第八話 双子と南條兄妹

 俺の心は苦しみで満たされていた。

 敦と接触したことで、よみがえった過去の記憶。

 それは想像を絶するものだった。

 何度も過去のつらい記憶がフラッシュバックして、頭がおかしくなりそうだ。

 おまけに、頭痛に胸の痛み、吐き気の症状が現れて今にも倒れそうになる。


 この原因を作ったのは敦だ。

 本当なら俺は瑠璃のように、敦への憎しみを抱いてもおかしくはない。 

 だが、俺は敦を赦した。

 敦の自傷行為のような謝罪。

 あれは本気の謝罪だったはずだ。

 それに、千歳のことを大切に想っているのも伝わった。

 だから、俺は敦を赦すことに決めたのだ。


 そう決めたはずなのだが、俺はまだ過去の記憶のせいで苦しんでいる。

 この記憶と向き合うには、まだまだ時間がかかりそうだ。







「お、おはよう、牧本」

「おお、おはよう。……って、どうした!? 目の隈がすげぇぞ!? それに、顔色もめちゃくちゃ悪いぞ!? 大丈夫か!?」

「だ、大丈夫だ。き、気にするな……」


 俺は毎朝、牧本と一緒にランニングをしている。

 俺の家と牧本の家は、徒歩十分くらいで行き来できるほど近い。

 ランニングをするときはいつも、どちらかの家の前で待ち合わせをしている。


 俺は過去の記憶がフラッシュバックしたせいで、昨日から一睡もしていない。

 なので、今日の早朝ランニングはしない、ということを牧本に連絡しようとした。


 だが、そもそも俺は、牧本の連絡先を知らなかったのである。

 運が悪いことに、今日は牧本の家の前で待ち合わせをする日だった。

 だから、俺はわざわざこうして直接伝えに来たというわけだ。


「すまん、牧本。今日は体調が悪くて、一緒に走れそうにないんだ」

「そ、それはいいんだけどさ、そんなにつらそうなら、連絡くれればよかったのに」

「俺はお前の連絡先を知らん」

「え? ああそうだっけか? とっくに交換してると思ってた。今するか?」

「残念だが、今は携帯を持ってないんだ」

「じゃあ、また今度な。ていうか瑠璃を通して、連絡すればよかったんじゃないか?」

「お前は瑠璃と連絡先を交換してるのか?」

「ああ、もちろんだ。毎日やり取りしてるぞ」


 それなら、瑠璃に頼めばよかったな。

 しかし、こんな朝早くに起こすのはさすがに気が引ける。

 今日のところは直接来て正解だったか……。


「それじゃ、伝えたぞ。また学校でな」

「璃央、ちょっと待てよ」

「ん? どうした?」

「これ、やるよ」


 牧本は俺に何かを渡してきた。

 これは……栄養ドリンクか?


「私がいつも愛飲してるやつだ。結構効くぞ」

「……ありがとな。あとで飲ませてもらうよ」

「いや、今飲めよ。それを飲んで、璃央には早く元気になってほしいんだ。空になった瓶は、私が処分しておくから心配するな。さあ、遠慮なく飲んでくれ」


 俺は牧本の優しさに感激してしまった。

 早速蓋を開け、栄養ドリンクを一気に流し込む。

 味は独特だったが、おかげで少しは元気が出たような気がした。







「璃央、お前大丈夫か?」


 昼休みの時間になり、俺と剛志と弘人は、いつものように三人で昼食をとっていた。

 今の俺には食欲がまったくない。

 瑠璃がせっかく作ってくれた朝食でさえ、一口も食べられなかったほどだ。

 そんなわけで、机の上には飲み物しか置いていなかった。 

 昨日の夜から一睡もせず、何も食べていない俺の身体は悲鳴をあげている。

 言葉には出してないが、見た目で体調が悪いと思われてもしょうがなかった。


「大丈夫だ。心配してくれて、ありがとな」

「……もしかして、南條敦と何かあったのかい?」

「……いや……」

「なんじょうあつし?」


 弘人は昨日敦と会っているので、この会話は成立する。

 しかし、剛志には誰のことかさっぱりわからないだろうな。

 事実、剛志は疑問符がついたような顔をしている。


「その南條敦ってのは璃央の知り合いか?」

「ああ。俺が記憶喪失になる前のな……」

「そいつと何かあったのか?」

「……いや、何もなかったよ」

「じゃあ、なんでそんなに――」

「今はただ体調がちょっと悪いだけだ。敦は関係ない。だから、心配しないでくれ。俺は大丈夫だ」

「璃央……」

「……そうか」


 俺は昨日のことを、二人には話したくなかった。

 いつか話してもいいと思ったが、今ではないと思い、つい嘘をついてしまったのだ。

 

