その九 聲

 屹度きつとまゐらうと思つてをりました。

 えゝ、伊爾吉斯イルクツクに。

 初茸やら胡瓜きうりやらで漬物を作る頃合ころあひで御座いませう。

 さうさう、蒔蘿ウクロプは大事で御座いますね。あれが無くつては風味がね。

 さうですの。其等それらの仕事が一段落ひとだんらくしたら、屹度きつと伊爾吉斯イルクツクに――さう思つてをりましたの。

 でも、わたくし、少しばかからだこはしまして、しばらせつてゐたのです。難有ありがたい事に御婆樣おばあさまが、休んでらつしやいと、仰言おつしやつて下すつたものですから。

 まどを少し開けましてね、窗掛カアテンは半分ばかり引いて――それは、好い風が這入はひつて來ますの、窗掛カアテンの裾が少しく搖れて。

 さうして、寢臺ねだいに橫になつてをりましたら、何時いつにかにうと〳〵として、それ心地ここちくつて――えゝ、御婆樣おばあさまが大事にして下すつたものですから。

 さうして、うと〳〵致しますと、にはすゞめが參りましてね、鳴き交はしてをりますこゑが、涼やかな風と共に、まどから這入はひつてまゐりますでせう。

 うつら〳〵と、それはもう夢かうつゝ判然はつきりしませんけれども、鳥のこゑ段〻だんだんまるで人が話してゐるかのやうに聞こえてまゐりましたの。

 えゝ、話の中身も判るやうに思はれて――

 ほら、其時そのときわたくしからだは弱つてをりましたでせう、でも、心持こゝろもちいたつて淸〻せい〳〵するやうで、面白可笑おもしろをかしくすゞめ會話くわいわいてをりました。


