第四話 双子と牧本

 五月初旬の早朝。

 今日は朝から土砂降りの雨が降っている。

 外で運動をするには向かない環境だとわかってはいた。

 けれども、俺はルーティンをやめられず、現在カッパを着ながら堤防道路を走っている。


 すでに一時間近く走っているため、カッパの中は汗で蒸れており、じっとりとして気持ちが悪い。

 帽子を被っているが、雨を防ぎきれず、雨粒が勢いよく顔に当たる。

 そんな状況の中、俺は一種の形容しがたい快感を得ながら走っていた。

 

 ああ、なんて気持ちいいのだろう。

 このまま、あと一時間は走れそうだ。

 

 こんな雨の日に走っている人間など、俺以外いないだろう。

 しかし、およそ百メートル先に、同じくカッパを着ながら走っている人物を見つけた。

 同士がいると思うと、俺はなんだか嬉しくなる。


 だが、何かがおかしい。

 前を走っている人物は、ふらふらと不規則な動きをしながら走っていた。

 ……あんな走り方で大丈夫か?


 そんな心配をしていたら、前を走っている人物は道路の小さな段差につまずいた。

 そして、態勢を崩して土手を転がり、そのまま河川敷まで落ちていく。


「おい、マジかよ!?」


 悪天候なので周囲に人影はない。

 しかも、俺は携帯電話も持っていなかった。


「俺が助けるしかない!」


 すぐにそう判断し、河川敷まで下りて、落ちた人物を探した。

 しかし、落ちた場所は背丈が高い雑草地帯になっており、探すのに時間がかかってしまう。


 そんな中、俺は落ちた人物をなんとか見つけ出すことに成功した。

 落ちた人物はどうやら少年のようだ。


「大丈夫ですか!?」


 ぐったりして倒れている、泥だらけの少年に声をかける。

 それから、少年の身体の状態を確かめた。

 カッパを着ているので、外傷はよくわからない。

 だが、顔には複数のすり傷がある。

 少年には意識があるようで、薄目を開けてこちらを見ていた。

 

「身体に異常はないですか!? 立てますか!?」


 激しい雨音に、俺の声はかき消されそうになる。

 けれども、精一杯腹から声を出して、状態を訊いた。


「あ……足を捻って、痛くて立てない……。あと身体もあちこち痛……い」

「わかりました! とりあえず、俺の背中に乗ってください! あなたを治療できる場所に連れていきます!」

「はい……。お願いします……」


 俺は少年を背中に乗せ、雨でぬかるんだ地面をしっかり踏みしめて立ち上がる。

 一瞬泥に足をとられて倒れそうになるが、根性でギリギリ立て直す。

 そのまま土手にある階段まで歩き、なんとか堤防道路まで上がってくることができた。


 しかし、運が悪いことに、この近くには病院がない。

 たとえ病院があっても、こんな朝早い時間、しかも休日にやっているところは少ないだろう。


「あなたの家はどこですか!?」

「……」


 少年に声をかけたが、返事がない。

 それに背中にかかる体重もどんどん重くなってきている。

 俺は考えるのをやめ、無我夢中で走り出した。







「じいちゃん! 瑠璃! 起きてくれ! 怪我人だ!」


 俺は気づいたら、自分の家まで少年を運んでいた。

 大声に気づいたじいちゃんと瑠璃は、すぐさま玄関まで駆けつける。

 俺は力尽きそうになって倒れかけたが、瑠璃とじいちゃんがしっかりと支えてくれた。

 そんな俺の状態を察して、じいちゃんが少年を奥の和室まで運んでいく。


 その後、じいちゃんは「知り合いの医者を呼ぶ」と言って電話をかけていた。

 知り合いの医者は、割と近所に住んでいるようで、すぐに来てくれるらしい。

 

