その卅二 鏡
今でも、何であの時、
鏡淵は三、四丈ほどの高さの細い滝の下にあった。滝が落ちてくる崖は、淵の三方を囲むように切立っていて、真昼でも何やら薄暗く、日の光が届くことは滅多に無かった。
水の深さは人の背丈の倍ほどもあり、夏でも手が切れるほどに冷たく、
無論人が
旧の地蔵盆には鏡淵を覗いてはならぬ――それが、この辺りの言い伝えであった。
夏になると決まって、大人たちは口を酸っぱくして、何度も厳しく子供たちを戒めていた。
それなのに、どうしてあの時、自分があそこに居たのか? どう考えても、今に腑に落ちない。
何でも、兄と慕う懐かしい人と一緒だったように思うのだが、それが誰であったのかも判らない。
――その時に限って、淵の水は二、三寸の先も見えぬほどに、蒼黒く濁っていた。
「どうした事じゃろうか?」と兄のような人を見上げたが、
風が吹いて、崖の腹から横ざまに伸びている、
そうして、
亀であろうか? それも昔の画に描かれる亀さながら、尻の方に
「あれは亀じゃのう?」
そう訊ねると、兄のような人は少し困ったような妙な顔で、
「亀だかどうだか、よう見てごらん」と言った。
亀であれば甲羅にあたる所、円くて黄ばんだ石のような
しかし、よくよく目を凝らしてみても、どうしたことか、亀らしい頭も手足も見えぬ事に気が付いた。亀は甲羅の中に頭や手足を引っ込めるものだが、そうしているふうにも見えなかった。
手足も無いのにすいすいと水面を動いて行く、訳の判らぬもの――
はっとして、すぐ、その厭なものから目をそらした。
――今から思えば、そこからの帰り道は自分一人きりだった。
淵の所には二人で居た筈だのに、一人で帰るを何とも不思議には思わなんだ。
暗い土間では、母が
「
そう声をかけると、母はどうも困ったような妙な顔つきをして、
「
何が何だか呑込めぬままに、母に促され、一緒に
道すがら、懐かしくも恋しい、実の母に間違いない筈の人が、
「もうし、もうし……
大きな邸の脇にある、勝手口から母が声を掛けると、
奥から出てきた
「よう
頭の上から降ってくる、涙ながらのかすれ声を、まったくの
それよりも、自分をここに置き去りにして戻るべく、いとまの口上なぞを述べ始めた母の薄情が、どうにも悲しく、恨めしかった。
「大けぇなりんさったなぁ。一年ばかりもおりゃえんさったけぇなぁ」
「
「何しとりゃゆうたら?」
「
周りに集まってきた
頭の中が朦朧とするようで、さっきまで鏡淵に居た事も、何だか夢の中の出来事のように
そもそも、鏡淵にはどうやって行ったのか? 鏡淵に行く前には何をしていたのか?
「
婆様に聞かれたので、
「
「
「……ようわからんが、
「そうかえ? まあ、ええ。まあ、ええ。そんなら、たちまち湯屋に行きやれ。
はっとして、
「湯なら、沸いとりますらあね。さあ、どうぞ」
にっこり語りかけてきた
「
湯屋の中を見渡したが、どうにも見覚えがない。自分はやはりここの子供ではないと確信的に思った。
ただ、さっきの周りの大人たちの様子、ことに、実の
何ともはや、到底納得が出来ぬけれども、どうする思案も金輪際無ければ、途方に暮れるしかなかった。
ここが吾が家とは、一体全体どうした事ならぁ?
薄暗い湯屋の真ん中には、丸木の柱があった。その柱の釘に四角い小さな鏡がぶら下がっている。
ふと何気なく、覗き込んだ――――ぞっとした。
鏡に映っている子供の顔は、
その顔が困ったような妙な薄笑いのべそを浮かべている。
<了>
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