 俺が記憶喪失だということは、二人に話している。

 家族以外で、俺が記憶喪失だと知っているのは、こいつらくらいだと思う。

 もしかしたら、瑠璃が米原たちに話しているかもしれない。

 しかし、瑠璃の性格からすると、話していない可能性もある。

 まあ、知られても特に困ることではないので、どっちでもいいがな。


「……そうか。あえて訊かないが、つらくなったら、俺たちのことも頼れよな」

「そうさ。僕たちじゃ少し頼りないかもしれないけど、話を聴くくらいはできるからね」

「ああ、そのときが来たら、また頼らせてもらうぞ」

「おう」

「任せといて」







 放課後、俺と瑠璃は昇降口まで来ていた。

 靴箱を開けてみると、黒い小袋と手紙が靴の上に置いてある。

 黒い小袋にはクッキーが入っており、紙には『ファイト』と書かれていた。

 俺の周りにはいいやつが結構いるもんだな。

 心の中でみんなに感謝をしてから、気持ちを切り替えた。


「璃央、大丈夫?」

「ああ、なんとかな……。だけど、瑠璃も大丈夫か?」

「え?」

「目の隈がすごいぞ? お前も緊張して、よく眠れなかったんだろ? 」

「そのとおりよ。でも、加害者である私が、自分勝手に傷ついて病むなんておかしいわよね。千歳さんのほうが何倍もつらかったのに……」


 瑠璃は珍しく弱々しい口調で喋っていた。

 どうやら瑠璃も、しっかりと反省はしているようだ。


「千歳さんは、こんな私のことを赦してくれるかしら……」

「俺たちはただ誠意を込めて謝るしかない。赦してもらえるまで何度も謝るんだ。俺たちにはそれしかできないんだよ」

「そ、そうよね」

「でも、大丈夫だ。俺がずっと一緒にいてやる。俺はどんなときでも瑠璃の味方だからな」

「璃央……。あ、ありがとう」


 瑠璃がいつでも味方でいてくれるように、俺も瑠璃の味方でいることに決めた。

 だって、瑠璃は大切な家族であり、世界中でたった一人の大切な姉なのだから。

 俺と瑠璃は覚悟を決めて、敦が待っている校門へと向かった。







「よお、璃央、瑠璃。待ってたぜ。昨日あったことは全部千歳に話しておいた。それに対する千歳の返答だが……」


 敦は渋い顔をしながら話す。

 ……やっぱりダメだったか?


「千歳も、お前らと会って話がしたいんだとよ」


 俺は敦を思わず疑ってしまう。

 敦は真剣な表情で俺たちを見ていた。

 どうやら、嘘はついていないようだな。


「ありがとな、敦。しかし、千歳もよく会ってくれる気になったな」

「俺に礼なんて必要ねぇよ。今回の千歳の件も俺の身から出た錆なんだ。俺も千歳にはちゃんと謝んねえといけねぇしな。だが、正直俺も千歳が『お前らと会いたい』なんてことを口にするとは思ってもみなかったぜ。……ところで、お前ら二人とも目の隈がすげえが大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だ。心配しなくていい」

