第3話 「と私は言った。」はおかしい
現在『秋暁の霧、地を治む』の「箱書き」をリライトしています。
「三人称一元視点」から「一人称視点」へと切り替えるためです。
つまり群像劇からヒロイック・ファンタジーへの転換です。
物語の構成が変わるため、スムーズかつわかりやすい構成とするにはどうするか。一から考え直しています。
そうして「箱書き」を書いているときに気づきました。
「と私は言った。」という一文。おかしくありませんか?
とくに主人公の「一人称視点」で描かれる小説の場合。
地の文は主人公の意識つまり心の中をそのまま書き出しているのです。
すると「と私は言った。」がおかしいと気づきますよね。
気づかない方もいらっしゃるかな、と思います。
なぜ「と私は言った。」がおかしいのかについてお話し致します。
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「と私は言った。」はおかしい
あなたは日常で「と私は言った。」なんて一度でも思い浮かべたでしょうか。
「ここでこう言わないといけない」状況でなら、「と私は言った。」でもよいのかもしれません。
たとえば演劇をしていて俳優のあなたが、
「おぉロミオ。あなたはどうしてロミオなの?」と私は言った。
と書く。これは「ここでこう言わないといけない」状況だから成立します。
まさに演劇がその例です。
また芝居がかった物言いのときも使いますね。
「その言葉、聞き捨てならねぇな。ちょっと署まで付き合ってもらおうか」と俺は言った。
これも「ここでこのような言い回しをあえてしている」状況だから成立します。
では次はどうでしょうか。
「お母さん、七時に起こしてって言ったよね?」と私は言った。
日常の会話なのに、妙に芝居がかっているというか、自然な表現とは言いがたい。
なぜ芝居がかってしまうのか。
普通の人は、自分がなにをしたのかを、改めて確認しません。
基本的には言いっぱなしですし、行動しっぱなしです。
たとえば野球シーンで次のように書くのは自然でしょうか。
「初球は内角高めで空振り、二球目は外角低めで見逃し。三球目で外角ギリギリの際どいボール球だったけどしっかり見られた。決め球で仕留めたらカッコいいだろうな」と考えた。
これが理に適っているかどうか。
半分は適っています。
なぜか。
投手の心理をしっかりと表現できている文だからです。
つまり主人公が考えているものをそのまま書き出しているだけだから。
ですが、主人公の考えをつらつらと書き連ねて、さらに「と考えた。」と書く必要がないです。
なぜか。
その考えは主人公の心の中で展開されているから。
つまり「と考えた。」と書かなくても、その文は主人公の考えを表現している文章なのです。
だからカギカッコも必要ありません。
初球は内角高めで空振り。二球目は外角低めで見逃し。三球目で外角ギリギリの際どいボール球だったけどしっかり見られた。決め球で仕留めたらカッコいいだろうな。
キャッチャーからのサインにうなずくと大きく振りかぶり、相棒のミットめがけて要求された球を思い切り投げた。
「と考えた。」なんて書く必要がないのです。
「一人称視点」では省けるものが山のようにあります。
中でも「と私は言った。」「と私は考えた。」の類いはすべて省けるのです。
だって、口を開いて言葉にしたのも地の文で語る自分ですし、頭を回転させて考えたのも自分。
断りを入れなくても、「言った」のも「考えた」のも自分なのです。
「一人称視点」で小説を書いている方は、「と私は言った。」「と私は考えた。」の類いはすべて省いてみてください。
それだけでさまざまな工夫を凝らす余地が生まれます。
まぁ「言った」と「考えた」が異なるのを記号で表すとすれば、「言う」にはカギカッコを付け、「考える」にはカギカッコを付けないのが普通です。
「考える」は声となって発話していませんから、カギカッコを付けずに地の文に混ぜるのが一般的な作法となります。
なぜなら「一人称視点」での地の文は主人公の心の中がそのまま表現されているからです。
「言う」は声となって発話していますから、心の中の世界ではありません。だから他人の発言同様カギカッコを付けて区別するべきなのです。
まぁ声となって発話している場合でも、地の文にカギカッコなしで書いてしまう手もあります。
これは私がとくに好む書き方です。
私の小説は「ライトノベル」として読むと、カギカッコ付きの会話文が少ない傾向にあります。
カギカッコの応酬は「品がない」というか「芸がない」というか。
とにかく「手抜き」にしか映らないのです。
もちろん添削をしていると、カギカッコの応酬には何度も出合います。
それをいちいち指摘するような野暮は致しません。
カギカッコの応酬は「ライトノベル」ではごく当たり前の表現方法だからです。
だから私の小説は大衆ウケしないのかもしれません。
「一人称視点」で書くとき、可能なかぎりカギカッコを省いてしまうのですから、読み手は「これって発話したの? していないの?」と疑問を抱きやすいのです。
発話したのかしていないのかは問題ではない。
主人公の心が読み手に伝われば、それが正解です。
私の書き方のクセは改めるよりも活かせるようにしていく所存。
皆様は「ライトノベル」で特徴的なカギカッコの応酬でもよいでしょう。
少なくとも「小説賞・新人賞」で減点はされないはずです。
カギカッコの応酬で減点されるとすれば、どれが誰の声なのかがわからない表現になっているときだけ。
初心者にありがちな落とし穴なのですが、ある程度書き慣れていてもときどきやってしまうミスでもあります。
カギカッコを減らす私のアプローチは万人にはオススメできません。なにせこの手法で「小説賞・新人賞」を獲れていないのですから。
「小説賞・新人賞」を獲る作品は、カギカッコの応酬でも混乱を
どれが誰の声なのかがわかりやすいから、迷わず読めますし、そのぶん没入感も高まります。
というわけで、「と私は言った。」「と私は考えた。」は省けるのであれば省きましょう。
そこから小説の表現をひとつレベルアップできますよ。
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これで「と私は言った。」が不自然な文であると理解できましたでしょうか。
「一人称視点」で主人公を除いた人物が発言したら「と隆は言った。」でもよいのです。まぁ手抜きには見えますけどね。
前回お話したとおり、すべて「と言った。」に終始してしまうと小学生でも飽きてきます。
類語を操る能力が求められる時代なのです。
それなのに「と私は言った。」がよいはずもありません。
ぜひ省いて、別の表現ができないか試行錯誤してください。
独学でやるよりは、あなたが師と仰ぐ作家の表現方法を分析すれば、時間をかなり節約できます。
だから「小説を上手に書けるのは、小説をたくさん読む人だけだ」と言われるのです。
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