その廿八 臭

「こちら、立派なご容子でいらっしゃるのに、そんなふうにご覧になるときは、ずいぶんお優しい感じですのね」

 やや首を傾げて少し見上げるように、うっとりした目付きで女がそんなことを言う。細面のすっきり整った顔立ちで、やや受け口気味なのが却って愛らしい。

 これも手管と思いながらも、気持ちとしては満更でもない。

 麦酒ビールの瓶を手に、真っ白な前垂エプロンひだに覆われた膝を、はすに寄せるように坐り直し、注ぎ口を傾けながら近付くときに、仄かに好い香りがした。

 何の香水だかは知らないが、控えめで品があった。それが何とも好もしく、いつまでも嗅いでいたいと思った。

 そうして注がれるままに、随分と杯を過ごしてしまったのだが、いつの間にやら、市電に乗って同道する話になっていた。どういう経緯でそんなことになったのか、いささか酒精アルコホルに朦朧となった頭では、どうにも思い出されない。しかるに、そんなことはどうでもよかった。

 電車なぞではなく、俥を呼ぼうかとも言ったのだが、

「あら、そんなにしていただかなくても―― 第一、贅沢ですわ。もったいのうございます…… ええ、電車でよろしいんですの」となかなかに始末を考えた物言いである。

 そういう、地味で控えめなところにも、好感が向いた。


 店を出ると、上弦の月がだいぶ傾いている。あちらが西なのだろうと思った。

 空一面に筋のような雲が出ているが、月を隠すほどではない。こんな夜更けだというのに、山際の色はやや赤ばんで、紫色にかがようている。

 真上の空は、黒々とした闇というよりも、かすかに藍を鎔かしている。そうして、月がまぼしいばかりで星は見えない。雲の隙間にも、どこにも不思議と星は一つも見えなかった。


 二人連れ立って歩くうちに、女がこちらの肘にそっと手を回してきた。

 何とも可愛らしく、一層好意が深まった。

 瓦斯ガス灯の明かりを辿るように歩いて行く。ところが何だか、その間隔が無闇に広かった。この界隈は、街灯の数を倹約しているのだろうか?

 ただ、そのときは、そんなふうに暗がりが長く続いている方が、何だか好都合のように思われた。

 烟草たばこもうと衣兜かくしから取り出したところ、女はさっと袂から燐寸マッチを出して擦点すりつけた。

「慣れたもんだね」

 女の両のてのひらに囲まれた、光のうちに顔を寄せる。

「――こんなこと…… いやだわ」

「何が?」

「だって職業婦人ですもの。こんなことにも慣れちまうわ。そうしてつくづく厭にもなるけど、仕方ないわ」

いや、申し訳ない。そんなつもりで言ったのではないよ。本当に申し訳ない。あのね、僕はね、褒めたのだよ。僕は随分いいと思うよ。気が利いているよ」

 そんな、とりとめもないことを夢中になって話しながら、寄り添うように、四、五分も歩いただろうか、停車場が見えてきた。そうすると、女が急にそわそわ落着かない素振を見せ始めた。

「あら、どうしましょう…… わたくしったら……」

「どうしたね?」

 立ち止まって、女の方に体を向けた。

「あの…… 忘れ物をしてきてしまいましたの…… 大事なもの……」

「困ったね。それは、是非持って来なくてはならないものなのかい?」

「ええ、そうですの…… ごめんなさい。一度取りに戻りますわ」

「そうかい? それなら、僕も一緒に戻ろうか?」

「いいえ、それは申し訳ないわ。――そんなふうにしていただくと、却ってわたくし困りますわ……」

「何、大したことはないさ。気にしなくていいよ。一緒に行くよ」

「いえいえ、困りますわ、困りますわ。わたくしちょっと行ってまいります。ね、あなたはどうか、ね、先に電車に乗っていらして…… 後生ですから。ね、どうか…… あとの電車ですぐ追いかけますわ。ええ、すぐに参ります。本当にすぐ――」