うだい? 何かあつたかい?」

「うん? あんまり何も無いねえ…… 先刻さつき向うに高粱もろこしが少しばかり落ちてゐたけれども」

「あゝ、あれは、僕も食べたよ。けれども、彼許あれつぱかりぢやあ、一向に御肚おなかは膨らまないね」

何處どこかに何か落ちてやしないだらうか」

「さうだねえ…… それにしても、僕等の仲間も隨分ずいぶんと少なくなつたねえ」

「さうだ。すつかり少なくなつて仕舞しまつた……」

「時に―― あ、大變たいへんだ、大變だ! 湯沸器サモワアルが沸いてゐるよ。早く水を足さないと……」

湯沸器サモワアルに水を足すつて? 君が其樣そんな事をしたつて、何程どれほどの水も運ばれやしないだらうに。まさにほれ、燒石やけいしに水だよ」

「くす〳〵、それ一寸ちよつと旨い事を云つた心算つもりかい…… でも、水は僕が運ぶんでないよ。彼娘あのこが運ぶのさ」

「あゝ、彼娘あのこかい。それにしたつて、運ばれないさ」

「どうして――? 早くしないと、大事おほごとだよ」

「さうとも、大事おほごとだねえ。でも、彼娘あのこには、運ばれない。君にも僕にも運ばれない」

「君や僕では運ばれないにしても、彼娘あのこだつたら大丈夫。閒違まちがひないよ。一體いつたい彼娘あのこ何處どこに居るのさ。此樣こん大變たいへんな時だと云ふに――」

「知らないのかい。彼娘あのこはほれ、其處そこに居るよ」

何處どこさ。何處に居るのさ」

其處そこだよ、其處。其窗そのまど裡側うちがは

其處そこかい? それなら、嗚呼あゝ、早くかないだらうか。彼樣あんなに沸いてゐると云ふのに」

「氣が附いた所で、土臺どだい無理だらうよ。彼娘あのこはね、可哀相かはいさうに、到頭たうとう病痾いたつきになつてしまつたやうだよ」

「さうなのかい? それは、矢張やつぱり、彼樣あんな隨分ずいぶん目に遭つてゐたからだらうか?」


 其處迄そこまで話をいてゐて、わたくしの目はぱちりと開きました。大變たいへんだ、急いで水を足さなくては――さう思つて起上らうとしますが、一向にからだが動きません。


うしたね? まだ〳〵養生してゐないと駄目ぢやないか」


 見遣ると、朧な中に、次第に御婆樣の顏らしいものが目に映つてまゐりました。


「御婆樣、早く湯沸器サモワアルに水を足さないと…… 空焚からだきになつてしまふ。御免なさい…… すぐに致します。どうか、御赦おゆるしになつて……」

「どれ〳〵? あゝ本當ほんたうだ。全く本當だよ。御前は奇態きだいに判つたのだねえ」

すぐに致します。御婆樣、本當ほんたうに御免なさい。どうか、御赦おゆるしになつて……」

否〻いや〳〵、御前はてゐなさい。又、到底たうてい起上りも出來できまい。湯沸器サモワアルわたしが遣るから……」


 其裡そのうちまたおぼえず、うと〳〵として、再び雀のこゑが聞こえてきました。


「……湯沸器サモワアルは何とかなつたかい?」

「あゝ、御婆さんが何とかしたやうだね」

成程なるほどね。それは好しとして、ところで僕等は、これからも食べていかれるだらうか?」

「あゝ、さうだね。生半なまなかに食べていくのは難しからうね」

「難しからうか」

屹度きつと難しからうよ」

て〳〵、さうと決まれば、うすれば好からうね?」

「御婆さんの家來けらいにでもるかい? 彼娘あのこみたやうに」

「さうだね。家來けらいに爲れば、黑麵麭くろパン屑位くづぐらゐは、毎朝貰はれるだらうね」

「でも、僕等に務まるだらうか? 湯沸器サモワアル焚物たきもの松毬まつかさを拾はうにも、小さい僕等では、一つだにとても拾はれまいし……」

「成程、僕等二人掛つても、松毬まつかさの一つだに運ぶのは難しいね。彼娘あのこは冷たい雨の中に松毬まつかさを拾ひに出たのだつたね」

「寒さに震へ乍ら、たんと拾つて來たのにね。此樣こんな濡れた松毬まつかさでは、火がく道理は無いなんて叱られてね」

彼娘あのこ所爲せゐでは無いに。雨の所爲なのにね。彼娘あのこひどく叱られてしまつた……」

「𠮟られたね」

家來けらいるはいが、矢張やつぱり叱られるのはいやだ。取分け、彼樣あんな風にむちたれるのは厭だね」

「厭だね鞭は」

彼娘あのこたれるには、僕は痛くないが、僕がたれるのは、痛いから金輪際こんりんざいいやだ。君がたれるのも、僕には痛くないけどね。ふゝん」

「僕がたれるのも金輪際こんりんざいいやだよ。君や彼娘あのこが打たれるのなら、僕は痛くはないけれど……」


 やがて、雀のこゑに重なって、一羽のからすの聲も聞こえました。それ段〻だん〳〵と人の聲みたやうに――


「……是〻これ〳〵、さうではない。さうではないと云ふに。御前達は何をさわいでをると、その原因もとだねについて何かとたづねたのだ。莫迦者ばかものめ」

「あ、御免なさい。御免なさい」

間違まちがひでした。御免なさい。り〴〵です。退散します」

「退散します。退散します。御免なさい」

「おや〳〵、居なくなつて仕舞しまつた。早計はやとちりにも程がある――。しかし、彼娘あのこ其處そこてをるのだらうか。どれ〴〵――矢張やつぱり寐てをるな。これでは、次の月迄つきまでは、とても持つまい。因果な事だ……」


 雀がつたあとに、からすすぐに居なくなつたやうでした。庭は、しいんとしづまり返り、わたくしの耳の奧もしいんとなりました。


「御免なさい。御免なさいまし……」


 目を開けて見遣ると、ぼんやりした中に、女の子の顏のやうなものが朧氣おぼろげに見えました。年の頃は、十三、四――私より、五つばかり下に見えました。


申訣まうしわけ御座いません。御婆樣が……」

貴女あなた何方どなた?」

申訣まうしわけ御座いません。先程、御婆樣に雇はれました。此方樣こなたさまかはりとおほせになつて……」

「御婆樣が――ですか? さう……」

「はい――申訣まうしわけ御座いません……」

「御氣になさらずともいのです……」

「御婆樣が、此方樣こなたさまソツプ麥水クワスを差上げるやうにと……」

「あゝ、さうですか……。難有ありがたう。でも、もう、わたくしいたゞかれないわ。起上がる事も出來ませんもの……。どうか、貴女あなたそれ御召上おめしあがりになつて……」

「え? よろしいのですか……、わたくしが頂いても? ――じつは、私、もう何日も前から……、御肚おなかとても……」

「あゝ、駄目〻〻! 御前なんぞが呑んでは駄目だ! それ彼娘あのこに呑ませなさい。御前のなら、彼方あつちにたつぷり用意してあるから……。ほら、其娘そのこが起上られぬのなら、御前がさじすくつて呑ませて御遣おやり」


 御婆樣の優しい心遣こゝろづかひに、その女の子も、優しく殊勝けなげに、そつと、一匙、二匙、私の口迄くちまで運んでれました……


 て、其處そこから先が、一向に思出おもひだされないのです

 いづれにしましても、伊爾吉斯イルクツクには、行かれず仕舞じまひです。これから先も屹度きつと――


 此樣このやうな事を、蚯蚓みゝずさんやもぐらさんに御話しても、詮無せんない事とは存じますけれども、土の中では他に御逢ひする方とてらつしやいませんので……





                         <了>


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