 医者が来るまで、瑠璃が少年の手当てをしてくれていた。  

 俺は何か手伝えないかと訊いてみたが、


「あなたもボロボロじゃない。とりあえず、シャワーを浴びて着替えてきなさい。ここは私に任せていいから」


 と言われたので、言われたとおりに風呂場へと向かう。 

 洗面所の鏡を見てみると、全身ずぶ濡れで、泥まみれの、虚ろな表情をした俺の姿が映っていた。







 俺はシャワーを浴びて、服を着替えた。

 和室には、じいちゃんが呼んだ知り合いの医者がすでに来ており、少年を診察している。

 少年は瑠璃の手当てによって、泥や水が拭き取られていた。

 服も着替えて、綺麗な状態で布団に寝かされている。


 怪我の症状は、右足首の捻挫と少々の打撲、すり傷だけで、命に別状はないらしい。

 それを聴いて、俺は少し心が軽くなり胸を撫で下ろす。

 医者は応急処置をしたあと、「後日ちゃんとした病院で検査を受けたほうがいい」と言い残し帰っていった。

 じいちゃんの顔が広くて助かったな。


「じいちゃん、瑠璃……。ありがとな、助かったよ」

「何を言っておる。お前のおかげで、この子の症状が軽く済んだようなもんじゃよ。よく頑張ったな、璃央」

「そうよ、璃央。あなたはとても勇気ある行動をしたのよ。姉として誇らしいわ」

「そう言われると恥ずかしいな。……とにかくその子が無事でよかったよ。なんか安心したら、力が抜けてきたな」

「あとは私が看てるから、おじいちゃんと璃央は休んでていいわよ」

「すまんな、瑠璃。そのお嬢ちゃんも起きたときに、こんな爺さんがいるより、美少女がいたほうが安心じゃろ」

「ん? じいちゃん、今お嬢ちゃんって……。ってこの子、女の子だったのか!?」


 この人物の性別を知って驚いた。

 今寝ている人物が、俺には少年にしか見えなかったからだ。

 俺の発言を聞いた瑠璃は目を丸くし、じいちゃんは笑い始めた。


「璃央、それはこの子に失礼よ。こんなにかわいいのに」

「璃央はニブチンじゃのぉ。ワシでもわかっておったわ」

「し、仕方ないだろ! 必死だったんだから!」

「しかも、この子、私たちと同じクラスの牧本まきもとさんよ」

「そ、そうなのか?」


 そういえば、牧本という名字の女子が同じクラスにいたような気がするな。

 でもまさか、同じクラスの女子を助けることになるとは夢にも思わなかった。


 俺は牧本さんと話したことがない。

 たぶん、剛志や弘人も話したことはないだろう。

 ある事情のせいで、俺と剛志と弘人の三人には、基本女子が近づいてこないのだ。


「んん……。こ、ここは?」


 俺たちの会話がうるさかったのか、牧本さんが起きてしまう。

 彼女は知らない場所にいることに困惑しているようだった。 

 その後、瑠璃がこれまでの事情を説明をしたことで、ようやく今の状況を飲み込めたようだ。


「み、皆様。こ、このたびは助けていただきありがとうございました。私の名前は牧本まきもと葵月あつきといいます。こ、この恩は一生忘れません」


 牧本さんは妙に畏まって、感謝の言葉を述べていた。

 俺は普段の彼女のことは知らないが、だいぶ緊張していることは感じ取れる。


「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。あなたが無事でよかったわ。身体に異常はない?」

「え、と……。右足首がジンジン痛むくらいで、ほかは大丈夫……」

「なら安心ね。でも、明日ちゃんと病院で診てもらいなさいよ? ……あら、アイシング用の氷水がぬるくなってきたわね。璃央、氷のうの中の氷と水を入れ換えてきてくれる? おじいちゃんも、何か温かい飲み物を用意してくれると助かるわ」

