を見下ろした。

 まさかこいつ、俺が起きていることに気づいているのか?

 というか、ベッドの下はまずい!

 特に変なものはないが、見られると少しだけ恥ずかしいものがあるんだよ!


「それじゃあ、璃央君のベッドの下を探索しまーす」

「お、おい……。しょ、しょうがねぇなー、私も手伝うぜ」


 鈴音と牧本は、俺のベッドの下の探索を始めた。

 これはもう起きるしかない!


「あなたたち、何をしてるの?」


 そこに瑠璃が現れ、鈴音と牧本の動きが止まる。

 二人は冷や汗をかいて動揺しているようだった。


「あ、あはは、ちょっとベッドの下を掃除してあげようかなって。ね? 葵月ちゃん?」

「お、おう、そうだぞ。何もやましいことはしてないからな!」

「隠しても無駄よ。璃央のベッドの下に何かあるんじゃないかと思って、探索しようとしてたのよね? 一紗も見てたでしょ?」

「あたしは興味なかったけど、鈴音と葵月は興味津々で探してたよ」

「ふーん……」


 このときの瑠璃は、俺にとって救世主にも思えた。

 さすが我が姉上。

 さあ、この二人を叱ってやってくれ!


「ご、ごめん! 瑠璃! 悪かったよ……」

「あ、葵月ちゃん!? うう……瑠璃ちゃんごめんなさい! つい出来心で……」


 何が出来心だよ。

 ノリノリでやってたくせに。


「二人とも、謝る必要はないわ。私も気になってたのよ。さ、探索を再開しましょう。璃央が起きる前に」


 どうやら瑠璃も鈴音たち側の人間だったようだ。

 瑠璃も許さねぇからな。

 あとで覚えてろよ。


「ねぇ、さすがに可哀想じゃない?」

「あら、どうしたの、一紗? あなたは璃央の味方なのかしら?」

「いや、味方っていうわけじゃないけどさ……。もし、あたしが璃央の立場だったら、嫌だなぁーって思っただけだよ。それに、あたしにも弟がいるからさ、なんか同情するというか……」

「……」


 よ、米原……。

 俺はお前のことを誤解してたよ。

 取っ付きにくいやつだと思っていたが、本当は優しいんだな。

 お前がここにいてくれて、俺は今猛烈に感謝してるよ。


「それなら、本人に直接訊くことにするわ。璃央、起きてるんでしょ? 別にやましいものなんてないわよね?」


 やはり、瑠璃も俺が起きているのを見抜いていたのか。

 しょうがない、ここは潔く起きて弁明するか。


「……べ、別にやましいものなんてねぇよ。なんなら探してみてもいいぞ」

「じゃあ、遠慮なくー」


 俺が起きて発言した瞬間、牧本が俺のベッドの下に手を入れた。

 こいつは本当に躊躇がないな。


「何かないかなー? おっ! 雑誌があったぞ!」

「雑誌? それは健全なものなのかしら?」

「ええと……。これはファッション雑誌みたいだぞ」

「えっ? その雑誌って……」


 牧本が探し当てたのはファッション雑誌だ。

 それは、鈴音の写真が掲載されている雑誌だった。

 実は、鈴音がどのくらい人気を集めているか知るために、こっそりと雑誌を購入していたのだ。

 本人がいる前で暴露されるのは、さすがに恥ずかしいな。


「その……鈴音。いつも応援してるからな。これからも頑張れよ。あとSNSでの写真も一応見てるぞ。鈴音も結構人気者になったよな」

「璃央君! ありがとう! そして、ごめんなさい! 私のことを応援してくれてる人に、変な悪戯をするなんて……」

「いや……。別に気にしなくていいから。誰だって悪ノリしたくなるときもあるし……」

「璃央君……」

「はいはい、この件はこれで終了ねー」


 米原が突然俺と鈴音の会話に介入してきた。

 まあ、変な空気になりそうだったので、米原の判断は正しかったが。


「そういえば、体調は大丈夫なの?」

「体調か? このとおり元気いっぱいだぜ」

「それはよかったわね。でも、ぶり返すかもしれないから、今日はちゃんと休んでたほうがいいわよ」

「ああ、わかってるよ」

「それじゃあ、みんな。私の部屋に行きましょう」


 瑠璃は俺の部屋から出て行った。

 鈴音たちも瑠璃の部屋へ行こうとしている。

 しかし、牧本は何かを思い出したかのように、こちらに向かってきた。


「牧本、どうかしたのか?」

「あのさ、璃央の連絡先を教えてくれよ。この前交換しようって言ってたけど、結局できなかっただろ?」


 そういや、一か月くらい前にそんな約束をしていたな。

 ここはありがたく交換させてもらおう。

 牧本も一応女子だしな。


「おう、いいぞ」

「おい、今私に対して失礼なことを思わなかったか?」

「い、いや、そんなわけないだろ。考えすぎだ」

「違うならいいんだけどさ」


 ついに俺は、念願であった女子の連絡先を手に入れた。

 ここまで長い道のりだった。

 気がつくと牧本はいなくなり、目の前には鈴音が立っていた。

 もしかして、鈴音も交換してくれたりするのか?


