その十八 寺

 大勢の人が坂を上っていた。

 自分も何となくその人々について行った。

 一心になって坂を上っているうちに、学生の集団がずんずんと後ろから追い越して行ったので、何くそと自分も足を速めた。

 若い人たちに負けるものかと気は急くのだが、心臓の早打ちが、自身の骨や肉を伝って頭に響く程に苦しくなった。また、季節も春から夏に移る頃で、シャツはすっかり汗になり、頭の汗も額を通り、眉毛を越えて、目が痛くなる程に滴った。

 汗を拭こうにも、どういうことなのか、その時に限ってハンカチを持ち合わせていなかったので、手の甲や手の平で滴ってくるところをこすりこすり頑張ったのだが、若い人たちには到底叶わなかった。学生たちは、お互いにおしゃべりをしたり笑い合ったり、何の苦労もない涼しげな様子でどんどんと自分から離れて行く。それがどうにも悔しく、また自分自身が不甲斐なかった。はあはあと息苦しく鼓動が痛い程の胸を、拳で軽く叩いて鼓舞しながら坂を上って行った。


 さて、坂を上り切ると、途端に気持ちは清々して、胸の苦しさも納まり、汗もすっかり引いたように思った。


 果してそこには寺があった。


 本堂も随分立派だったが、その脇にさらに大きな建物が見えた。

 近付いて中を覘くとそこはどうやら仏像の工房らしかった。建物は全体が吹き抜けになっていて、作業場は地下になった非常に低い場所にあり、そこに向かって建物の四方から木の階段が長く伸びていた。ただ、工房とは言っても、それは何百年も昔の工房跡らしく、建物も随分と時代がかった古めかしさで、遥か下の方に見える作業場のあちらこちらにある仏像も、どれもこれも作りかけのまま、長い年月をそのままになって放置されているように思われた。

 どうやら、それが遺構としてちょっとした観光の名所のようになっており、下の方にたくさんの人たちが、見物をしている様子が窺われた。

 自分も、作業場まで下りて行って見物しようと思うのだけれども、古い時代の建造であるため木の階段も半ば朽ちており、それを針金で危なっかしく補修している様子があちこちに見えて、降りて行くのが不安になった。それでも、下には何人もの人影があるので、まあ大丈夫には違いないと思ったが、とりあえず別の階段にしようと、建物の周囲を巡ってしっかりしていそうな降り口を探したのだったが、どれもこれも針金などでいい加減な補修が施されており、安心して自分の体重を任せられるものはなさそうに思われた。

 改めて、見回してみると、柱には所々に虫食いの穴が見られ、黒々とした梁は上部のみが白く、積年の埃を被っている様子だった。全体が極めて古めかしく、朽ちかけた印象であり、それをまざまざと確認した瞬間から、厭な埃っぽさと、黴臭さが募ってくるように感じられた。

 仕方がないので、上から作業場を見下ろして観察することにした。

 見渡すと、仏像は、二十体を下らない数であった。

 どれもが木で作った骨格に内臓までも具備している様子で、それらが針金でつなぎ留められているように見えた。いずれも作りかけであるため、学校の理科室にある人体模型さながらに、どうも生々しい様子であった。


 自分はふと、子供の頃に、ひいお祖母さんから聞いた下り宮の話を思い出した。

 何でも、ひいお祖母さんもそのお祖父さんから聞いた話ということだった。

 お宮と言うと、周囲よりも小高い丘のような所に建てられることが一般であり、石段などを昇って詣りに行くのが普通だが、まれに下り宮というものがあるらしい。周りの土地よりも低い谷のような場所にお宮があるということだが、自分はまだ行ったことがない。

 ひいお祖母さんも自身は行ったことがないという話だったが、そのお祖父さんという人が、下り宮に詣でたことが生涯に一遍だけあったという。どういう理由で、下り宮というものがあるのかは知らないし、どういう経緯でひいお祖母さんのそのまたお祖父さんがそこに参拝したのかも判らない。ただ、そのお祖父さんの話として、だんだんうっそうとなりながら谷底へと下って行く参道の様子。茂みの奥で響き渡る鳥の鋭い声。そんな昔話をひいお祖母さんは子供の頃にしばしば聞かされたらしい。参道を下っている最中も、薄暗い社殿の前で柏手を打った時も、どうも胸の奥がわくわく騒いで落ち着かず、あんなに気色の悪いことは無かったという、何十年も前の子供の頃にお祖父さんから聞いた、その声色をそのまま真似るかのように、ひいお祖母さんが妙に顔をしかめながら、ぼそぼそと語っている様子をふと思い出したのである。


 もちろん、ここはお寺であってお宮ではない。しかも、場所としても坂を上った高台にある。のみならず、ひいお祖母さんから聞いた話とここの様子とは全くの別物であって、類似性は少ない。

 それでも、今目の前にある昔の工房の作業場に降りる朽ちかけた木の階段と、下り宮の暗い参道とが、自分にとっては同様の本質を有しているものに思われて、うそ寒いような気分になった。


「そうすると、あなたがお子さんの頃、まだ、ひいお祖母さまがご存命だったのですね?」


 はっと気付くと、いつの間にやら横に四十恰好の女の人が立っていて、浅葱色の着物に化粧をした顔が妙に白く浮かび上がっていた。

 ――この人には自分の心中が見透かされているのだろうか?


「ひいお祖母さまが、まだご存命だったのですね?」


 女の人が念を押す。その甲高い鋭い声は、がらんとした工房に、こだまするように響き渡り、下の作業場にいた人々が、一斉に自分の方を見上げたようだった。


 そうだった!


 その時になって自分は、物心付いた頃から仏壇に飾られていた、ひいお祖母さんの古びた遺影、その白黒写真をまざまざと思いだし、水を浴びたような心持になった。




                         <了>





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