 どういうわけだか、女はかたくなに拒んでくる。

 あんまりいるようなことを言ったところで嫌われてしまってもいけないので、釈然としない思いながらその後姿を見送ってから、すぐにやってきた電車に一人乗り込んだ。

 暗がりから足を踏み入れた電車の中は、何だか仰々しいようにまぼしく、何度も目をしばたたかせた。

 もう、大分だいぶ遅い時間だというのに、かなりの席が埋まっている。幸いすぐそばの、商人風の鳥打帽の横が空いていたので、そこに腰を下した。

 電車はすぐに動き出した。

 ふと窓の外に目をやってみたが、非常にくらくて何も見えない。電車の中のみ、煌煌と真夏の日が照り付けるように非常な明るさであった。

 仕方がないので、目をねむって女の顔を思い浮かべてみた。

 細面で、ほんのすこしばかり受け口で―― しかし、どうしたことか、さっきまで好もしく思っていたその懐かしい顔が、一向に思い出されない。はて、一体あの顔は――

 そのうち、電車は曲がり角に差し掛かり、大きく揺れた。先頭に近い席に高等学校の学生がかたまって四、五人乗っていたのだが、そのうちの吊革にぶら下がって立っていた二人が、よろよろと二、三歩足を縺れさせ転びそうになった。そうして、皆で大きな声を立て、身をよじらせながらげらげらと笑った。

 その頃合ころおいからだっただろうか、車内に何やら妙な臭いがし始めた。何とも言えぬがえたような不快な臭い。

 初めは、大方、弊衣破帽へいいはぼうの不潔な学生たちから漂ってくるのであろうと思われたが、彼等が次の停車場で降りてしまってからも、臭いは一向に去らなかった。

 それどころか、どんどん強くなる。

 辺りを見回しても、汚れたような、みすぼらしい格好の客は一人もいない。臭いの元が何なのか、あれかと思い当たるようなものも見当たらない。

 また、どちらから臭って来るのか、その方角の見当も付かない。右の斜向はすむかいから臭ってきたかと思うと、今度は左の横の方から臭ったりもする。頭の上から降ってくるように臭うこともある。

 それにしても、実に厭な臭いである。どうも胸がむかむかする。

 しかるに、他の人たちは皆ごく尋常な様子で、臭いを気にしているふうもない。

 もしかして、この臭いに気が付いているのは自分一人なのだろうか? どうやら、そのように思われた。そうしてみると、この鼻がおかしくなってしまったのだろうか?

 あれこれ思案をしていたら、車掌が頓狂な声を挙げた。

 気付くと、自分が降りるべき停車場に着いている。慌てて切符を捜して手渡し、飛び降りるように外に出た。


 さて、ここに降りたのは、これが初めてのことだが、辺りには家も何もない。道らしい道も見当たらないが、遠くに一本だけ街灯が立っているのが見える。

 そうして、電車を降りたというのに、あの厭な臭いがまだしている。

 ともかく、その灯りに向かって歩き出した。見回すと、田畑でもなく、ぱらというわけでもない。むき出しの土の地面が前後左右、どこを見ても遠くの方まで広がっている。建物も人も何も見当たらない。

 そうして、厭な臭いだけが辺り一面に漂っている。

 この臭いはよもや自分自身から湧いているのではあるまいか? 何だか不安になって後ろを振り返ると、乗ってきた電車が遠くに去って行く様子が心細かった。

 こんなところに一人きりとは、何やら気味きびが悪い。肚の底からわくわくと不穏な気持ちが胸を突いて来る。


 さて、どうしたものだろうか。


 すると突然に後から、むしゃぶりついてきたものがある。

 びっくりして、思わず、わっと大きな声を挙げてしまった。

 それが見ると、あの女である。


 こちらの驚いた顔を指さすと、二つに折った身をよじらせながらげらげらと笑っている。

 いささかむっとするとともに、知った人がそばに現れたことにはほっとした。愛想笑いに頬を緩めながら、

「何だ、君かね。随分びっくりしたよ。それにしても、非常に早かったね」と言ったところ、女の方でも何やら受け答えをするのだが、その言葉がどうにも分からない。

 どうしたことだろう?

 遠くの街灯の明かりを頼りに改めて女の顔をしけじけと見詰めた。

 何だか随分と面長である。

 初めから細面だとは思っていたが、こんなに長いようでは、むしろ馬みたような―― それに、顎がしゃくれていて、乱杭歯らんぐいばき出しに大きな声で何やらまくし立てるのだが、それが何と言っているのだか、どうにも聞き取れないのである。

 加えて、先ほどからずっと悩まされているあの臭味、そのどうにも厭な臭いが女からも強烈に漂ってくる。その上、今度は安っぽい香水のきつい臭いまでしたたか合わさって、いよいよ胸がむかむかする。

 女の方は、しっかりと自分の腕に取り付いて離れない。


 そう言えば、乗って来た電車が去ってから、新しい電車はまだ着かない。それだというのに、どうやってこの女はここまでやって来たものだろうか?




                         <了>





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