その十一 粉
電車が止まった。
車掌が終点だと、大きな声で触れている。
さて、どうしたものだろうか?
人の流れに従って、安全地帯に降りると、車道もそこで行き止まりになっていた。
さて、どうしたものだろうか?
仕方ないので、目の前の三人の後について横断歩道を渡ると、三人はそのまま住宅街の路地へと入って行った。あても無いので、とりあえず三人の後ろを歩いていると、やがて銘々がそれぞれの家の中に一人、また一人と姿を消し、とうとう誰もいなくなった。
路地はこの先もまだ続いている。道なりに進んで行ったが、やたらと曲がり角が多く、まるで迷路じみている。今自分がどの方向に歩いているのかさっぱり見当が付かなくなって閉口したが、このまま歩いて行くしかない。
そうしているうちに、忽然と家並が途切れ、あたりがぱっと開けた。
目に跳び込んできたのは、初夏の鮮やかな緑――一面に
左手の方から、さっと吹き抜けていく風が心地よい。
白い麻の三つ揃えを
一人が機嫌よく歩いて行くには、ちょうど誂えたような
そのうちに頂に到り、遠く眼下が見渡された。右手の奥には大きな湖だか海だかが見え、寒々とした
林は遠目にはなかなかに
見れば赤い
あんなに過ごしにくかった夏がようやく終わりを告げ、白い秋がやってきたと思うと、いよいよ頭も晴れ晴れとしてくるような感慨があった。
ずんずんと先を急いで林を抜けると、大きな
そうだ、思えば今日はここの子供の誕生日の祝いに呼ばれたのであった。建物の右に回って、日本風の玄関で案内を乞うと、奥から十ばかりの女の子が出てきた。姉の後ろの方では、まだ尋常科に上がったばかりというほどの男の子が、柱の影から顔を半分ばかり出してきょろきょろとこちらをうかがっている。
今日はこの二人の誕生日なのである。
双子でもないのに、姉と弟の誕生日が同じ日というのは、今から思えばいささか妙で、もしそういうことがあったとしても非常に
女の子がおしゃまな様子で促すままに、カンバス地の夏靴を脱いで上がってみたが、家の中に大人の気配がない。
今は家の人は御留守かねと訊いてみたところ、姉も弟も何やら言いにくそうなそぶりをする。
御父上や御母上はどちらにと重ねて問うたが、あわやべそをつくるような様子になったので、これはもはや黙っておいたがよいのだなと悟った。
座敷に通ってみると、朱塗りの膳が六つ並んでおり、どれにも黒漆の木皿に真っ白な饅頭が一つだけ載っていた。他の客はどうやらまだ来ていないらしい。後から来る人たちを待つ算段で、膳の前を避け座敷の下の方に腰を下ろして控えていると、女の子が台の付いた茶托に碗を乗せて運んできた。弟は姉の後ろで煙草盆を奉じている。
そうして、姉と弟と二人して前に座りどうやら相手をしてくれる様子である。
ことに弟の方は窮屈そうにひざまずいてかしこまりながらも、ちらちらとこちらの脇の方に横目を使っている。その視線の先にあるのは、一冊の画集である。思えばこれは、二人への土産としてわざわざ携えてきたものだった。
ああそうだ、これはね、誕生日のお祝いだよ、二人で仲良くご覧なさいと言って、画集を手渡すと、さっそく二人は膝の前に開いて頁をめくり始めた。
描かれているのは、西洋の神獣や架空の生き物――一角獣に、牛頭人身や人体馬身の怪物、
二人とも目を輝かせて画に見入っているが、その様子を眺めていて、何だか急にその本を子供らに遣るのが惜しくなった。そう言えばこれはまだ幼かった時分に、洋行帰りの伯父さんから土産に貰った大切な宝物であった。それなのに、どうして手放そうとしたのか判らない。今更ながらに自身の無分別が悔やまれた。
子供らはこちらの胸中など知る由もなく、二人してしばらく夢中で画集を眺めていたが、その顔付が次第に不審そうな様子に変わり、ふと、互いに顔を見合わせる仕草をしたと思ったら、姉がゆっくり立ち上がり隣の西洋間から何かを大事そうに抱えてきた。
見るとこの画集とそっくり同じような画集である。
これは、どうしたねと訊ねると、少し困ったような顔をして本を差し出した。手に取ってみると正に寸分も違わぬ同じもの。違いと言えば、女の子が持ってきた方が、大分新しそうに見えた。
どうぞご遠慮なくお納めくださいと姉が大人びた口調で勧めると、弟も一緒になってどうぞどうぞと頷いた。
誕生日のお祝いだというのに、古い本との交換で却ってあべこべにこちらが新しいものを手に入れるわけには行かない。何度も断ったが、二人とも首を横に振るばかり。随分と気が引けたが、子供がそこまで固辞するのであれば、その好意を無にしてはいけないとありがたく頂戴しておくことにした。
さて、祝いの宴がどのようなものだったのかは、全く記憶にない。
覚えているのは、その夜に
ぼんやりと葉巻をくゆらしながら、心の中はどうしてもふさぎがちであった。子供の祝いに、古い本を贈って代わりに新しい本を貰ってしまったことが、どうも後ろめたかった。
何とも恥ずかしいことであるが、得をしたことの喜びが、知らず知らずのうちに幾度となく胸中に頭を持ち上げた。そして次の刹那には、その邪心にはっとなって顔がほてるように思われた。自らの心理に自らの性根の卑しさがまざまざと焙り出されることが、我ながらどうにも苦々しく、また悲しかった。
やはり明日、本をあの子たちに返しに行こう。
そう思って、最後の別れのつもりで画集を手に取り、一つ一つの絵を心に焼き付けるように頁を繰っていたところ、そこに描かれていた、女の顔に獅子の体と翼を持ったスピンクスが、不意にこちらに顔を向けた。
はっとしたところで、女の顔がにやりと笑ったと思ったら、その画が一瞬にして粉のようなものに変わり、少し傾いた紙の上をさらさらとこぼれ始めた。
驚いて立ち上がり、本を
呆気に取られていると、床の粉が何やら生きもののようにうごめき始め、わらわらと暖炉の方に這って行った。
暖炉に火の気はない。急いで中を覗いてみると、そこに居たのは二匹の
やがてこちらに気付き迷惑そうに横目でじろりと見上げたと思ったら、突然顔を目がけてぴょんと高跳ねした。
<了>
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