第七話 双子と敦
俺はある夢を見た。
夢の内容は決して楽しいものではない。
むかつくからという理由で、理不尽な暴力を受けた。
心ない悪口を言われた。
教科書や机に落書きをされた。
みんなのいる前でズボンとパンツを下ろされ、恥ずかしい思いもした。
俺はまったくいじめに抵抗できなかった。
いや、しなかったというのが正しい。
俺の心は折れており、耐え続けるしかなかった。
どうやらこれは、俺が過去に体験したことの一部のようだ。
これから、思い出したくもない過去の記憶がもっと出てくるかもしれない。
そうなったら、俺の心はいったいどうなってしまうのだろうか。
「はぁ……はぁ……」
俺はなんとか夢から目覚めることができた。
悪夢なんて久しぶりに見たぞ。
嫌な汗をじんわりとかいて気持ちが悪い。
同時に、頭痛と吐き気が襲ってくる。
時刻を確認すると、まだ午前一時だった。
二度寝しよう。
そう思ったが、悪夢を見るのが怖くてできなかった。
「かっこわりぃな、俺……」
俺は朝になるまで、ひたすらベッドの上で天井を眺めるしかなかった。
「すまん! 璃央! 私は約束を破ってしまった!」
「……牧本、お前が反省しているのはよくわかった。瑠璃に言われたから、仕方なく俺の行動を監視したんだろ? でもな、一週間も俺に謝り続ける必要はないんだぞ」
「友達との約束を破ったことは事実だろ? 私は瑠璃の計画に加担して、お前を嵌めたんだ。私はそんな自分を許せないんだよ……。そうだ! 罰として、一つだけ璃央の願いを何でも叶える、っていうのはどうだ?」
牧本はいいやつなんだが、自分を安く見すぎている。
ん? 待てよ。
今何でもって言ったような……。
「お、おい、璃央。顔がなんか怖いぞ。な、何でもっていっても、エッチなのは無理だからな!」
「そんなことしねぇよ。お前は俺をなんだと思ってるんだ」
「元パンツ覗き魔」
「すまん、悪かった。その言葉は効くからやめてくれ」
「は、早く願いを言えよ!」
「じゃあ、これからも瑠璃と仲良くしてやってくれ」
「え? そんなことでいいのか?」
こいつは俺のことをどんな目で見ているのだろうか。
まあ、これも俺の身から出た錆なのだから、仕方のないことか。
「俺は瑠璃が友達と仲良くしてるだけで嬉しいんだ。ついでに、瑠璃が暴走したときに、止めてくれると助かるな」
「お、おう、任せとけ。あ、でも瑠璃を止めるっていうのは難しいかもな。この前も一応止めようとしたけど、怖くて無理だったんだ」
「すまん、迷惑かけたな。やっぱ瑠璃と仲良くしてくれるだけでいいぞ。暴走したら俺がなんとかする」
俺はいつもより走るペースを上げた。
今は何かに集中していたほうが、いろいろ考えなくて楽だったからだ。
一週間前、俺と瑠璃は千歳に謝罪をするために、一年生のクラスを訪れた。
千歳はその日、学校を休んでいたらしい。
俺たちは、千歳が登校したら、また改めて謝罪をしにいこうと思っていた。
しかし、それから毎日千歳のクラスを訪れても、彼女は学校に来ていなかったのだ。
そんなこんなで、一週間が経ってしまった。
俺たちのせいで、罪の無い後輩を「不登校」という形に追い込んでしまったのだ。
瑠璃もさすがにまずいと思ったのか、かなり焦っているようだった。
「あっ! やっと見つけたよ。ここにいたんだね」
「鈴音? 何か用か?」
屋上で昼食をとっていると、鈴音が現れる。
剛志と弘人は小テストの追試でいなかったので、現在俺は一人だった。
二人とも部活があるので、放課後に追試をする時間がとれない。
なので、二人は昼休みに追試をしているのだ。
ちなみに俺はなんとか合格できた。
かなりギリギリだったがな。
空き教室で一人寂しく食うのは味気ない。