「そうかよ……。じゃあ、行くぞ。俺についてこい」


 それから、俺たちは一時間ほど歩いた。

 そして敦は、ある家の前で歩くのをやめたである。

 目の前には、二階建てのごく普通の一軒家があった。

 どうやらここが南條家のようだ。

 敦は家の鍵を開け、中に入る。

 俺と瑠璃も敦のあとに続いた。


「親父とお袋は仕事で、夜遅くまで帰ってこない。だから、ゆっくりと話ができる。千歳を呼んでくるから、お前らはリビングで待っててくれ」


 そう言い残し、敦は二階へ上がっていく。

 俺たちは千歳が現れるまで、リビングで正座をして待つ。


「……お前ら、千歳を連れて来たぞ」


 数分後、敦と千歳が二階から下りてきた。

 千歳は一週間前と比べると、少しやつれているような気がする。

 それに、俺たちのことを見て怯えているようだ。

 千歳は目の前のテーブルを挟んで、俺と向き合う形で座る。

 千歳の右隣には敦が座っていた。


「……」

「……」


 重い沈黙が続く。

 俺から話を切り出そうと思ったが、先に瑠璃が勢いよく立ち上がった。


「千歳さん! この間はごめんなさい! 私は何の罪もないあなたを責めて、傷つけてしまいました! 本当にごめんなさい!」


 瑠璃は頭を深々と下げる。

 それから、はっきりとした口調で謝罪をした。


「瑠璃の暴走を止められなかったのは、俺のせいでもある! 都合がいいことを言うようで申し訳ないが、瑠璃のことを赦してやってくれないか!? 瑠璃も反省してるんだ! ごめんなさい!」


 俺も頭を深く下げて、千歳に謝罪をする。

 ……しまった!

 赦すのは千歳が決めることなのに、つい赦しを乞うような言葉を使ってしまった。

 これは失言だ。

 まったく、自分の浅はかさが嫌になる。 


「千歳! そもそも今回の件の原因は全部俺にあるんだ! そのせいで千歳を巻き込んじまった! こんな迷惑をかけるような情けない兄でごめん!」


 敦も千歳に謝罪をしていた。

 敦の目には涙が溜まっている。

 千歳は全員の謝罪を聴いてから、しばらく沈黙していた。

 そして、決意を固めたような表情を作ってから、俺たちの姿をその瞳に捉えたのである。


「皆さんの謝罪の気持ちは受け取りました。ですが、まだ心に引っかかっている部分もあります」


 千歳の声量は小さかったが、はっきりと聴こえてくる。

 まず、千歳は俺に眼差しを向けた。


「璃央さん。今回の件については、あなたの悪いところは一つもありません。むしろ、あなたが一番の被害者という立場にあります。私と兄のせいですみませんでした。改めて謝罪をさせてください」


 千歳は俺に対して頭を下げて謝罪をした。

 前回とは違い迷いのない瞳をしている。

 次に千歳は瑠璃のほうへ顔を向けた。


「瑠璃さん。あなたの言動は、すべて璃央さんを想ってのことだと強く感じました。あなたの立場になって考えてみると、私も似たようなことをしたかもしれません。しかし、あなたの言動で私が傷ついたのも事実です。ですが、あなたの謝罪は誠意があるように思えました。なので、私はあなたのことを赦します」


 意外なことに千歳は瑠璃を赦してくれた。

 瑠璃はホッとしたような表情をしている。


「千歳さん。私を赦してくれて、ありがとう……」


 瑠璃は緩んだ表情から真剣な表情に戻し、千歳に対して感謝の言葉を伝える。

 俺も瑠璃が千歳に赦されたことに安堵した。

 最後に千歳は兄である敦を見つめる。


「兄さん。あなた自身が先ほど言ったように、今回の件の原因はすべてあなたが招いたことです。あなたのした行為は最低で最悪です。私はあなたのことが嫌いでした。ですが、あなたがいじめの標的にされたときから、私の心境が変わったのです。最初は自業自得だと思っていました。だけど、いじめられて少しずつおかしくなっていく兄さんを見て、いじめるのをやめてほしいと思うようにもなりました」

「ち、千歳……」

「兄さんはいじめられたのがきっかけで、前よりも他人に優しくなりました。しかし、私はずっと疑っていたのです。ですが、あなたは璃央さんに謝罪をし、赦されました」


 千歳はまたこちらを向きその瞳に俺を捉えた。

 敦と同様に、目が潤んで涙が溜まっている。


「璃央さん。私の兄を赦していただきありがとうございます。あなたの赦しによって、私も兄も救われました。私は、今まで兄のした行為の責任は、自分にもあると自負してきました。そして、その罪悪感から、今まで自分自身を傷つけてきました。ですが、あなたの赦しのおかげで、兄を赦すことができ、私もようやく自分を赦せそうです」


