その廿八 臭
「こちら、立派なご容子でいらっしゃるのに、そんなふうにご覧になるときは、ずいぶんお優しい感じですのね」
やや首を傾げて少し見上げるように、うっとりした目付きで女がそんなことを言う。細面のすっきり整った顔立ちで、やや受け口気味なのが却って愛らしい。
これも手管と思いながらも、気持ちとしては満更でもない。
何の香水だかは知らないが、控えめで品があった。それが何とも好もしく、いつまでも嗅いでいたいと思った。
そうして注がれるままに、随分と杯を過ごしてしまったのだが、いつの間にやら、市電に乗って同道する話になっていた。どういう経緯でそんなことになったのか、いささか
電車なぞではなく、俥を呼ぼうかとも言ったのだが、
「あら、そんなにしていただかなくても―― 第一、贅沢ですわ。もったいのうございます…… ええ、電車でよろしいんですの」となかなかに始末を考えた物言いである。
そういう、地味で控えめなところにも、好感が向いた。
店を出ると、上弦の月がだいぶ傾いている。あちらが西なのだろうと思った。
空一面に筋のような雲が出ているが、月を隠すほどではない。こんな夜更けだというのに、山際の色はやや赤ばんで、紫色に
真上の空は、黒々とした闇というよりも、かすかに藍を鎔かしている。そうして、月が
二人連れ立って歩くうちに、女がこちらの肘にそっと手を回してきた。
何とも可愛らしく、一層好意が深まった。
ただ、そのときは、そんなふうに暗がりが長く続いている方が、何だか好都合のように思われた。
「慣れたもんだね」
女の両の
「――こんなこと…… いやだわ」
「何が?」
「だって職業婦人ですもの。こんなことにも慣れちまうわ。そうしてつくづく厭にもなるけど、仕方ないわ」
「
そんな、とりとめもないことを夢中になって話しながら、寄り添うように、四、五分も歩いただろうか、停車場が見えてきた。そうすると、女が急にそわそわ落着かない素振を見せ始めた。
「あら、どうしましょう……
「どうしたね?」
立ち止まって、女の方に体を向けた。
「あの…… 忘れ物をしてきてしまいましたの…… 大事なもの……」
「困ったね。それは、是非持って来なくてはならないものなのかい?」
「ええ、そうですの…… ごめんなさい。一度取りに戻りますわ」
「そうかい? それなら、僕も一緒に戻ろうか?」
「いいえ、それは申し訳ないわ。――そんなふうにしていただくと、却って
「何、大したことはないさ。気にしなくていいよ。一緒に行くよ」
「いえいえ、困りますわ、困りますわ。
どういうわけだか、女はかたくなに拒んでくる。
あんまり
暗がりから足を踏み入れた電車の中は、何だか仰々しいように
もう、
電車はすぐに動き出した。
ふと窓の外に目をやってみたが、非常に
仕方がないので、目を
細面で、ほんのすこしばかり受け口で―― しかし、どうしたことか、さっきまで好もしく思っていたその懐かしい顔が、一向に思い出されない。はて、一体あの顔は――
そのうち、電車は曲がり角に差し掛かり、大きく揺れた。先頭に近い席に高等学校の学生がかたまって四、五人乗っていたのだが、そのうちの吊革にぶら下がって立っていた二人が、よろよろと二、三歩足を縺れさせ転びそうになった。そうして、皆で大きな声を立て、身を
その
初めは、大方、
それどころか、どんどん強くなる。
辺りを見回しても、汚れたような、みすぼらしい格好の客は一人もいない。臭いの元が何なのか、あれかと思い当たるようなものも見当たらない。
また、どちらから臭って来るのか、その方角の見当も付かない。右の
それにしても、実に厭な臭いである。どうも胸がむかむかする。
しかるに、他の人たちは皆ごく尋常な様子で、臭いを気にしている
もしかして、この臭いに気が付いているのは自分一人なのだろうか? どうやら、そのように思われた。そうしてみると、この鼻がおかしくなってしまったのだろうか?
あれこれ思案をしていたら、車掌が頓狂な声を挙げた。
気付くと、自分が降りるべき停車場に着いている。慌てて切符を捜して手渡し、飛び降りるように外に出た。
さて、ここに降りたのは、これが初めてのことだが、辺りには家も何もない。道らしい道も見当たらないが、遠くに一本だけ街灯が立っているのが見える。
そうして、電車を降りたというのに、あの厭な臭いがまだしている。
ともかく、その灯りに向かって歩き出した。見回すと、田畑でもなく、
そうして、厭な臭いだけが辺り一面に漂っている。
この臭いはよもや自分自身から湧いているのではあるまいか? 何だか不安になって後ろを振り返ると、乗ってきた電車が遠くに去って行く様子が心細かった。
こんなところに一人きりとは、何やら
さて、どうしたものだろうか。
すると突然に後から、むしゃぶりついてきたものがある。
びっくりして、思わず、わっと大きな声を挙げてしまった。
それが見ると、あの女である。
こちらの驚いた顔を指さすと、二つに折った身を
いささかむっとするとともに、知った人がそばに現れたことにはほっとした。愛想笑いに頬を緩めながら、
「何だ、君かね。随分びっくりしたよ。それにしても、非常に早かったね」と言ったところ、女の方でも何やら受け答えをするのだが、その言葉がどうにも分からない。
どうしたことだろう?
遠くの街灯の明かりを頼りに改めて女の顔をしけじけと見詰めた。
何だか随分と面長である。
初めから細面だとは思っていたが、こんなに長いようでは、むしろ馬みたような―― それに、顎がしゃくれていて、
加えて、先ほどからずっと悩まされているあの臭味、そのどうにも厭な臭いが女からも強烈に漂ってくる。その上、今度は安っぽい香水のきつい臭いまでしたたか合わさって、いよいよ胸がむかむかする。
女の方は、しっかりと自分の腕に取り付いて離れない。
そう言えば、乗って来た電車が去ってから、新しい電車はまだ着かない。それだというのに、どうやってこの女はここまでやって来たものだろうか?
<了>
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