その五 耳

 知らぬとや? 知っておろう。知らぬ筈はない。

 戯談ぞうたんか? まあ、よいよい……


 時にどうぢゃな、この眺望は?

 ほれ、右手に、ヌグ・ダワンのほこらを岩にうがった島があろう。ダワンの神の、はこのようなる形代かたしろが見えておろう。


 見えぬとや? 見えておろう。見えぬ筈はない。

 わしのように、野葡萄のぶどうの目をしておるならばまだしも、炯炯けいけいたる、黒酸塊くろすぐり晴眼せいがんに映らぬ道理はない。


 昏眼こんがんの者に、かような戯談ぞうたんを遣うは、いかにも、人をつけにする振舞いぢゃろうて……


 何? 何と!


 はっは! もう暮れておるのか。はっはっは……

 さあれば、道理。さあれば、道理。

 いやな、わしは昼夜を分かたぬでな。なにせ、野葡萄のぶどうの目ぢゃによって……


 今日は晦日みそかなれば、いかに晴眼せいがんたりとも、暮れたるのちに見えぬは道理ぢゃな。

 目は曇る、年は取る――、かくなれば、心もくなる。

 先刻さきは、戯談ぞうたんなぞとうたごる物言いせるは、わしがとがぢゃ。

 こうべをかくも垂れて、詫びもしようぞ。ゆるいてくりゃれ。


 さてさて、さあれば、さあれ――

 水面みなもに闇は、雲の如くに流れておろうか?

 射干玉ぬばたま黒羅紗くろらしゃは揺らめき広ごりたるか?


 そうか、そうか。さもあろ、さもあろう。


 さてさて、黒衣白面こくいびゃくめんという。

 しらしらと――見えてはおらぬか?

 流るる闇の黒羅紗くろらしゃに、しらしらと穴がうがたれておろ?


 そうか、見ゆるか。

 その白きうろこそ根本ぢゃ。忘るまじいぞ。

 うろにして、虚にあらず。

 見ればうろ。しかして、触るれば、さにあらず。

 硬き、冷たき、白きおもてぞ――


 なあに、鳥の姿をしておるというは、いかにも虚仮こけぢゃ。惑うまじいぞ。

 仮に、空穂舟うつぼぶねさながらと言うても、さように映じてくるであろ。

 真面目しんめんもくを見ねばならぬ。真面目しんめんもくは目にては見えぬ。

 耳ぢゃ。耳をば、まっすぐに走らすのぢゃ。

 耳こそ、魂魄こんぱくの窓。耳こそ、深淵に架かるきざはし

 耳を用うるは、ただ音に聞くばかりではない。

 さよう――

 耳をもって眺め、耳をもって嗅ぎ、耳をもって触れ、耳をもって味わい、耳をもって思案することぞ。これこそ、肝要。


 そろそろ、よかろうか……

 ほれ、そこに、革袋があろ。青鰐の革の……

 さよう、この袋。この中に、みな揃うておる。打ち金も、打ち石も、火口ほくちもあろ? カラズマの樹脂も――

 打ち金の先でカラズマを少しく削って、火を点けてみるがよい。


 ほう、点いたか。よい香りぢゃな。


 この香に引かれて、渡り始めたものもおろ? どうぢゃな?

 黒衣白面こくいびゃくめんぢゃぞ。

 見えぬか? 目のみで見るでないぞ。目のみでは見えぬ。

 耳を利かせなんだら、見えぬものぢゃ。

 耳の穴をすらりと開け、耳のさきをきりりと砥げ……


 見えぬか? どうぢゃ?

 野葡萄のぶどうの目ながら、わしにはもう見えておるぞ。

 そなたのその、黒酸塊くろすぐりの目に見えぬ筈はない。


 二つの核芯さねを、くわりとあらわにし、朴の葉の耳をば、ばさりと振り立てよ……

 目と耳とを繋ぎ、耳と鼻、耳と舌、耳と肌膚はだ悉皆ことごとに繋げ。一身全て耳と化せ。


 かしらの天辺の渦から棒のごとくに息を吸い、足指の股から糸のように吐き出せ……

 カラズマの香を、総身の毛の先に、ことに、耳の毛のさきに、むわりとまとえ……


 黒衣白面こくいびゃくめん…… 闇の袍衣うわぎぬぞ、白皙乾骨はくせきかんこつおもてぞ。


 渡りおろ? 渡りおろう?

 ほれ! おびただしい羽搏はぶきのとよみぢゃ。

 まこと、芬々ふんぷんたるカラズマの香とともに――




                         <了>


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る