その十七 趨

 いづれの御時おほむときにか、鵼鳥ぬえどり呻吟のどよひける山中。


 尖鼠とがりねずみはしっていた。


 彼がはしるのには、それだけの合理的な何かがあったのかも知れないし、何にも無かったのかも知れない。

 ともかく、尖鼠とがりねずみはしっていた。


 まだ、霊長目人科れいちょうもくひとかによって彼らが食虫目しょくちゅうもくとは同定されず、齧歯目げっしもくたぐいとの混同が行われていた時代である。もっとも、人科の目に彼らが触れる機会自体、当時もまた現代においても、皆無であるのは論をつまい。


 うつろな目と引換えに、細かくうごめく鼻の機能はナイフのようにシャープだった。


 その鼻の先が概ね向かう方角には、かつてのその持ち主から分離された兜巾ときんが落ちて、半ば朽ちていた。

 そうして、その少し先には、かつてのその持ち主の一部である、水酸すいさん燐灰石りんかいせきを主成分とした丸いものが、半ば朽葉に埋もれてあった。

 その他にも、水酸燐灰石の固形物は、片々としてその周辺に散らばり、埋没し、或いは、哺乳綱ほにゅうこうやら鳥綱ちょうこうやらに属する何者かによって、遠くに持ち去られ、粉砕せられたものも少なくないらしい。


 この主体がいかなる経歴を有していたのかは、記録にも記憶にも残っていない。


 或いは、養和のころとか、洛中の一条から九条、朱雀から京極にかけて、あまた臥伏こいふせる動かぬ者たちの額に、「」を書いて歩いた一人であったかも知れぬし、そうではなかったかも知れぬ。

 或いは、貪慾とんよく兇行きょうこうの限りを尽くしたのちしこうして己のごうの忌わしさにおのの発心ほっしんしたが、修養の志を遂げずして道半ばにたおれたのやも知れぬ。


 主体が前世ぜんぜの功罪いかんに関らず、アパタイトからなる、球体に緩く近似せる構造を、その場に保持しつつ、爾来じらい、日の出没でいり、月の盈虚みちかけが、どれほど繰返されたものか。

 雨滴に打たれたこともあろう。雪氷に埋もれたこともあろう。

 気遣うともがらも無く、一瞥いちべつを与える行人すら無く、もとより、弁ずべき舌も、考うべき脳もうしない、ただぽつねんとそこに動かず、秋に冷え、冬に凍て、春に温もり、夏には灼くる静謐せいひつ幾星霜いくせいそう――


 いずれにせよ、かかる事情は、心臓を早打ちさせて趨廻はしりまわっている食虫目の一個体にとって、全くの没交渉であるし、到底その関心の及ぶべきところでないのは間違いない。


 今しも、うろになった二つの眼窩が向いた所に、八日の月が掛かっている。

 先ほど兜巾ときんの脇で須臾しゅゆ彽徊ていかいしていた尖鼠とがりねずみが、眼窩の一つによじ登り、すぽりと中に納まった。

 その鼻尖はなさき足下あしもとの眼窩と同じく、中天なる光源に向かい、冷え冷えとした光線に沿って、多少うごめいたかに思われる。

 おぼろひとみ桂兎けいとが映じた筈はあるまいが、鋭敏なる嗅球きゅうきゅうにしても、十億尺を隔てては、搗薬とうやくの芳香を感知し得なかったであろう。


 また、感知し得たところで、方厘ほうりん額裡がくり、念頭にあるのは、ただただ飢餓への恐怖のみ。




                         <了>





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