「了解」

「わかったぞい」


 俺とじいちゃんは、瑠璃の指示どおりに台所へと向かった。

 牧本さんが無事だとわかったので、俺の足取りはさっきよりも軽い。


「いやー、葵月ちゃんが無事でよかったのぉ」

「ああ、そうだな。でも、川原で助けたときは、命に関わるかもしれないと思ってひやひやしたぜ」

「それにしても、璃央も隅におけんのぉ」

「ん? 何のことだ?」

「葵月ちゃんが、璃央にずっと熱い視線を送っておったことに、ワシは気づいてしまったんじゃよ」

「ああ……。そのことなんだがな……」

「なんじゃ、何か理由があるのか?」


 おそらく、助けてもらったから好意を持ったとかではなく、俺自身の過去の行いを知っているからだろう。

 きっと猜疑心を持っていたから、俺を注意深く見ていたに違いない。

 俺は何も知らないじいちゃんに、過去の行いを話すことにした。







 俺がまだ高校に入学したての頃だ。

 瑠璃とは別のクラスになり、周囲に馴染めず、友達もいまだに作れないでいた。

 俺は孤独だったのだ。


 その頃、俺はあることに夢中になっていたのである。

 それは、階段の高低差を利用して、女子のスカートの中を覗き見る行為だった。

 俺はその行為をすることで孤独感からくるストレスを解消していたのだ。

 今思うと、我ながら最低なことをしていたと思っている。

 だけど、当時の俺はその行為にまだ罪悪感を持っていなかった。

 

 そして、俺はある日、同じ行動をしているやつらと出会うことになる。

 そいつらは現在の悪友でもある、剛志と弘人だったのだ。


 俺たちは出会ったその日に意気投合し、友達になった。

 赤信号みんなで渡れば怖くない、とはまさにこのことであり、俺たちは階段で女子のスカートの中を覗きまくったのである。

 最初は同級生のみを対象としていたが、徐々に満足できなくなり、二年生と三年生の先輩のスカートの中も覗き見るようになった。

 この時点では、まだバレていなかったと思う。

 いや、そんなことはないな。

 女子はこういうことに敏感だから、おそらくばれていただろう。

 

 俺たちはそんな最低な行為を一日に何度も繰り返していたのだ。

 しかし、俺たちの悪行は、ある時を境に終わりを迎えることになる。

 

 ある日、誰かが先生に俺たちの問題行為を相談したらしい。

 その結果、俺たちは先生から大目玉を食らうことになった。

 それだけではこの騒動は収まらず、被害に遭った女子の彼氏たちや正義感の強い生徒たちから、激しく非難されたのである。

 そのうえ、学校中の女子たちからは集団で暴言を浴びせられた。

 さらに、女子たちは俺たちを徹底的に無視するようになってしまったのだ。

 

 女子たちには、恥ずかしい思いをさせてしまって、本当に申し訳ないことをしたと思っている。

 俺たちは自らの行いを深く反省し、被害に遭った女子たち一人ひとりに謝罪をした。 

 当然、女子たちはそんなことでは赦してくれない。

 しまいには、男子たちからもハブられるようになり、俺たち三人は孤立してしまったのである。


「……それから一年経ったが、女子たちの心境は変わらず、ずっと無視されている。幸い男子からはネタにされる程度で済んでいるけどな。でも、信じてほしい。俺たちは去年の事件以来、一度も不貞行為は働いていない。最低な行為をしたのはわかってる。だけど、今は本当に反省をしてるんだ」


 俺はじいちゃんに一年間秘密にしていたことをすべて暴露した。

 じいちゃんは俺に失望するだろうか。

 いや、しないほうがおかしい。

 最悪殴られるかもしれないな。


「……璃央。確かにお前たちがしたことは最低な行為じゃ。今の状況になったのも、自業自得で擁護できん。だがな、お前が優しい子なのは、ワシと瑠璃がよく知っておる。今日のような行いができる人物だと知ってもらえば、お前が反省していることもみんなにわかってもらえるじゃろ」