だから、俺はこうやって屋上で青い空を眺めながら、昼飯を食っているというわけだ。
「ねぇ、璃央君。体調は大丈夫? 顔色が悪かったから心配してたんだよ?」
「心配してくれて、ありがとな。実は、最近いろいろあって、ちょっと疲れてるんだ」
「そうなんだ……。瑠璃ちゃんも体調が悪そうだったけど、もしかして、同じ悩みを抱えてるのかな? 私にできることがあったら手伝うよ」
「鈴音、それは……」
「ご、ごめん! いきなりこんなこと言って迷惑だったよね? 私はただ二人が心配で……」
「迷惑だなんて思ってないよ。瑠璃のことも心配してくれてありがとな。だけど、今抱えてる問題は俺と瑠璃が解決しないといけないんだ」
「そう……。じゃあ、これだけでも受け取ってくれるかな?」
鈴音はピンク色のかわいらしい小袋を渡してきた。
中身を開けてみると、ペンギンの形をしたクッキーが複数入っている。
「……これは?」
「璃央君のために作ったクッキーだよ。私、こう見えてお菓子作りとか結構得意なんだ。早く元気になってほしくて、璃央君が好きなペンギンの形をしたクッキーを作ったんだよ?」
「ありがとな、鈴音。だけど、俺の好きな動物がペンギンだってことをよく知ってたな? たしか、鈴音には言ってなかったはずだが……。瑠璃に教えてもらったのか?」
「……そうだよ。ペンギンが好きとか、璃央君も可愛いところあるよね。ささ、食べて感想を教えてよ。一応、味見はしたから大丈夫だと思うけど」
鈴音にありがたみを感じながら、クッキーを一つ、つまんでみる。
クッキーはサクサクして甘さもちょうどよくて、俺好みの味だった。
「うまいよ。市販で売っているものより何倍も」
「ふふっ、ありがとう。作った甲斐があったよ」
鈴音は笑いながら、俺の隣に座る。
この距離感は最近やっと慣れてきた。
だが、それでも鈴音ほどの美少女がすぐ近くにいると緊張する。
「鈴音はさ……。どうしてそんなに優しくしてくれるんだ? いくら隣の席でよく話すといっても、これでも一応、俺も男なんだぜ?」
「それはね、璃央君が私のタイプだからかな……」
「んぐっ!」
「大丈夫!? はい、お水!」
咄嗟に鈴音から水が入ったペットボトルを渡される。
俺は自分が用意した飲み物があるにもかかわらず、それを飲んでしまった。
どうやら、この水は飲みかけのようだ。
もしや、これは間接キスでは?
……俺はあまり意識しないようにした。
「はぁ、はぁ……。す、鈴音、ありがとな……」
「ごめんごめん、ちょっとからかいすぎたかな? でもね、璃央君。私は璃央君が隣の席でよかったと思ってるよ。この三か月とちょっとの間、璃央君と話すのはすごく楽しかった。あと前にショッピングモールで遊んだときも楽しかったよ。それに、璃央くんからプレゼントも貰えたから、私はすごく嬉しかったんだ」
「プレゼント……? ああ、あの猫のぬいぐるみか」
「あのぬいぐるみには、『リオくん』って名前をつけて、毎日一緒に寝てるんだよ?」
「お、おい。からかうのはよせよ」
鈴音は本当にからかうのが好きだな。
たまに嘘かホントかわからなくなる。
でも、鈴音と話をしていたら、不思議と気持ちが楽になってきたな。
「どう? 少しは楽になった? 私は璃央君の役に立てたかな?」
「ああ、ありがとな、鈴音。おかげで気が晴れたよ」
「それならよかった。私はいつでも璃央君の味方だからね。それじゃあ、私は先に教室に戻ります。クッキー、しっかりと味わって食べてね」
「おう」
鈴音は軽い足取りで階段を下りていく。
その後、俺はクッキーを最後まで食べきった。
喉が渇いたので、さっき鈴音から貰った水を飲もうとしたが、なぜか手元にはなかった。
まさか、あれ、持っていったのか?
