その六 儺

「恵方巻のご注文は、もうお済みですか?」

 コンビニのレジ。

 店員の若い女性が、営業用の高い声音で、愛嬌たっぷりに微笑みかけた。

 想像だにしていなかった突然の問いかけに、私は戸惑い、一瞬答えに窮したが、すぐに肚から胸へ、ある種の不愉快がきざし、その感情を若干声にも滲ませて、ぼそりと呟いた。

「そんな習慣は、私にはありません……」

 言葉を発した瞬間、大人げない自分の態度への後悔の念が去来したが、それでもムッとした表情はそのままに勘定を済ませ、さっとレジに背を向け歩き出した。

「ありがとうございました」

 営業用ながら、快活な挨拶が追いかけてくる。その明るい屈託のなさが、余計、私の鬱屈に針を刺す。


 連れ合いを失って、もう何年になるだろう。

 性格上、喜怒哀楽をあまり表に出さず、ぶっきらぼうな私だったから、はた目には、特段仲が良い夫婦にも見えなかっただろう。しかし、子供がいなかったこともあり、仕事以外、どこに行くにも、何をするにも、二人だった。

 そう、あの頃は、二人が一緒だった。

 そして、今はもう、一人でいることがあたりまえ。

 それが、幾年にもなる。

 もともと私には、人とは打ち解けにくい性情があり、一人でいるということには親和性があった。連れ合いがいない寂しさは感じつつも、そのような気分にも今やすっかり慣れ切っていた。

 広すぎる自宅は、一周忌が過ぎた頃、人に貸して、自分は会社から二駅の1LDKに移っている。ローンはあと数年続くが、自宅の家賃収入と相殺し、アパート代を入れても大きな負担ではない。家財道具も、ほとんど処分してしまい、今の台所には一人用の冷蔵庫と電子レンジ、食器は水切りかごに伏せてあるだけ。

 帰宅すると、暗い室内の明かりを点け、まずエアコンを入れる。

 そしてすぐに風呂に入り、部屋着になると、流しの下から卓上コンロを取りだす。こたつの上に置き、コンビニで買った一人鍋を火にかける。鍋が温まるのを待ちながら、ビールのプルタブを起こし、缶のまま飲み始める。

 これが、秋から冬の季節のルーティンである。一人鍋の種類は日によって異なる。今日は、鶏塩ちゃんこ。たまには鍋ではなく、弁当や総菜だったりすることもあるが、それ以外はほぼ同じ。会社とアパートとの往復のみの生活自体、すっかりルーティンと化している。

 数年前に、定年が還暦後まで延長されたため、あと三年は、この生活が続く。良くもなく、悪くもなく。定年後の生活も、ぼんやりとしか想像できない。

 今、唯一の楽しみというか、暇つぶしは、自然や動植物。とは言っても、自分で観察に出かけていくような熱心さはない。録画しておいた自然関連の番組を見たり、PCで、SNSなどにアップされている風景写真や動物の動画を見たり。或いは、関連するような記事やブログを読んだり。休みの日には、本屋や図書館で、科学雑誌のページをめくることもたまにある。


 ただそれだけ。


 何のために生きているのだろうか。ふと、そう考えることもある。

 生きていさえすればいいのだ、所詮、生きるとは、こんなものなのだ。そう考えたりもする。

 一通り、アルミ容器の中をつつき終わると、テレビ台の棚からパイプを取りだした。

 喫煙習慣は、もう十数年前、妻の存命中に一切止めているのだが、愛着の染み込んだパイプは手放せなかった。煙草を詰めない空のボウルを掌に収め、その丸い形状を感じながら、マウスピースを噛んでいると、不思議と気分がくつろいでくる。

 ビールから、シングルモルトのオンザロックに換え、纏綿する煙を想像しつつ、パイプにわずかな息を通している。好い気分だ。


 だが、そのゆったりとした心持ちも長続きはせず、ふと、先程のコンビニの一件が頭をよぎった。その時の不快な心境が思い出され、思わず首を振ったが、あえてその記憶に連なることがらを反芻した。


 数年前から、コンビニなどで始まった恵方巻なる習慣の半強制。それに、私は常々、忌々しさを感じてきた。恵方巻のみならず、ハロウィンやイースターなども。

 さらには、最近のブラックフライデー商戦。本来の感謝祭の意味やその複雑な背景はすっかりネグレクトされ、〝サンクス〟ギビングの「サ」の字も見当たらない空疎な狂騒。


 よその文化を無理やり借用してきたイベント。表面だけの軽薄な祝祭。

 その裏にある売らんかなの商業主義と見え透いた扇動の数々。

 そして何より、それにほいほいと乗せられて飛びつく人々――

 