 じいちゃんは穏やかな表情をしながら、ゆっくりと話す。

 その後、真面目な表情に変わり、真剣な目で俺を捉えた。


「しかし、過去の行いを消すことはできない。お前はこれから消せない過去と向き合い、それを償い続けなくてはならないのじゃ。覚えておきなさい」


 じいちゃんの言葉は俺の心に深く突き刺さった。

 正論だ。

 じいちゃんの言うとおり、俺は過去の罪を償わなければならない。


「ま、困ったら、ワシや瑠璃を頼るといい。ワシだって伊達に長生きはしとらん。相談に乗ったり、アドバイスくらいならできると思うからの。これからも精進するんじゃぞ」

「じいちゃん……。ありがとう」

「ちなみにワシの若い頃はスカートの丈が皆長くてな。段差を利用しても、ちっとも見えなかったぞい」


 ダメだ……俺と同類のスケベじじいだった。

 せっかくいいことを言ったのに台なしだよ、じいちゃん。







「……ずいぶんと遅かったわね。二人とも、何してたの?」

「すまんの、瑠璃。ちょっと男同士の大切な話をしていたのじゃよ。ほれ、お菓子も持ってきたぞい」

「ふーん……。まあ、いいけど」


 瑠璃は何か疑うような顔をして、こちらを見ていた。 

 しかし、すぐに牧本さんのほうを向く。


「はい、葵月。お茶とお菓子よ」

「ありがとな、瑠璃。いただきまーす」


 この短期間で、二人は下の名前で呼び合う仲になっていた。

 さすが瑠璃。

 俺と違ってコミュ力が高い。

 というか牧本さんは、普通に座っているようだな。

 足は痛くないのだろうか。


「ま、牧本さん……。普通に座っていますが、足は大丈夫なんですか?」

「ん? だって、寝たままだとお菓子が食いにくいだろ? 足はちょっと痛いけど、この程度の怪我なんて、しょっちゅうあるから慣れてるしな」


 牧本さんはお菓子を一人で全部食べきって、俺の分のお茶まで飲んでしまった。

 そのとき、誰かのお腹の音が、部屋に響くくらい大音量で鳴る。 

 なんとその音の発生源は、今お菓子を食べ終えたばかりの牧本さんから発せられたものだった。


「え、えへへ……。なんか、まだ腹が減ってるみたいだ」

「そうなの? それじゃ、少し早いけど昼食にしましょうか。葵月は何か食べたいものはある?」

「私は……肉。肉だ! 肉が食いたい! あとお米!」


 さっきまでの畏まった態度はどこにいったのやら……。

 さすがのじいちゃんも苦笑いをしていた。


「わかったわ。璃央、おじいちゃん、ちょっと手伝ってちょうだい」

「あ、ああ……」

「ほいほい」


 俺たちはリビングに集まった。

 瑠璃は台所で料理を作るための準備を始めている。


「おい、瑠璃。なんでそんなに牧本さんに甘いんだよ?」

「あら? 私が葵月ばっかり構うから嫉妬でもしてるの?」

「そうじゃなくてだな……」

「まあまあ、璃央。客人には、しっかりとおもてなしをしないと失礼じゃろ?」

「あんな厚かましい客がいてたまるか。何か理由があるんだろ?」

「……ええ、あるわ」


 瑠璃はなぜか牧本さんに甘い。 

 きっと何か理由があるはずだ。

 すると瑠璃は、ため息をついてから、口を開いた。


「……葵月は一人っ子なのよ。ご両親はいつも仕事で忙しいらしいの。朝早くから夜遅くまで仕事をしていて、葵月と接する時間がほとんどないらしいのよ」

「……そうなのか」

「それで、ご両親には連絡しなくてもいいの? って訊いたの。けれども、両親に心配をかけたくないから連絡はしなくていい、と言われたわ」


 瑠璃はテキパキと料理を作りながら、話を続ける。

 さすが、瑠璃だ。

 俺なんかが作るより、よっぽど手際がいい。

  

「璃央は知ってる? 葵月は陸上部のエース的存在なの。葵月は会う機会が少ないご両親に、いいところだけ見せたいのよ。そのために、無茶な努力をしていたそうなの。今日だって、体調が良くないのに悪天候の中、無理して走っていたそうよ」

「……やっぱり無理をしてたのか」

「葵月は孤独や寂しさに耐えながら、必死に頑張ってるのよ。私はそこに共感したの。今だけは私が、葵月の孤独や寂しさを少しでも埋めてあげたいと思ったのよ」

「そうか……」


 瑠璃がかなりのお人好しなのは知っている。

 だが、ここまで入れ込んでいたことに俺は驚いていた。

 この短時間でそこまで深い話をしたのか?