……俺は深く考えないようにした。
放課後、誰もいなくなった教室で、俺と瑠璃は千歳についての話し合いをしていた。
その結果、俺たちは千歳の家に行き、直接謝罪をしようと考えたのだ。
そのために、まずは千歳の担任の先生に、家の場所を教えてもらわないといけない。
俺たちは先生と話をするために職員室へと向かった。
「おーい! 璃央! 瑠璃ちゃん!」
その途中、弘人が走ってこちらにやってきた。
弘人はだいぶ焦っている表情をしていたので、何事かと思い少し心配になる。
「どうしたんだ、弘人? 何かあったのか?」
「き、聴いてくれよ。さっき、校門の近くを通ったときに、知らないやつに捕まってさ。君たちを呼んで来いって命令されたんだ。つり目で悪そうな顔をしたやつだったよ。制服が違うから、たぶん他校の生徒なんだと思うけど……。君たち何かしたのかい?」
「弘人君、その人の名前は訊いたの?」
「う、うん。たしか、『
『
それは先日聞いた名前だった。
千歳の兄であり、俺を昔いじめていたやつの名前だ。
俺はまた胸がチクリと痛くなった。
瑠璃は俺を心配して、手を優しく握ってくれる。
しかし、表情には憎しみのようなものがこもっている。
さらには怒気もはらんでいるようだった。
「璃央、大丈夫?」
「だ、大丈夫だ。南條敦に会いに行こう。やつから住所と千歳の状態を訊き出すぞ」
「ええ」
「弘人、ありがとう。また明日な」
「今どんな状況か知らないけど、頑張れよ、璃央」
「ああ」
俺と瑠璃は弘人と別れ、南條敦に会いに行く。
校門に着くと、短髪でつり目の柄が悪そうな男が一人で立っている。
あいつが南條敦……。
過去に俺をいじめていたやつか。
俺は一瞬だが、南條敦という人物に恐怖心を抱いた。
だが、今は瑠璃も一緒にいる。
大丈夫、怖がることはない。
敦は夕暮れの空を見ながら黄昏ている。
俺たちが近づくと、敦もこちらに気づいた。
そして、敦のほうから口を開く。
「よお、久しぶりだな、璃央。それとお前は、たしか、瑠璃だったか?」
敦は妙に馴れ馴れしく話しかけてきた。
大丈夫、俺は冷静だ。
「久しぶり、と言いたいところだが、今の俺にはお前との記憶はない。残念だったな」
「……そうだったな。今日はお前らに話があってここまで来たが、こんな場所じゃ話せねぇ。場所を移すぞ。俺に付いてこい」
敦はポケットに手を入れ、がに股で歩き始める。
とりあえず、俺たちは敦に付いていくことにした。
今のところ、体調に変化はない。
ついでに、瑠璃の状態も確かめる。
瑠璃は何か言いたげな顔をしていたが、なんとか我慢してくれていたようだった。
そのせいか、握っている手に伝わる力が、かなり強い。
正直、痛いくらいだ。
俺たちは、学校近くの広い公園の中にある、高い木々がたくさん生い茂る区画に到着した。
ここは昼でも薄暗く、人があまり通らない場所だ。
敦はそこで立ち止まってから、こちらへ振り返り、俺と瑠璃と向き合う形となる。
俺はかなり緊張していて、敦の顔をまともに見られずに、目が泳いでいた。
「……」
「……」
長い沈黙が続く。
どうやら敦も、こちらの出方を伺っているようだった。
「……俺の妹が、お前らと同じ高校に入学したのは知ってるな?」
敦がついに沈黙を破る。
その瞬間、辺りの音は聞こえなくなり、敦の低い声だけが響き渡る。
「一週間前までは元気に登校してたんだ。だが、ある日を境に部屋に引きこもるようになったんだよ。お前らはその理由を知ってるよな? シラを切るなよ? 俺は全部わかってるんだからな?」