 千歳は涙を流しながら、俺に深々と頭を下げた。

 兄への想い、葛藤、そして、罪悪感。

 千歳は小さな身体に、こんなにも大きな爆弾を抱えて、今まで生きてきたのか。

 さぞかしつらかっただろう。

 

「……千歳、正直に話してくれてありがとう。改めて言わせてもらう。俺は敦を赦すよ。千歳はもう悩まなくていいんだ。これからは、新たな未来を歩んでほしい。これは俺の願いでもある。それに、瑠璃を……俺の大切な家族を赦してくれて、ありがとう」

「私も再度お礼を言わせてもらいます。私と兄を赦していただきありがとうございました」


 こうして瑠璃と敦は千歳に赦された。

 これで南條兄妹とのわだかまりも、少しは解決できそうだな。


「千歳……。こんな不甲斐ない俺を赦してくれてありがとな」

「兄さん、これから頑張っていけばいいんだよ。だから、泣かないで……」


 敦は目に涙を浮かべながら、千歳と話していた。

 そんな敦を、千歳は笑顔を作って慰めている。

 その様子を見ていたら、俺は敦に対して、ある感情が湧き出てきた。


「敦、ちょっといいか」

「……どうした?」

「俺はお前がやったことを赦す。だけど、約束してほしいことが二つあるんだ」

「お、おう……。何だよ、その約束っていうのは?」

「一つ目は、もう二度と誰かをいじめたりしないこと。そして、二つ目は、これから千歳を悲しませる行為をしないことだ。今回の件で、お前は千歳に大きな借りができたはずだろ? お前はその借りを返すんだよ。家族である千歳を大切にすることでな。この約束を守れるか?」


 俺は敦に近づき、瞳を覗きこんだ。

 敦は泣いている自分の顔を、両手でパンッと叩いたあと、真剣な顔つきになる。

 それから、にらむような目つきで俺を見てきた。


「そんなの言われるまでもねぇ! 俺はいじめなんてもんは二度としねえし、千歳をこれからも大切な家族として守っていくぜ!」

「……お前の気持ちは伝わったよ。これからも精進してくれ」


 こうして、俺と敦は約束を交わし、固い握手をしたのだった。

  

