その卅三 焼
体が大きな雄の
この家のおじいさんにしか
いつもは縁側の真ん中あたりに我が物顔で寝そべっているのだが、今日はどうしたことか、その姿が一向に見えない。
もっとも、今日、この家は朝からばたばたと忙しく、猫のことなんかに気を遣っているのは、
姉はすでに隣の村に片付いているのだが、今日は昼過ぎに戻ってきて、炊事やら掃除やらの加勢をしている。
猫のことを誰かに相談しようにも、言い出すことさえ
喬は、猫の行方を案じながら、笛方の稽古で耳にしたあれこれを思い出していた。
「
これまで、道などで顔を合わせても挨拶ぐらいしか交わしたことのなかった時治郎さんが、新入りが緊張気味の硬い頰でかしこまっている所に、親しげな笑顔を作って話しかけてきた。
もっとも、喬が物心をついた頃には息子――つまり、喬の父親に家督を譲り隠居をしていた。そのおじいさんについて、あの晩、時治郎さんはこのような話を聞かせたのである。
「あのな、爺様がまだ嫁も貰わぬ若い時分のことじゃったと言うわい。丹波だか、近江だか、どっか
「煙は上がっておったれど、そこには焼かれとる
しかも、煙が立つには立っていたが、火は随分と小さくなって、もはや消えかかっていたらしい。
一方、
それは何とも哀れなことと、おじいさんは考えたらしい。
日はすでに落ちて、辺りは刻々と暗くなってきていたが、たった一人でその場にとどまり、
「はあ、まあ、剛毅なる人じゃて。大方ならば、
喬はその話を聞いて、おじいさんのことを立派な人だと思うよりも、何ともゆゆしく
もともと、体格が良くて威厳があり、あまり表情を変えぬおじいさんには、どうも近付きがたい気がしてはいたのだけれども、
身内のことながら、いや、身内だからこそ余計に、どうにも
もっとも、次第次第に判ったことだが、時治郎さんは大人のくせに子供じみた、意地悪なような、いたずら好きのところがあり、考え無しの軽率さを見せることが度々あった。
夜の稽古の折には、喬など若い者たちに怖ろしげな話をいろいろと聞かせて、その怖がっているさまを楽しむというのが悪い癖であった。
「もう、ええ加減にしときや。ええ年になっとってからに!」
そんな風に、囃子方の大肝煎なる
したがって、あの宵に時治郎さんの語ったところには、大げさな誇張があちこちに施されていたには違いない。
ただ、焼き場の話を聞いて以降、喬の心には、一層お爺さんとの間に隔てが出来たように感じられた。かと言って、この忌まわしい話の真偽を、家族の誰かに打ち明けて確かめることも
おじいさんもまた、恬淡たる人柄がどちらかと言えば
時治郎さんから聞いた話で、後々まで喬の頭を去らない、厭な話がもう一つある。
それもまた、焼き場の話であった。
どこだかのある村に
婆様は三毛猫をわが孫のように可愛がり、三毛猫も大層懐いていたというが、寄る年波で、とうとう婆様が亡くなってしまった。
その
「ここの
そこで初めて家の者は三毛猫が見当たらぬことに気が付いた。すると、その婆様が怯えたように
「人が死んだらな、家の猫は
婆様によれば、何でも猫には魔の
家の者は、開化前の古臭い
三毛は行方知れずのまま、夜伽も
人々が不審げに辺りを見渡すと、焼き場の奥の藪の手前に、体のあちこちが焦げたように焼け
「わしゃあ、まぁだ死んではおらんで」
何やら甲高い声でそう口にしたが、その声色にせよ、口調にせよ、これまでの婆様のものとは全く違っていたらしい。
これはしたり、あの三毛が憑いておるに相違あるまいと、息子が棒を拾って打ち据えようとしたが、婆様はひらりと軽やかに飛んで棒を
これから婆様を探そうにも、すでに暮れているのでどうすることも出来ぬ。何とも不吉で禍々しくも、情ない事になってしまったと、大いに嘆き大いに恐れながら、ともあれ家に戻ってきたところ、縁の下に、例の猫が倒れて死んでおったらしい。
それを見て、やはりあれは三毛の魂が婆様に乗移ったものじゃろうと皆が頷き合ったと言う。