敦は千歳の話を始める。
俺のイメージでは、妹のことなんて気にしないような非情な人物だと思っていた。
なんだか違和感があるな。
「お前らが妹をいじめたんだろ? そうだよな? 妹が言ってたんだよ。『羽ヶ崎さん、ごめんなさい』って何度も何度もな!」
敦の声量が大きくなり始める。
瑠璃の顔を見ると、ついに我慢の限界を迎えたようで、今にも怒り出しそうだった。
まずいな……。
ここで言い合いになったら、千歳のことが訊けなくなる。
「お、落ち着け――」
「そうよ。私が彼女をいじめたの」
俺がフォローに入る前に、瑠璃が冷たく言い放つ。
一方、敦は軽く舌打ちをする。
「千歳さんが不登校になった原因は私にあるわ」
「そうか……! お前のせいか……瑠璃!」
敦がズカズカとこちらに向かって来る。
俺は咄嗟に瑠璃を庇うような態勢をとった。
「すまなかった! 璃央、瑠璃! 妹を赦してやってくれ!」
「……え?」
なんと敦は、土下座をして謝罪の言葉を述べていた。
その瞬間、俺の敦に対するイメージは崩壊する。
「……どういうつもり? 今さら謝罪なんて」
「お、俺は反省したんだ! お前らにひどいことをしたという事実は消えない! だから、俺自身のことは赦してくれなくてもいい! だけど、妹は、千歳のことは赦してやってくれ! 千歳は関係ないんだ!」
現実の敦は、夢で出てきたいじめっ子とは真逆の性格だった。
頭を地面に何度も打ちつけるようにして、謝罪の言葉を述べている。
「何か勘違いをしてるわね。本当に反省したか決めるのはあんたじゃない! 私たちなのよ! 自分勝手に反省して、謝罪を一方的にするなんておかしいと思わないの!?」
瑠璃は敦と距離を詰め、声を荒らげた。
ダメだ、これでは話が平行線になる。
俺も内心穏やかではないが、目の前の二人よりは平静を保てている。
ここは俺がなんとかしなければ。
「敦、瑠璃。二人とも、いったん落ち着いてくれ。もう少し冷静に話そう」
俺は勇気を出して、二人の間に割って入った。
しかし、瑠璃の怒りは収まらず、俺にも厳しい表情を向ける。
「そいつが原因で、璃央はつらい目にあったのよ! そいつだけは赦しちゃいけないの!」
「瑠璃、ひとまず我慢してくれ。俺は敦と話がしたいんだ。これは千歳のためでもあるんだ。だから、頼む」
俺は瑠璃の手を優しく握り、なだめる。
暴走寸前の瑠璃は俺の手を固く握り返した。
瑠璃の目には涙が溜まっていて、顔も怒りのせいで真っ赤になっている。
「俺のためにこんなに怒ってくれてありがとう。少しは落ち着いたか?」
「う、うん。少しは……ね」
次第に瑠璃の握る手が柔らかくなってきた。
よかった、これで敦と話ができる。
敦のほうを振り返ると、いまだに頭を地面に擦り続けていた。
「敦、顔を上げてくれ。お前と話がしたい」
敦はゆっくりと顔を上げた。
額は切れて出血しており、目には涙を浮かべている。
「お前は、反省している、と言ったよな……。それに、謝罪もした。もしかして、千歳のこと以外で、反省するきっかけになった原因があるんじゃないか?」
「あ、ああ……。あるよ」
「それを話してくれ」
俺は敦の言動について、疑問を持っていた。
夢の中での敦は酷いやつだった。
だが、今の敦からは邪気を感じられない。
こいつが変わった理由が何かしらあるはずだ。