「千歳、最後に訊いていいか? その……学校には行けそうなのか?」


 大元の問題は解決した。

 だけど、千歳はすぐに学校に通えないかもしれない。

 俺はそんな不安を持っていたのだ。


「学校ですか……。できれば、明日にでも行きたいですが、体力面で不安がありますね……」


 やっぱりそうか……。

 さすがに一週間も引きこもっていれば、不安にもなるよな。


「おい、璃央。それは過干渉じゃねぇか? これはウチの問題だ。そんでよ、俺の妹はなぁ、強いんだよ。心も身体もな。すぐに学校にも行けるようになるに決まってんだろ」

「に、兄さん……」

「安心しろ、千歳。これから毎日一緒に登校してやるからよ」

「そ、それは恥ずかしいからやめて……」

「何ぃ!?」


 この兄妹も少しは仲良くなっているようだ。

 これからも兄妹で支えあって暮らしてほしい、と俺は思った。


「千歳、これも返すよ」


 俺は前に貰った、封筒を千歳に返す。

 もちろん、中身はそのままだ。


「あっ……はい……すみません。ありがとうございます」

「おい、千歳。これは何だぁ?」

「に、兄さんには関係ないよ!」

「いいから見せろよ!」


 敦は千歳から封筒を奪って中身を確認した。

 敦は一瞬不思議な顔をしたが、すぐに俺をにらみつけてきた。


「おいおい、こんな大金どうしたんだ? おい、璃央。てめぇ、俺の妹からカツアゲでもしたのかぁ?」

「そ、そんなことはしていない!」


 俺は封筒を今返したことに後悔した。

 まったく、何をやっているんだ、俺は……。


「に、兄さん、聴いて。それは私が……」

「てめぇ! これはゆるさねぇぞ!」

「ち、違うんだ!」


 お金の件を敦に理解してもらうまで、一悶着あった。

 しかし、千歳がちゃんと説明してくれたおかげで、なんとか敦の勘違いを解くことができたのである。






 帰宅後、すでにじいちゃんは家に帰ってきていた。

 事情を知らないじいちゃんは呑気に、「ご飯はまだかのぉー」などと言っている。

 俺も瑠璃もあまり寝ていないので、夕食を作れるような状態ではない。

 けれども、じいちゃんに余計な心配をかけたくなかったので、俺たちは協力して夕食を作り上げた。


 夕食の際、自然と食べ物が喉を通るようになっていて、久しぶりにご飯を三杯もおかわりした。

 とりあえず、食欲は戻ったようだ。

 俺はそのことに安心感を覚えた。


「……なあ、璃央。何かあったじゃろ?」


 瑠璃が風呂に入っているとき、じいちゃんが唐突にそんな質問をしてきたのである。

 じいちゃんがあまりにも真剣な顔をしていたので、これは言い訳できないなと思った。

 なので、俺の記憶の一部が戻ったことや、敦と千歳の件をじいちゃんにすべて話す。


「そうか、そんなことが……」

「ごめん、じいちゃん。黙ってて悪かったよ」


 じいちゃんは何か思い詰めたような顔を一瞬する。

 しかし、すぐに笑顔になった。


「仲間外れはいかんのー。そういう大事なことは、ワシにも相談してほしかったぞい。というか前にも、相談をしてほしいと言ったじゃろ?」

「……わかった。次何かあったら、必ずじいちゃんにも話すよ」

「約束じゃぞ? 破ったら一緒に風呂に入ってもらうからのー」

「絶対言うわ」


 そのとき、ちょうど瑠璃が風呂から出てきた。

 俺は話を切り上げて、じいちゃんに先に風呂へ入るよう促す。

 するとじいちゃんは、素直にそのまま風呂場へと向かっていった。


「おじいちゃんと何を話してたの?」

「これからは、『何かあったら必ず相談してほしい』だってさ」

「そう……」

「どうした? そんな難しい顔して?」

「ねぇ、璃央。今日もあなたの部屋へ行ってもいい? 大事な話があるの」

「……別にいいが、最近よく俺の部屋に来たがるな?」

「何かいけないの?」

「いや、いけないわけじゃないが」

「じゃあ、あとで行くわね」

「お、おい……」


 瑠璃と一緒に話すことは別に嫌ではない。

 問題は瑠璃の服装にある。

 今の時期の瑠璃の部屋着はかなり薄着なのだ。

 姉に欲情するようなことは決してないが、目のやり場に困るときがあるのがネックだ。


 ……まあ、そんなに気にすることでもないか。

 いつもどおりに接することにしよう。







 自分の部屋のベッドで寝転んでいると、扉をノックする音が聞こえた。

 ノックをした直後、瑠璃が俺の部屋に入ってくる。


「こんばんは、璃央」

「おう。それで、今日は何の用だ? もしかして、千歳の件のお礼でも言いにきたのか?」

「あら、察しがいいわね。璃央の言うとおり、今日もお礼を言いに来たのよ」

「お礼なら帰り道で散々してくれただろ? 本当にお礼を言いたかっただけなのか?」


 瑠璃は急にうつむいて黙ってしまった。

 そのままベッドに腰かけている俺に近づいてくる。

 瑠璃は昨日と同じようにベッドに腰かけた。

 それから、俺のすぐ隣まで詰め寄り、目をじっと見つめてきたのだ。

 なんだかいつもより、瑠璃の距離感が近いような気がするな。


「璃央、ありがとう。あなたのおかげで、いろんな問題が解決できたわ。あなたには助けられてばっかりね」

「それはお互い様だろ。瑠璃がいたから俺もここまでやれたんだぜ?」

「そ、そうよね……。お互い様よね……」


 次の瞬間、なんと瑠璃はいきなり抱きついてきたのだ。

 シャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、温かい体温が仄かに伝わってくる。


「る、瑠璃? いきなりどうしたんだ?」

「これは………あなたへのご褒美よ」

「ご、ご褒美?」

「あなたは頑張ったんだから、何かご褒美が必要でしょ?」


 実の姉に抱きつかれるのがご褒美だと?

