その廿九 橋
橋だの坂だのというところは、しばしば、こちらの世界と向うの世界との境になるべき場所だという。
ただ、境界であるにしても、二つの世界を
そうして、思えばそのとき、
何でも石造りの立派な橋であった。
獅子は親柱の上で瓦斯燈を背に橋の外側を
一方、麒麟は橋の
獅子の方は
頭に鹿のような角を頂いて、耳は筒状に丸まりつつも先が
実に立派な橋だとしきりに感心しながら渡り終えると、向う岸には西洋風の石造りの立派な建物が並んでいた。そのうちの一軒がこれから私の下宿先となる家である。
番地と名札とを頼りに玄関の表で案内を乞うと、扉が内側に引かれて七つ八つばかりの男の子が顔を出した。くりくりした目で私を見詰め、はにかむように笑っている。日本の子供とはまた異質の、ちょっと見ると西洋の子を思わせるような可愛らしさがあるが、それにしては色が浅黒い。日本語で一言二言尋ねかけたが、どうも言葉を解さぬ様子で、額に八の字を寄せ困った表情となり
日本語で来意を告げたが、この紳士も息子同様、八の字眉を示してちょっと首をかしげ、その後すぐに笑顔を見せつつ、
「残念ながら自分には日本の言葉が
ともかく、ぎこちない笑顔を作って、西洋流に握手を交わし挨拶をすると、
「さあ、
丸い
言われるがままに腰掛けて、主人がせわしなく部屋を出入りしながら、茶器やら菓子やらを準備してくれるのを眺めていると、あの男の子が隣の椅子にやって来た。物珍しそうに私の顔をじろじろ観察しつつ、にこにこ片言の英語で話し掛けてくる。
実に可愛らしいものである。こちらも笑顔になって応対していると、
男の子がびっくり目を丸くする。
途端に扉が激しく開いて、早足に出て来た人がある。見遣ると、頭に被った布から何から、真赤に派手な
老人は愛想も何もない顔付で眉間に皺を寄せながら口をへの字に結んで、テーブル越しにぎょろりと鷹のような目を私に据えた。
すぐに別の入口から主人が
婆さんと私とを心配そうに見比べながら、
「これは僕の母でね、こちらに出て来て昨日着いたんです。申し訳ありませんが、母もこの家に同居することになります……」
その言葉が終らないうちに、老婦人は鋭い目つきを今度は息子の顔にしゃくりあげ、何やら激しい
恐らくは印度の言葉なのであろう。自分には何を言っているのか
こんなに怖そうな婆さんと一緒に住むことになるとは、随分と厄介な仕儀になったものである。あの孫にしても自分のお祖母さんながらさぞや恐ろしかろう――そんなことを考えているうちに、到頭息子の方が根負けしたような顔付になり、頭を横に振るとこちらを向いてこう
「僕は貴君に謝らなければなりません。実は、母が言うのですが、貴君はここに住むべき人ではないと――」
「それはどういうことですか?」
「母が言うには、貴君と僕らは一緒に住むべき間柄にはない。貴君は橋を渡って向う側に帰るべき人だという訳なんです……」
「何ですか、それは?」
「どうも…… 大変申し訳ないが、どうやら貴君を住まわせるのは難しい。約束を取消すことはできまいか?」
「――はあ……、そうですか……」
何やら言いたいことや確かめたいことが諸々あったが、自分の英語の力ではそれらを旨く表すことが難しく、仕方無しに諦めた。
それに、住むと決まっていた場所を突然に失ってしまったのは困るが、この気難しく
「本当に、申し訳ない」
「仕方ありません」
「こんなことになってしまったが、ともかく、お茶だけでも一杯……」
主人が紅茶の碗を勧めようとすると、母親が大きな声を挙げた。どうも片言の英語らしい。
「おまえ! 飲むなかれ! 飲むなかれ! おまえ! 行け! 行け!」
杖でどんどんと床板を鳴らし、人差指を私に突きつけながら、ずんずん近付いてくる。
「行け! 行け! 行け!」
挨拶もそこそこに、慌ただしくその家を辞した。
こんな婆さんがあるものだろうか。
何とも怖ろしげで、又訳が分らず、思い返してみると随分と腹も立つ。
あんな婆さんがあったものだろうか? 一体何がどうしたというのだ?
しばらく歩いていると、釈然としない気持ちの他に、何やら妙な感覚が加わってきた。橋板を
どうしたことだろう?
改めて橋の様子を確かめて、唖然となった。
立派な石橋だった筈が、どうしたことだろう、とんでもないことになっている。
何と、
無論、当り前に考えれば、そんなことはあり
むしろ蔓を何本も何本も編み込んだ、その橋の造りが非常に珍しく、
そうして
遥かに下の方で、水が、或いは逆巻き、或いは泡を引きつつ、左から右へと尽きず流れて行く。
あそこまで百尺ばかりもあるだろうか――ふと、その高さを推察するや、はっとなった。
何やら股の間がすうすうする。恐怖心がわくわく胃の
慌てて、右脇の
何ということだろうか? 途方に暮れるように感じられた。
いずれにしても、このまま先に進むしか
そのうちに大分慣れてきたのだろう、足の運びが少しずつ軽やかになってきたのだが、今度は後ろの方から予期せぬ大きな揺れが伝わってきて再び身を
近付いたところを見ると、
「もうし、あなたは
男が足を止めて訊いてきた。
「はい、どうもそのようです」
「して、あちらの岸から来られたのかな」と後ろを振り返って指さす。
「はい……」
「それは珍しい…… いや、尋常であれば、あちらの岸に向かって渡るのが本当なのだが、あべこべに渡っておらるるとな?」
「はい、実はもともとは、向うの岸から石橋を渡ってあちら側に行ったのですが、どうやらあちらには居たたまれぬ仕儀と成りまして、又向う側に戻るところです。いつの間にかに橋は蔓の吊橋にすり替わってしまいましたが、どうにも仕方がありません……」
我ながら何だか要領を得ないような返答をしてしまったのだが、
「なるほど、なるほど。で、あちら側では何も口にはされなんだか? 食べ物飲み物はお召しにならなかったかな?」
「はい、お茶を飲もうとしたのですが、どうにも飲みそびれました」
「そうですか。
そう言うが早いか、男は又橋を大いに揺らしつつ、ずんずんと去って行った。
もうよかろう。私は再び足を動かし始めた。
時に、辺りは日が
<了>
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