「お、俺はお前が別の中学校に転校したあと、新たないじめの対象になったんだよ。それが中学卒業まで続いたんだ。俺はいじめられているときに思ったんだよ。お前はこんなにもつらい目にあってたんだな、って。そ、それから、俺は変わろうと思ったんだよ。今まで謝罪に行けなくて本当に悪かった。お、俺には謝罪をする勇気がなかったんだよ」
敦の言葉を聴いて、記憶が鮮明によみがえる。
そして、それが徐々に脳内を満たしていく。
理不尽な暴力。
集団で無視されたこと。
教科書や机への落書き。
大勢がいるなかで下着を脱がされたこと。
靴を隠され、上履きで帰ったこと。
生きている虫を食わされたこと。
給食を全部牛乳まみれにされたこと。
外見を馬鹿にされたこと。
帰り道でみんなの荷物を全部持たされたこと。
好きでもない人に告白を強要されたこと。
死ねばいいのに、と言われたこと。
水泳の授業で、溺れる直前まで水の中で押さえつけられたこと。
掃除を全部一人でやらされたこと。
川や池に落とされたこと。
全部じゃないが、ほぼ思い出した。
これが俺の過去の記憶。
ついこの間まで、大したことじゃない、と思っていたが、これはつらい。
瑠璃が怒るのもわかる。
もし瑠璃がこんな目にあっていたら、俺も怒り狂うだろうな。
すると突然、頭と胸が激しく痛み、その場に立っていられなくなった。
俺は地面に片膝をついて倒れそうになる。
「璃央!」
倒れそうになる俺を、瑠璃が支えてくれる。
そのおかげで、俺はなんとか持ち直すことができた。
「お、おい。大丈夫かよ? 」
「あんたのせいでこうなってるのよ! 見てわからないの!?」
「お、俺は大丈夫だ。敦、話を続けるぞ……」
本音を言うと、頭痛と吐き気で全然大丈夫じゃない。
だが、敦には訊きたいことがあった。
「敦、お前はどんないじめにあったんだ?」
「お、俺は……お前にやったことは全部やられたよ。頭がおかしくなりそうだった。だけど、璃央、お前はすげぇよ。あれを全部耐えてたんだからよ。ほ、本当にすまなかった」
敦の嗚咽する声が漏れる。
そうか、お前も俺と同じ目に……。
俺は、いじめが平然と行われていたあの環境も悪かったのではないか、と思い始めた。
現在俺は敦に同情し、哀れみさえ覚えてしまっている。
敦は再度地面に頭を擦りつけ、謝罪の言葉を何度も言い続けていた。
お前もつらかったよなぁ。
お前はよく頑張ったよ。
しかも、お前は今自分のためじゃなくて、大切な妹のことを想って謝罪をしている。
ちゃんと反省してるじゃないか。
『敦のことを憎いとは思わないのかい?』
もう一人の俺が心の中で突然話しかけてきた。
俺も心の中で話しかける。
「……ああ、なぜか憎しみはない」
『キミには、復讐する権利があると思うけど』
「復讐か……。でも、敦はもう罰を十分に受けている。これ以上こいつを苦しめても、意味はない」
『反省は嘘かもしれないよ?』
「少なくとも、妹のことについては本気で言っていると思ってるぞ。俺は敦を信じるよ」
『瑠璃は赦してくれるかな?』
「それは瑠璃次第だな。もちろん、瑠璃の気持ちを無理に曲げることはできない。そのことは、わかってるつもりだ」
『キミは敦を赦すのかい?』
「敦が犯した罪は消えない。だが、敦の謝罪は本気だと思う。だから、俺は敦を赦してやろうと思ってるんだ」
『キミはお人好しだね。僕はまだ赦せそうにはない』
「お人好し……ではないな。お前が赦せない、ってことは、俺自身もどこかで赦せないと思ってる、ってことだろ?」
『その気持ちがあるのに、赦すのは矛盾してないかい?』
「たしかに矛盾してるかもしれない。だけど、俺は本気で改心しようしてるやつを見過ごせないんだ」