 いや、瑠璃はもしかしたら、牧本さんのことを前から気にかけていたのかもしれない。

 それに、共感したってことは瑠璃自身にも似た経験があったのかもしれないな。

 これは俺の知らない瑠璃の一面だった。


「うう……泣けるのぉ。瑠璃は本当に優しい子じゃ……」

「そんな事情があったのか。ごめん! 俺は表面のことしか見えてなかったよ」


 じいちゃんは瑠璃の言葉に感激したようで、号泣している。

 一方、俺は自分の不甲斐なさを悔いていた。

 そして、牧本さんのために何かできることはないかと考え始める。


 考えた結果、俺は頑張り屋な牧本さんのために、瑠璃と一緒に料理を作ることにした。

 よし、ここは元気が出るような料理を作るとするか。

 

 その後、牧本さんは俺と瑠璃が作った「豚のしょうが焼き定食」を食べた。

 そうしたら、すぐに寝てしまったのである。

 ちなみに彼女はどんぶりご飯を三杯もおかわりした。

 そういや、元々体調もそんなに良くなかったんだよな。

 すごい食欲のせいで、そのことをすっかり忘れていた。

 疲労もかなり溜まっていたのだろう。

 彼女はぐっすりと深い眠りに入っているようだった。


 俺とじいちゃんは部屋から出て、リビングへと戻る。

 そんな中、瑠璃だけは牧本さんのそばを離れずにずっと見守っていた。







 牧本さんが起きた頃には、もう夜になっており、外は真っ暗になっていた。

 そんなとき、彼女は、「両親が帰ってくる前に自宅へ帰りたい」と言い出したのだ。

 

 瑠璃は牧本さんの発言を聴いて驚いていた。

 どうやら、瑠璃は家に泊まらせる気でいたらしい。

 しかし、彼女は、「これ以上迷惑をかけたくない」と言って、歩いて帰ろうとしたのだ。 

 牧本さんは苦悶の表情を浮かべ、足を引きずりながら懸命に歩こうとしていた。

 ……この様子じゃ、歩いて帰るのは無理そうだな。


「すまんの、葵月ちゃん。車があれば送迎してあげられたんじゃが、あいにく今は車検に出していて、この家に車はないんじゃよ」

「じいちゃんがケチって、代車を借りなかったのが裏目にでたな」

「ケ、ケチって代車を借りなかったわけではないぞ! た、たまには徒歩で通勤したいと思っただけじゃ!」

「はいはい、わかったわかった」


 しかし、じいちゃんの車がないのは痛手だったな。

 なら、タクシーを呼ぶか?


「瑠璃、タクシーなら……」

「ダメ。私もそう思って、今いろんなタクシー会社に電話をしてみたのよ。でも、今はちょうど帰宅ラッシュの時間帯だから、どこも空いてないみたいなの」

「ワシもいつも使っているアプリで、タクシーの予約をしようとしたのじゃよ。じゃが、予約はすでに全部埋まっていて、こっちもダメそうじゃ」

「そ、そうか……」


 これは困ったな。

 さて、どうするか。


「め、迷惑をかけて本当にごめん……なさい」

「葵月、謝らなくてもいいわよ。私たちは別に迷惑だなんて思っていないわ」

「そうじゃぞ。ワシらが勝手にやってるだけなんじゃから、心配せんでも大丈夫じゃ。葵月ちゃんも早く家に帰りたいじゃろ? ここはワシらに任せておきなさい」

「あ、ありがとう……ございま……す……」


 牧本さんの表情はだんだんと暗くなっていく。

 俺はそんな彼女をなんとか家に帰すために、いろんな考えを巡らした。

 そして、俺の思考は巡り巡って、ある方法に行き着いたのである。


「……牧本さん、その足で歩いて帰るのは難しいと思います。だから、俺があなたをおぶって家まで行くっていうのはどうですか?」

「えっ? でも……」


 俺は必死に考えた意見を牧本さんに提案した。  

 しかし、それを聴いた彼女は、かなり困惑しているようだ。


 俺はそこで改めて気づいた。

 必死になりすぎて、自分が女子から嫌われている、ということをすっかり忘れていたのだ。

 きっと牧本さんもこんな男に、二度も触られたくはないだろう。

 そりゃ、困惑するわけだ。 


「大丈夫よ、葵月。私も付いて行くから安心して」

「る、瑠璃がいてくれるなら……」


 話し合いの結果、瑠璃が同伴する形で、俺が牧本さんを家までおぶっていくことになった。

 瑠璃がいてくれて本当に助かったな。


「源一さん、どうもお世話になりました」

「ほいほい。葵月ちゃん、気をつけてな。怪我が治ったら、またおいで」

「はい。今日はありがとうございました」

「よし。じゃあ、行くとするか」

「ええ」

「……お願いします」


 俺は牧本さんをおぶって、瑠璃と一緒に家を出た。

 朝に彼女をおぶったときは、脱力していたせいで、全体重がかかっていて重かった。

 だけど、今は重くならないように配慮してくれているのか、かなり軽い。

 それに、雨はもう降り止んでいるので、朝より歩きやすかった。


 牧本さんの指示で家まで向かっていると、あることに気づく。

 ここら辺は、俺がよくランニングをしているときに通るコースだ。

 彼女はもうすぐ家に着くと言っていた。

 もしかして、この近くなのか?

