その十六 導
地面の色は黒かった。
その黒い
背中や頭など羽の黒いところは
目を刺すような白い羽よりも、却って私は黒い羽の方が懐かしかった。そこで何でも鳥の背中と思しき辺りを見詰めながら一歩一歩、足を前に出していた。
ああ、そうだった。このようなことは、いつか、ずっと前にも
あれは一体いつだっただろう。
あの時、私一人ではなかった筈。一緒に連れ立っていた、あれは誰だったのか。
頭の中におぼろげに懐かしく浮かびつつも、はっきりとその影をつかむことはできなかった。
鳥の後を付いて行くうちに、
近付いてみると、門には
見遣ると、門の奥には、いつの間にかやや年配の女の人が立っていた。にこにこと親し気な顔をこちらに向けている。白い装束に、緋色の輪袈裟が非常に映えるのが、ことに美しく見えた。
注連縄の向うに行ってもよいものだろうか。そう躊躇するような気持ちもあったが、女の人は私をいざなうような雰囲気で、どこまでもにこにことしていた。
その雰囲気に抗えぬまま注連縄の下をくぐると、いつの間にやら鶺鴒の姿は消え、代わりに女の人が私の前に立って案内をするような
女の人は穏やかな無言で私を導いた。
女の人に従って進んで行くと、板の間にふっくらとした紫色の座布団が置いてあり、その上に促された。
目の前には、五十恰好の男の人が両手を組合せるようにして、俯いている。
男の人の向う側には硝子窓があり、その外は一面の雪景色だった。明るい窓を背にして、陰になった男の人の顔がどうもはっきりしない。
そう言えば、この板の間の床も柱も天井も黒々としている。
あの地面の色と同じ。
ただ、同じ色ながら感じは全く違っていて、良く磨き込まれた板や柱の表面には鈍い光がてらてらとまとわりついていた。
これが生を持たない土と、かねて生を宿していた木との違いであろうと、ふと、そんなことを考えたりもした。
部屋の真ん中には大きな炉が切ってあった。
赤々と炭が
今から思えば、そもそもその時の私には炉の火の熱も外の雪の冷たさもただ目に映るばかりで、肌には一向何も感じられなかった。
男の人と私とは、炉を間に挟んで対していた。
さて、どうしたものだろう。
やがて、女の人に促されて男の人が顔を上げた。
男の人の大きな目が見開かれて、まじまじとこちらを見詰めている。
誰なのだろうか?
暗い部屋にも段々と目が慣れてきた私は、男の人の額や目尻に深く刻まれた皺を眺めていた。
「おっかさん」
無精髭に囲まれた口から大きな声がとび出した。
「おっかさん、おっかさん――」
髭にも、ぼさぼさした髪の毛にも、白いものが混じっている風だった。
男の人が大きな声を出すたびに、何やら髭の間から
そうすると、男の人が絞り出すようにこう叫んだ。
「おっかさん、あなたはどうして、息子を捨てたのです!」
一体、こんな人があるものだろうか?
そもそも、この人は私のことを母親だと言っているけれども、訳が分らない。
見ず知らずの他人に、おっかさんだの、あなただのと呼ばれる筋合いはないと心の奥底で憤慨した。
第一、どう見ても私の方が遥かに若い筈なのだ。
私はまだ三十にもならないというのに。
それなのに、こんなお爺さんから母親扱いされるとは、一体どういうことなのだろうか?
この人は、まさか瘋癲患者ででもあるのだろうか?