『キミの考えはわかった。もう僕は何も言わないよ』
「ああ、ありがとな」
俺はもう一人の俺との対話を終えた。
もう一人の俺も、一応納得はしてくれたようだ。
まだ頭痛と胸の痛みは消えなかったが、俺は敦と改めて向き合った。
「敦……。俺はお前を赦すよ」
「……え?」
「璃央!? 本気なの!?」
「お前はもう十分苦しんだ。 苦しんだ結果、人の痛みがわかって、今は反省してるんだろ? 自分の犯した罪を認めるのはすごいことだ。それに、お前は大切な家族のために謝罪ができるじゃないか。そんな姿を見て、俺はお前が反省していると感じたんだ。だから、俺はお前を赦すよ」
俺の言葉を聴いた敦は、以前の千歳のように口をぽかんと開けていた。
敦自身もまさか自分が赦されるとは思ってもいなかったのだろう。
「り、璃央、ありがとう。こ、こんな俺を赦してくれて。お、俺はお前をいじめたことをずっと後悔してたんだ。あ、改めて謝罪をさせてくれ。ごめんなさい……」
敦は涙を流し、再び地面に頭を強く擦りつけながら、土下座をしていた。
一方、瑠璃は納得いかないといった顔をしている。
しかし、瑠璃は観念したように大きなため息をついたあと、腕を組んでむすっとした表情を作り、こちらを見た。
どうやら、一応俺の気持ちを汲んではくれたらしい。
ありがとな、瑠璃。
こうして俺と敦は過去と向き合った結果、新たな一歩を踏み出すことになったのだ。
話が終わりを迎える頃、敦が「千歳も赦してほしい」と懇願してきた。
しかし、そもそも俺は千歳を恨んではいない。
だから俺は、「千歳には俺の赦しなんて必要ない」と正直に伝える。
敦はそれを聴いてまた涙を流しながら、俺たちに感謝の言葉を述べたのであった。
そして、敦との対話がようやく終わる。
最後に俺と瑠璃は、「千歳に謝罪をしたい」ということを敦に伝えた。
千歳の件については、こちらに非があるからだ。
敦との話し合いの結果、俺たちはある計画を立てた。
その計画とは、「明日学校が終わったら、敦に家まで案内をしてもらい、そこで直接千歳に謝罪をする」というものだ。
だが、この計画には大きな問題があった。
それは、「果たして千歳が、俺と瑠璃に直接会ってくれるのだろうか」という問題だ。
おそらく、千歳は瑠璃のことを、怖いと思っているだろう。
自分を傷つけた相手と直接対面するという行為は、かなり勇気のいることだ。
事実、経験者である俺にはそれが痛いほどわかる。
「敦、千歳は俺たちと会ってくれると思うか?」
「……それは、俺にもわからねぇ。千歳が会いたくねぇと言ったのなら、そこでおしまいだ。無理やり会わせても、千歳の傷が広がるだけだからな」
叫び続けたせいで喉がやられたのか、敦は掠れた声で答える。
今の敦の言葉は正論だ。
それが俺の心に鋭い針のように突き刺さる。
「そう……だよな……」
「お前らが、本気で千歳に謝りたい、っていうことは俺にも伝わった。千歳は真面目なやつだ。だから、お前らの本気度を知れば、きっと会ってくれるだろうよ。……たぶんな」
敦は顔に影を落とす。
やはり、この問題を解決するのは難しいか。
「……とりあえず、今日あったことは千歳に伝えておく。千歳の返事が良くても悪くても、俺は結果を伝えるためにお前らの学校に行くからな。……まあ、あまり期待しないで待っててくれ」
「ああ、よろしく頼む」
そうして、今度こそ俺たちと敦の話し合いは、終わりを告げたのであった。
