その十二 猫

※ 本作は、「現代仮名遣い・常用漢字的字体」のものと、「歷史的假名遣ひ・康煕字典的字體」を用いたものと、二つのパターンを用意しここに併載した。双方をお比べになるもよし、どちらか、お好みの方をお読みになるもよし。



【現代仮名遣い・常用漢字的字体版】


 今日はお昼からお天道さまはじくじくとくすぶって御出おいでだし、暮れたら暮れたで今度はお月さまがあんなふうなんでしょう?

 わたくしなんだかみょうな心持ちがして……


 まあ、あの方あの晩が初めてでいらしったの? わたくしもうせんから存じ上げているように思ってましたのに。不思議なものね。


 それがなんだか可笑おかしいようよ。支那そばのお話ばかりさるんですもの。なんでもどこだかの支那そば屋ではおだしにからすの足だの猫のあたまだのを使うんですって――

 だから用心せんと不可いかん、もっとも君なんぞはあの界隈には元から行かんほうがいだなんて――

 だからわたくし申上もうしあげましたのよ。支那そばなんて生まれて此方このかたまだいただいたことは御座ございませんって――


 なあに? ああ、それは昔のこと……

 もうすっかり忘れちまったわ。


 生まれがどうだとか、山の手の――だとか、深窓しんそうの――だとか、詮無せんないことだわ。ねえ、そんな枕詞まくらことばがなにかの役に立つとでも?

 ええ、ええ、そんなことは、これっぱかしも御座ござんせんことよ。

 なれの果てがこんな職業婦人じゃあね……

 つまらないわ―― 今となっては、身寄みよりもないんですもの。

 ええ、それは仕方がないわ……


 え? なんですって? またそのお話?

 いやあね――


 でも、そうなんですって。あの方そう仰言おっしやってたわ。

 なんでもまだ世間の塵芥じんかいけがされていない仔猫こねこの脳味噌を入れるんですって――

 それも――、ああ、いやだわ……

 今夜みたように月が赤くただれた晩が打ってつけなんですって――


 ――あら、そうですの? 猫じゃあなくって?

 いやあね。うそでしょう? なんだか余計に気味きびが悪いわ。なんだか、薄ら寒いようよ……


 まあ、そんなことを仰言おっしやって! よくってよ、知らないわ!


 え? どうか為すったの? それは、なにを為さっているの?……




                         <了>



【歷史的假名遣ひ・康煕字典的字體版】


 けふはおひるからお天道さまはじくじくとくすぶつて御出おいでだし、暮れたら暮れたで今度はお月さまがあんなふうでせう?

 わたくしなんだかめうな心持ちがして……


 まあ、あの方あの晩が初めてゞいらしつたの? わたくしもうせんから存じ上げてゐるやうに思つてましたのに。不思議なものね。


 それがなんだか可笑おかしいやうよ。支那そばのお話ばかりさるんですもの。なんでもどこだかの支那そば屋ではおだしにからすの足だの猫のあたまだのを使ふんですつて――

 だから用心せんと不可いかん、もつとも君なんぞはあの界隈には元から行かんはうがいだなんて――

 だからわたくし申上まうしあげましたのよ。支那そばなんて生まれて此方このかたまだいたゞいたことは御座ございませんつて――


 なあに? あゝ、それは昔のこと……

 もうすつかり忘れちまつたわ。


 生まれがどうだとか、山の手の――だとか、深窓しんさうの――だとか、詮無せんないことだわ。ねえ、そんな枕詞まくらことばがなにかの役に立つとでも?

 えゝ〳〵、そんなことは、これつぱかしも御座ござんせんことよ。

 なれの果てがこんな職業婦人ぢやあね……

 つまらないわ―― 今となつては、身寄みよりもないんですもの。

 えゝ、それは仕方がないわ……


 え? なんですつて? またそのお話?

 いやあね――


 でも、さうなんですつて。あの方さう仰言おつしやつてたわ。

 なんでもまだ世閒せけん塵芥ぢんかいけがされてゐない仔猫こねこ腦味噌なうみそを入れるんですつて――

 それも――、あゝ、いやだわ……

 今夜みたやうに月が赤くたゞれた晩が打つてつけなんですつて――


 ――あら、さうですの? 猫ぢやあなくつて?

 いやあね。うそでせう? なんだか餘計よけい氣味きびが惡いわ。なんだか、薄ら寒いやうよ……


 まあ、そんなことを仰言おつしやつて! よくつてよ、知らないわ!


 え? どうかすつたの? それは、なにを爲さつてゐるの?……




                         <了>




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