ただ、時治郎さんの話はここで終わらない。
その翌日、焼け
家の者は寺に相談したが、田舎の藪寺の坊様であったれば、何の智慧も思案も無い。猫が憑いた婆様はそのまま何年かを生きながらえたらしい。
この話を聞いて、喬は、いくら何でも嘘くさいと、ひそかに顔をしかめた。ことに婆様が戻ってきて更に数年生きたというくだりなんぞは、一層人を怖がらせてやろうと、時治郎さんが付け足したに相違ないとも思った。そう頭では冷静に判断しつつも、心持としては、何とも気味が悪く頗る厭な感じがした。焼け
肝の太いおじいさんとは反対に、喬はもともと人一倍怖がりの
実際、夜中に何とも怖ろしく厭な夢を見ることが度々に及んでいる。
大概が決まって、焼き場の
或いは、二つの話が合わさって、棒で
「まぁだ、死んじゃあおらんと言うに!」と跳びかかろうとするものもあった。
ぎょっとして目が覚めると、冬でも厭な汗をかいていることがしばしばある。夢だというに、人の肉の焼ける厭な臭いをありありと嗅いだようにも思われる。
己の臆病を
さて、そんなことをつらつら考えながら、喬は猫の行方を心配している。
今しも、おじいさんはこの座敷の布団の中に、白い布を顔にかけて横たわっている。
あんなに達者だったおじいさんが、今朝は布団から出てこず、そのまま冷たくなっていた。
まさかこんな急なことになるとは誰も思いもしなかったので、大騒ぎになった。喬の父親は遠方に仕事に出かけていて、電信を掛けて知らせてはみたものの、届いたものやらどうやら、いずれにしても、二、三日は戻って来られぬであろう。そうなれば、孫の惣領の荷が重くなる。
この辺りでは、当主或いはその隠居の
しかも、座敷にはたった一人で詰めて務めを果たすのが、昔ながらの仕来りである。電灯などという当世風の明りを点すことはもってのほか。
そういう次第で、喬は今、死んだおじいさんと二人切りの晩を薄闇の中に過ごしている。
母を初め家の者は寝間にでも居るのだろうが、もう寝付いたのだろうか。物音一つだに聞こえてこない。しいんと鎮まり返ったところに、庭の虫の音だけが寂しげに響いてくる。
何とも言えぬ心持である。
悪いことは考えまいとしても、夢にまで見る怖ろしく厭な情景がありありと頭に浮かんできて、去ろうとしない。
黒焦げの
その事実が、何とも怖ろしく厭なものに感じられる。
そこに横たわっているおじいさんがどうにも怖くて仕方がない。
亡くなった身内をそのように思うなど、何とも罰当たりで申し訳ない。
ことに、おじいさんは村の誰もから、ひとかどの人物だと敬われるような立派な肉親であった。決して孫に甘い人ではなかったけれども、人間として、また祖父としての振舞に、非の打ち所は毫も無かった。
それなのに、打ち消しても、打ち消しても、ふつふつと湧いてくる、厭な怖ろしさをどうすることも出来ない。
自分は何という人でなしだろうかと芯から考えている。愧じている。猛烈に愧じている。情なくて、情なくて、どうしようもなく厭になる。
それでも、こうして二人きりで座敷に籠っている、この今の、この瞬間を、この上もなく怖ろしいと思う気持ちに抗う術はない。
あの
いやいや、考えまい、考えまい……
じっと座っていても、股の間から肚を通り胸に向って、何やらわくわくと突き上げてくるようで落ち着かない。
更に悪いことに、ほんの
それにしても、
まさかこの床の下にでも転がっておりはすまいか?――
そうだ……
よもや、そんな莫迦な話は到底あるまいが、万々が一、万々が一にも――
明日、焼き場から、焼け
そんな莫迦なことはある筈も無かろうが――万々が一にも、そんな、世にも怖ろしいことが起こったとしら……何としよう……
お
その折しも、どこからか猫の声が聞こえた気がした。
あれは?――
閉て切っている筈の座敷の
<了>
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