「璃央が赦しても、私はあんたを赦さないから」
瑠璃は敦との別れ際にそう言った。
瑠璃の言葉にはまだ棘がある。
「でも、千歳さんには悪いことをしたわ。ちゃんと謝りたいから、しっかりと私たちのことを伝えなさいよ」
「……わかった」
敦は複雑そうな表情をしていた。
敦はまたポケットに手を突っ込んで、背中を丸めながら帰っていく。
敦を見送ったあと、俺と瑠璃もそのまま帰宅した。
午後十時頃。
そろそろ寝ようかと思っていたときに、部屋の扉がノックされた。
「璃央、ちょっといい?」
「ああ、いいぞ」
瑠璃がまた俺の部屋に来た。
瑠璃は、以前と同じようにベッドに腰かける。
「ねぇ、璃央。き、記憶を思い出したのよね?」
瑠璃は若干震えながら質問をしてきた。
瑠璃の様子がどこかおかしい。
そういえば、この前もこんな感じだったな。
「確かに記憶は戻った。けれども、中学時代のいじめについて思い出しただけだよ」
「そ、そうなの? じゃあ、ほかの記憶とかは……」
「いや、全然思い出せなかった」
「そう……」
瑠璃はなぜか安心したような表情をしていた。
何にそんなに怯えているのだろう。
「まあ、瑠璃との記憶は今とそう変わらないだろ? そのうち思い出すさ」
「そうね……」
「瑠璃、今日は一緒にいてくれてありがとうな。俺だけじゃ、敦と直接会って話をするなんてことはできなかった。瑠璃のおかげで助かったよ」
「どういたしまして。こちらもお礼を言わせてもらうわ。ありがとう、璃央。あなたがいてくれたから、私は怒りを抑えられたの」
「姉を諌めるのは弟の役目だ。それより大変なのは明日だろ? 千歳には本当に悪いことをしたからな」
「わかってるわよ。元々千歳さんの件は、私のせいなんだから」
瑠璃の身体は少しだけ震えている。
やはり瑠璃でも緊張はしているようだ。
「そんなに気を張るなよ? それに、明日も俺がずっと一緒にいてやるから心配すんな」
「……ありがと。璃央が私の弟でよかったわ。明日もよろしくね」
瑠璃は俺のほうを向き笑顔を作った。
そして、腰かけていたベッドから立ち上がり、扉に向かって歩き出す。
「璃央、おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
俺と瑠璃は夜の挨拶を交わす。
その後、瑠璃は自分の部屋に戻っていった。
そういえば、瑠璃の言動に少し違和感があったな。
特に俺の記憶について、何か思うところがあるようだ。
まあ、たぶん明日のことで緊張しているから、あんな状態だったのだろう。
そんなに気にすることでもないか。
俺は明日のために早く寝ようと思い、ベッドに寝転がる。
明日、千歳は俺たちと話をしてくれるのだろうか。
今はそのことで頭がいっぱいだ。
あろうことか、俺は計画が失敗したときのことばかり考えてしまう。
俺は天井を仰ぎながら、湧き出てくる負の感情に浸っていた。
そのとき、過去の記憶がまたしてもフラッシュバックしてきたのだ。
頭痛と胸の痛み、同時に脂汗が滲んできて、さらに吐き気もする。
……こんな状態じゃ、眠るのはちょっと無理そうだな。
このことは瑠璃には内緒にしておこう。
できるだけ心配はかけたくないからな。
こうして俺は過去の記憶と向き合い、苦しみながら、つらい夜を過ごすことになったのである。
当然朝まで一睡もできず、寝不足で精神も肉体もひどく消耗してしまったのだった。
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