「り、璃央君。も、もしよければ、私も璃央君と連絡先を交換したいなー。……なんて思ってるんだけど」


 やっぱりだ。

 ああ、今日はなんて運のいい日なのだろうか。


「あっ、でも、私じゃ嫌だよね? だって、璃央君の部屋を勝手に――」

「だ、大丈夫だ、交換しよう。いや、交換させてください」


 こうして鈴音とも連絡先を交換できた。

 鈴音のような美人と繋がれたことは、純粋に嬉しいことだ。

 今後、やり取りするときは、失言をしないように気をつけよう。


「ありがとう。じゃあ、またね。お大事に」

「おう、土産もありがとな」


 鈴音は瑠璃の部屋へ行ってしまった。

 しかし、なぜかまだ米原が俺の部屋にいたのである。

 これはもしかして……。


「あたしとも交換しようよ」

「べ、別にいいけど。俺たちってあんまり話すこととかないんじゃないか?」

「これからあるかもしれないでしょ。一応だよ、一応」

「そ、そうか、わかった。交換しよう」


 なんと今日だけで、三人の女子の連絡先をゲットしてしまったのだ。

 今まで女子の連絡先は、瑠璃のしかなかった。

 そう考えると、今日はかなりの大躍進を遂げたんじゃないか?

 あとで剛志と弘人に自慢してやろう。


「じゃあね」

「米原、ちょっと待ってくれ」

「……何?」

「今日は俺を庇ってくれて、ありがとな」

「別に……。あたしが思ったことを言っただけだし」

「お前は優しいってことが改めてわかったよ。これからも瑠璃のことをよろしくな」

「わかったよ。瑠璃のことは任せといて」


 そして、米原も瑠璃の部屋に行ってしまった。

 さっきまで賑やかだった部屋の中は、がらんとした雰囲気に包まれる。

 そのため、俺は物寂しさを覚えてしまう。

 そういえば、鈴音たちはどんな土産を持ってきてくれたのだろうか。

 早速確認してみるとしよう。


 一番目の袋の中には、栄養ドリンクが一ダース入っていた。

 これは牧本しか考えられんな。


 二番目の袋にはスポーツドリンクとゼリー飲料、ブロック型の栄養補助食品が入っていた。

 この気遣いのよさから察するに、きっとこれは鈴音が買ってきたものだろう。


 最後に米原の土産袋を開ける。

 なんと、袋の中身は大量のスナック菓子だった。

 米原ってスナック菓子が好きなのか。

 そういや、さっきも一人で黙々とお菓子を食べていたな。


 俺はみんなから貰った土産を摂取してから、薬を飲んでまた寝ることにした。

 自分では元気だと思っていたが、身体は意外に疲れていたらしい。

 すぐに眠りにつくことができた。







 再び起きたとき、時計を確認してみると午後七時を回っていた。

 体調もさっきより良くなっており、すごく身体が軽い。

 夕食は瑠璃がうどんを作って、わざわざ俺の部屋まで持ってきてくれた。

 その後、じいちゃんや瑠璃が部屋を訪れ、少し話をしたあと、俺は早めに寝る準備をする。


 携帯を確認してみると、牧本、鈴音、米原から連絡がきていた。

 瑠璃以外の女子とやり取りをするのは初めてなので、緊張して手が震えてしまう。 

 俺は冷や汗をかきながら、慎重にやり取りを重ねる。

 そして、なんとか全員に、「おやすみ」と送るところまでたどり着いた。

 しかし、やり取りを終わらせたはずの米原から、唐突に意味深な文章が送られてきたのである。


『璃央に相談したいことがあるんだ。直接じゃないと話しにくいから、風邪が治ったら二人だけで会ってくれる?』 

「……え?」


 突然の誘いに俺は動揺してしまう。

 すぐさまOKの返事を送り、米原とのやり取りを終了させた。 

 それにしても、米原から相談事か……。

 しかも、瑠璃ではなく俺に?


 もしや米原は、俺に好意を抱いているのか?

 異性と「二人だけで会う」ということは特別なイベントのはずだ。

 「相談がある」というのは建前で、本当は「二人だけで会いたい」というのが本音なのかもしれない。

 これは、脈アリじゃないか?

 女性経験が浅い俺は、ついそのように考えてしまう。


 送られてきた文章の意味を解明するために、俺は何度も頭を使って考えた。

 その結果、眠気が覚めてしまい、つい夜更かしをしてしまったのだ。

 結局、そのせいで風邪がぶり返して、案の定二日間も寝込んでしまったのだった。

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