どうしても合点が行かなかった。気味が悪かった。
全体、何もかもがちぐはぐに思われた。
先ほどの女の人が私の真横に、それこそ膝をくっつけるようにぴったりと控えていて、その横顔がどうやら困った風な様子をしているのも、どうもちぐはぐな気がした。
「おっかさん!」
――おっかさん……
ああ、そう言えば私には確かに息子があった。もちろん、こんなお爺さんでは決してないのだけれども。
あの子は、まだ
そうだ。
そうそう、息子は道教えの後について行くのが好きなのだ。
あの日も、息子はにこにこしながら、道教えの後ろを辿っていた。
そう、私も一緒に――
あれは田の草取りが忙しい頃だった。日があまりにもかんかんと照り付けるので、私は息子に麦藁の帽子をかぶせたのだった。
道教えの青く、赤く、金物のように光る背中。
そうだ。これは
玉虫のように美しく、大きくて鋭い牙を持った
すぐに
道教えはどこまでも進んで行く。
息子はどこまでもついて行く。
ああ、あんまり奥に近付いてはならない――ふとそう思った。
「坊や、坊や、もう帰ろうか?」
息子はきっと後ろを振り返ると、断固とした様子で
そうして、どこまでも道教えの導くままについて行く。
「坊や、さあ、もう帰りましょう」
息子は返事もせず、振り返りもしない。
どこまでも道教えを追って行く。どんどんあの場所に近付いて行く――
「坊や、後生だから、坊や――」
突然、甲走ったような声が上がった。火のついたように息子が泣き喚く。
ああ、到頭やって来てしまった。
本当にここまで来てしまった。こうなっては最早仕方がない――
「そうです。おっかさん。あの時、私は大いに泣きました。怖ろしくて、怖ろしくて―― ねえ、おっかさんも覚えているでしょう。忘れる筈はないですからね。何せ木の枝に人がぶら下がっていたのですから……」
そう、男が榎の枝に
白髪交じりの髪、無精髭、深い皺。
飛出しそうに見開かれた目とこけた頬の形相。
顔も着物もひどく汚れ、首を括るとはこれほどまでにあさましいものなのか――
「おっかさんは、一目散に走って逃げましたね。私を置いて…… 私は必死に追いかけました。その私を振り切って逃げましたね―― おっかさん、あれから一体どこに行ってしまったのです。到頭今日まで行方知れずのまま――」
そう、私は怖ろしかったのだ。
何が怖ろしかったのだろう?
あの男? 否、違う。
そうだ、きっと私自身――
己の性根だろうか。
でも、逃げて行く私の頭の中にあったのは甘美な約束。忌まわしくも甘美な――
軽便に乗って、それから更に汽車を乗り継いで、その日のうちに約束の旅館に辿り着くことができた。
明日には、あの人も来てくれるだろう。
しかし、本当に、到頭こういうことになってしまった。息子を捨てて――
そうだ、息子を捨てて。
あの
それでも、もう一生息子とは会われないと思うと――
それほどまでに大切な息子ならば、なぜ私はここにいるのだろう?
一晩の煩悶を通り越して、次の日の昼過ぎ――
約束通り、あの人は来てくれた。
あの人は寂しそうに頬笑んでいた。どこかによそよそしい気配を漂わせながら――
「ちょっと、そこらを歩いてみないかね?」
林へと続く黒い逕。
その時も、道教えに導かれていた。
それから先のことはもう思い出すことができない。あの人はどうしたのだろう。私はあれから――
「おっかさん、どうして――」
ああ、あれからもう、五十年近くにもなる。
「おっかさん――」
そうだ、この男はきっと――
それにしても、血というものは恐ろしい。
あの子が――、変われば変わるものだ。
「おっかさん、どうか、どうかこれだけは教えて下さい。あの日、あの時、あの木の枝にぶら下がっていた男の人は、あの人は一体――」
ああ、そうに違いない。
最早、
そうだ。私がこうなってしまったのも、ほとんどあれからすぐ。
もう五十年近くになるのだ。
あの頃ひたすら肚の底に押し隠し、私自身をも偽っていた心持ち――
半分血を分け、産れ落ちる寸前まで私の
その我が子に対する、本当の――、あさましくも心底の気持ちを、ありありと思い出した。
そうして、こう
「――ああ、あの男かい? あれはね、ふん、誰だと思う。あれはね、あれはお前のおとっさんだよ。鏡を見てごらん。今のお前の、その姿にそっくりだよ――」
<了>
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