 いや、そんなまさか……。

 

 そんなことを思っていたら、なんと自宅から約十分ほどで、牧本さんの家に着いてしまったのだ。

 というか、ご近所さんだったのかよ。


「……意外と家が近かったのね」

「あ、あはは……。そうみたいだ」


 俺は家の入り口で、牧本さんをゆっくりと降ろす。

 すると、彼女はこちらを向いた。


「瑠璃……。今日はありがとな」

「葵月、これからはあまり無茶をしないでね。これは親友からのお願いよ」

「うん、わかった」

「それじゃ、帰るか。牧本さん、お大事に……」

「り、璃央! ちょっと待てよ!」

「ど、どうしたんですか、牧本さん?」


 帰ろうとしたとき、なぜか牧本さんに呼びとめられる。

 もしかして、悪口でも言われるのだろうか?


「今日は本当に助かったよ。私は今までお前のことを誤解してた。お前はやっぱりいいやつなんだな。あ、ありがとう……」

「え? あ、ああ、どういたしまして……」


 牧本さんは足を引きずりながら家に入っていった。

 瑠璃は彼女が家に入るまで、笑顔で手を振っている。


「璃央、よかったわね。あなたのことを理解してくれる人が増えて」

「ああ、だが過去の出来事を消すことはできないんだ。俺は自分の犯した罪を償わなければいけない」

「私はいつでも璃央の味方よ?」

「それは嬉しい。だけど、なんで瑠璃はそんなに優しくしてくれるんだ? 俺が事件を起こしたとき、瑠璃も周りの女子たちから責められただろ? それに、瑠璃の知り合いにも被害者がいたはずだ」

「……そんなの決まってるじゃない。璃央は私にとって、世界でたった一人の大切な弟だからよ。私は璃央がどんなことをしても赦すわ」


 瑠璃は曇りのない目で、一切の迷いもなくそう言い切った。

 ……ああ、あのときと同じだ。

 あの時期は、きっと瑠璃にも多大な迷惑をかけてしまっていただろう。

 こんな弟でごめん、と何度も瑠璃に謝罪をしたものだ。


 だけど、瑠璃は今と同じように、あのときも俺を赦してくれた。

 こんな罪深いことをした俺を、優しく受け入れてくれたのだ。

 瑠璃のおかげで、今の俺がいるといっても過言ではないだろう。

 俺は改めて、瑠璃が姉でよかったと思った。


「……瑠璃、いつもありがとな」

「えっ!? あ、ど、どういたしまして……」


 俺は感謝の気持ちを込めて、瑠璃の頭を優しく撫でた。

 俺の予想外の行動に、瑠璃は驚いたようで、顔を真っ赤にしている。

 さすがの瑠璃でも、不意打ちには弱かったらしい。 

 こんなに動揺している瑠璃を見るのは、なんだか新鮮だな。

 少しは女の子らしいところもあるじゃないか、と俺は心の中で思った。


「悪い悪い、それじゃ、帰るとしますか」

「……まったく、この借りはしっかりと返しなさいよね」

「わかってるよ。こんな愚弟だけど、これからもよろしくな。一応訊いておくけど、この借りはどうやったら返せるんだ?」

「そうね……。まずは今日の夕食を、私の代わりに作ってほしいわね。今日は私が当番だったでしょ? 今日はずっと葵月のお世話をしてたから、少し疲れちゃったのよ」

「それくらい、お安いご用だ。じゃあ、今晩は瑠璃の好きなクリームシチューでも作るとしますか」

「ありがとう。楽しみにしてるわ」


 そんなありふれた会話をしながら、俺と瑠璃は、雨上がりの湿った帰り道を二人で歩いたのだった。

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