その七 矢 《後篇》 禍
明日は、プロジェクトの社内プレゼンの日。
発表項目の多くは、チームリーダーが説明するのだが、そのうちの一つだけ、五分ほどのプレゼンを任されることになった。
この一週間ばかりは、残業続きで、発表練習も五、六回はやった。それでも、どうしても納得いかないところがある。
そういうわけで、明日は一時間ほど早めに出社して、最終準備をしなければならない。
早めに寝なきゃ――そう思って床についたのだが、なかなか寝付けない。
ようやくのことに、うとうとしかけたところ、突然、バイクの爆音。何台もいるみたいだ。
ここのアパートは、大通りの一本裏手にあって、金曜や土曜の夜などには、しばしば、暴走族の騒音が聞こえてくる。路地を一つ隔てているとは言え、けっこう大きな音がここまで届く。
それにしても、今日は火曜日なのに、どうして?
騒音は、しばらく続いた後、だんだんと遠ざかり、元の静かさが戻ってきた。
そして、ほっとしたのもつかの間、今度は、逆に、遠ざかった方向から騒音が近づいて、最初にやって来た方向に遠ざかって行く。
こういうことは、よくあるのだ――それに、二度あることは三度ある。
また、帰ってくるのではと、しばらく待ち構えたが、今度はどうしたことか、なかなか戻ってこない。
これで終わり?
少し拍子抜けして、そのうちまた、うとうと眠りに落ちかけた。
と、そこに、三度目の爆音。しかも、今度は、異様に近い。どうやら、アパートのすぐ前の路地を走っているらしい。
そして、一旦去っても、すぐにまた戻ってくる。ここらあたりをぐるぐる周回しているのである。
もう! いい加減にして!
起き上がり、ベランダから下を覗くと、数台の改造バイクが過ぎていく。
「ヤカラ」め! 許さない。
〝正義〟の矢が、バイクで走り去る背中を追いかける。
ヒューーーーーーッ ドスッ!
「ヤカラ」の背中を、矢が貫いたイメージ。
その直後、大きな急ブレーキの音、それに続いて、激しい衝突音。
え? 何?
向うを覗いてみたが、ここからはちょうど死角になっていて、よく分からない。そのうちに、あちこちから人が出てきた。何やら、がやがやと大きな声で話している。
救急車! 救急車!
そんな叫び声も耳に届いた。
ええっ? わたし? まさか……
それからは怖くなって、急いで部屋に入り、サッシを閉めた。しっかり鍵をかけて、カーテンも引く。
布団をかぶってみても、まだ、外の物音が響いてくる。そのうちに救急車のサイレン音。
事の重大さに、がたがた震えが来てとまらない。
わたしのせい? そんなこと? ありえない。 でも、わたし?……
色々な思いが頭の中を堂々巡りして、怖くて怖くて仕方がない。その夜は、騒ぎが収まった後も、一睡もできなかった。
次の日の朝。
昨夜、激しい衝撃音が聞こえたあたりをこわごわ見に行ったが、目立つほどの痕跡は見つけられなかった。
大したことなかったのかな。それならいいんだけど――
そして、会社でのプレゼン。
昨夜のことが頭に引っ掛かっているためか、途中で何度も噛んでしまい、思った以上にうまく説明できない。何故だかチームリーダーの発表も、ときどき、しどろもどろ。全体として、パフォーマンスは散々で、上や周囲の評価も低調だった。ことによったら、プロジェクトチームの存続自体、怪しくなりそうな雰囲気さえ――
もちろん、今夜も残業。
ほとほと疲れ果て、終電間際の特急に乗った。車内はかなりすいている。端の席に座って一息つくと、いつの間にかに、うとうと眠りに落ちていた。
……チョウ、ナカヤマチョウでございます。お降りになるお客様は、お忘れ物をなさいませんよう……
車内アナウンス! はっと目が覚めた。
ここ、どこ? え? 降りる駅だ!
慌てて立ち上がった瞬間、膝に抱えていたバッグが跳ね上がり、外ポケットに入れていたプラスティックの水筒が床に転げ落ちた。しかも、落ちた衝撃で、どこかにひびでも入ったらしい。
中のコーヒーが零れて流れ、水筒が転がるにつれて、床を汚していく。
え、え? どうしよう?
水筒は向いの座席の下、座っている人の足の奥に入って行った。すぐには拾えない。
どうしよう、どうしよう――
この電車、特急なので、次の停車駅は四つ先。それに、終電間際だから、戻ってくる電車なんてないかも。ここで降りなきゃ。でも、この状態をほっといて降りるなんて、間違ってるよね? とりあえず、ティッシュで床拭こうかな? ――足りるかな、ティッシュ。どうしよう、水筒も拾わなきゃ、どうしよう――
一瞬の間に、色々な考えやイメージが、ごちゃごちゃぐるぐる、頭の中をかけ回る。
間もなく、ドアが閉まります。ご注意ください……
アナウンスの声に、いよいよ急かされて、頭は大混乱。考えが全然まとまらないまま、切羽詰まって、思わず、閉りかけたドアの外に飛び出してしまった。
振り返ると、ちょうどドアがぴたりと閉まるところ。
ドアの向うには、痩せた中年男性。グレーの作業服。
顎を突き出し、目を細めるようにして、じろり。車内から窓越しに、こちらを睨みつけている――
思わずその人に向かって、頭を下げた。
怖さと、後ろめたさと……
電車はゆっくりと動きだした――その動き出すまでの時間が、異様に長く感じられた。
アパートに帰ると、そのまま、ソファの上に倒れ込むように身を投げた。
疲れた…… 本当に…… それに、わたし、逃げた…… 卑怯だ…… でも、怖かった……
羞恥と、悔悟と、泥のような疲労の中、目蓋が重く、とても目を開けていられない。みるみる思考が朦朧として、取りとめがなくなっていく――
――エレベータに乗っている。一人で――
ここ、会社みたい……
表示がだんだんと自分が押した階に近づいてくる。もうすぐだと思ったところ、一つ下のフロアでゴンドラが止まり、ドアが開いた。
外に、人が立っている。
暗がりの中に居て、なかなか動こうとしない。
「お乗りになりますか?」
声をかけたところ、ゆらりと明るい所に出てきて、そこでぴたりと足を止めた。
グレーの作業服――はっと顔を見る。
細い目が、こちらを睨みつけている。
え?
手には、あの水筒を持って――
電車の
怖い!
あわてて、ドアを閉めようとボタンを探す。
押した――あ!間違った。開く方のボタンを押してしまった……
水筒を持った手で、男が、がっとドアを押さえた。
不機嫌そうに口が開く。鋭く甲高い声――
バイクこけてよ、大怪我どころじゃねえよ。
痛えのなんのって…… どうすんだよ! 俺、死んじまったじゃねえか!
おめえがな、ヤカラなんだよ!
突然目の前に、男の、人差し指が突き付けられる。
<了>
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