 俺は別にそうは思わないんだけどな……。


「それじゃ、ありがたく受け取っておくよ。そういや、これが俺へのご褒美なら、瑠璃へのご褒美はどうすればいいんだ?」

「……じゃあ、私のことも抱きしめなさいよ」


 瑠璃はか細い声でそう言った。

 おいおい、いくら姉弟といっても、お互いに抱きしめあうのはダメだろ。

 しかしながら、今日は瑠璃も頑張った。

 だから、そんな瑠璃にもご褒美は必要だよな。

 ここは瑠璃の意見を尊重して、言うとおりにしてやるか。


「……しょうがないな。少しだけだぞ?」


 俺はガラスを扱うときのように、瑠璃を優しく抱きしめる。

 瑠璃の身体は前より細くなっていた。

 どうやら、瑠璃もあまり食事がとれていなかったようだ。


「んっ……」

「おい、変な声を出すなよ。というか、本当にこれでいいのか?」

「これがいいのよ。璃央、ありがとう」

「お礼を言われるほど、大したことはしてねーよ」


 こんな姿を誰かに見られたら、確実にシスコン認定されてしまうだろうな。

 でも、それは瑠璃も同じか。

 ほんと俺たちはどうしようもない姉弟だな。


「ねぇ、璃央。知ってる?」

「……何をだ?」

「ハグをするとストレスが軽減されるらしいわ」

「それは知らなかったな。でも、それって恋人とか夫婦とか、何かしらの条件があるんじゃないのか?」

「確かに条件はあるわ。もちろん、恋人と夫婦には効果があるわね。でも、一番重要なのは『自分にとって大切な人』とハグすることなのよ」

「大切な人? まあ、瑠璃は家族だから、大切な人ではあるな」

「私も璃央のことを、大切な人だと思っているわ。……それで、私とのハグで、過去の記憶のストレスは軽減できたのかしら?」


 瑠璃は真剣な眼差しで、俺を見つめてくる。

 どうやら瑠璃にはお見通しだったらしい。

 確かに瑠璃は大切な家族だ。

 だけど、家族とハグをしたくらいじゃ、このつらい気持ちは何も変わらない。

 しかし、今の気持ちをそのまま伝えるのは、あまりにも失礼な気がする。

 ここは瑠璃に悟られないように、上手く誤魔化すのがよさそうだな。


「……瑠璃のおかげで少し楽になったよ。ありがとう」

「……それならいいけど、また嘘とかついてないわよね?」

「もちろんだ。瑠璃はどうなんだよ? ハグの効果はあったのか?」

「私は今とっても幸せな気分よ。璃央に抱きしめられて、すごく嬉しいわ。こうしていると、嫌なことも全部忘れられそうよ」

「じゃあ、お互いに効果ありってことだな」

「ええ、そうね。今後ストレスが溜まったら、定期的にハグしたいくらい効果があるわ」

「そ、それはちょっと考えさせてくれ……」

「冗談よ。……ねぇ、もう少しこのままでもいい?」

「……ああ、いいぞ」


 それから俺たちは、一言も言葉を交わさずに、しばらくお互いを抱きしめあった。







「……璃央。もう離してくれていいわよ」

「わかった」


 瑠璃は満足したのか、俺の背中に回した腕を離した。

 同時に、俺も瑠璃の背中に回した腕を離す。


「璃央、ありがとう。今日はよく眠れそうな気がしてきたわ。じゃあ、私は部屋に戻るわね」

「おう」

「おやすみ、璃央」

「おやすみ、瑠璃」


 瑠璃はにこやかな表情で、自分の部屋へと戻っていく。

 瑠璃の一連の行動には多少驚いた。

 だけど、俺を大切にしてくれている、という想いは十分感じ取れる。

 

 今日は眠れるか不安だったが、自然とまぶたも重くなり、うとうとしてきた。

 「大切な人とハグをするとストレスを軽減してくれる」という話は、あながち嘘ではないらしい。

 さっきはハグくらいじゃ何も変わらないと思っていたが、それなりに効果はあったようだ。


 これも瑠璃が気を遣ってくれたおかげだな。

 ありがとな、瑠璃。

 俺は瑠璃に感謝をしながら、そのまま深い眠りに落ちていった。

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