 これらの、俗におもねる、チャラチャラした風潮が、どうにも鼻についてならなかった。一方では、自身のそんな潔癖を、書生じみたセンチメントとは思いつつ――


 しかし、それ以上に、私を打ちのめしたのは、さっきのコンビニでの自らの態度だった。

 あの店員が恵方巻のことを私に訊ねたのは、店員自身の積極的な意思ではない。そのように振舞うことが、店に対する彼女の立場として、規定化されているのは間違いない。それを理解しているはずでありながら、私は、情緒に任せてあのような物言い、振舞いをしたのである。

 客の前ではどこまでも弱い店員という立場、資本に対しても一介の従業員に過ぎない彼女は、私の心無く、幼稚な態度を、どういう感情で受け止めただろう。

 その感情が、もし、私に対する冷淡な軽侮であったのなら、むしろ救われる。そうではなく、あの人の心理に何かしらの負担を押し付けてしまったのであれば――

 私は、決して被害者ではなく、むしろ、加害者の側だ……


 単なる醜悪なスノッブでしかない、老境の駄々っ子――己の正体を眼前に突き付けられ、私は慄然となった。


「今年は、南南東なんだって。お話ししちゃダメよ。黙って食べるのよ」

 母がやさしく笑って、海苔巻きをかじり始めた。

 何のことだか、分からない。

 もぐもぐ頬張りながら、目で、僕にも海苔巻きをかじれと促している。ぼくは、こんなに大きな海苔巻きは、とても一人では食べきれないと、途方に暮れている。

 すると、後の襖ががらりと開いて、豆が飛んできた。痛い、痛い。

 振り返ると、姉が意地悪く笑いながら、ぼくに、思いっきり豆をぶつけてくる。

「鬼は外! 鬼は外!」

「何すんだよ。痛いじゃないか。ふざけるなよ」

「こら! お話ししちゃダメって言ったでしょ、せっかくのごりやくが台無し……、あっ、私もしゃべっちゃった。あーあ」

「あーあ」

 お母さんもお姉ちゃんも大笑いしている。

「ほら、年の数だけ豆を食べなきゃね。たあくんは、いくつだったかしら――」

 お母さんが、ぼくの目の前に、山ほど豆が入ってる丼をドン。そしたら、山がくずれて、ボロボロちゃぶ台に。たたみにもコロコロ。

 あっ、と思ってると、お姉ちゃんも、お母さんも、いっぺんにぼくの前に手を伸ばしてきた。ガバッと豆をつかんで、モリモリ食べてる。

 こんどは、ぼくののり巻きまで。

 半分にちぎって、あっという間に、二人でムシャムシャ。ハラハラ見てたら、豆ものり巻きもすっかり、無くなっちゃった。

 なんだよ、二人とも! すごく意地悪で、すごく下品! もう、びっくり‼

 やり場のない悔しい気持ちがわらわらと湧いてきて、僕はワーワー泣き出した。

 母と姉は、泣いている私をあざけるように、真っ赤な顔で、大きな口を開け、げたげたとわらいころげている――


 目を開けると、すっかり明るくなっていた。

 壁の時計は、七時を指している。

 一瞬寝過ごしたかと思ったが、今日が休みだったことを思い出した。


 全く、おかしな夢を見たものだ。そもそも、私に姉など、もとからいない。

 今から思えば、夢の中の母の風貌も、実際の母の若い頃とは、全然様子が違っていた。むしろ、他界した連れ合いの方に、どことなく似ている気がした。


 私は、布団から出て、仏壇に線香をあげた。

 手を合わせながら、連れ合いとの何気ない会話、二人で行った場所、二人で囲んだ食卓などが思い出された。そして、病床で、力なくも、明るく微笑んでいた姿も――


 ひとしきり妻との記憶をたどると、思いは、まだ健在である母に飛んだ。母は、実家で弟夫婦と一緒に暮らしている。もう九十になるが、まあ、何とか無事に日々を過ごしているらしい。

 この時間だったら、とっくに起きて、朝食も済ませていることだろう。

 いつも四時頃には目が覚めるというのだから。


 久しぶりに電話をしてみようか―― 私は、スマホを手に取った。




                         <了>

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