春の輪郭
淡島ほたる
春の輪郭
「うつくしいものだけを信じて、生きていたいの」
あれは、だれの言葉だったか。
泥濘。朔は、泥濘のさなかにいる。足を取られては、何度も躓きそうになる。
遠くに、闇夜が見えた。やがてあらたな朝が訪れる。白く鈍く発光し、まぶしいと感じる。時間の進みかたが遅く、足場はぐらぐらと揺れていた。腕時計の文字盤が、月の熱で溶かされている。
花曇りの傍らにある庭は美しい。しかし、この風景を信じたくはなかった。どこまでもまっとうな純粋さは、いつも朔の胸を暗くした。ぐ、と自身の首もとを押さえる。冷たくて気味が悪くて恐ろしかった。そういうとき、朔は生きていると実感する。たしかめて、安堵する。死にたいのか生きたいのか判らなくなっても、生きようとしている。そのことにひどく救われていて、ばかみたいだと思う。
「信じてください」
なんだか風が強かった。耳を塞いで、ああ、と声をあげた。ある特定の事象に対するものではない、草臥れた嘆きだった。能動的なもののすべてを疎ましいと思った。朔は、この世のなにもかもを遮断したかった。
「私を、信じてください」
そう話しかけられてしゃがみ込んだ。祈っても祈っても、風景はもう、切り替わってはくれなかった。静かにゆらゆらと光る水面に飲み込まれそうになって、朔は両手で顔を覆った。
「……僕は、なにも信じることはありません。自分自身のことだってわからないのに、ましてや世界のことなんか、信じられるわけがないでしょう。信仰なんて、むだなんです」
朔がそう呟くと、あたりは凪いでしまった。
あなたを貶めたわけではないのに。そう唱えてみてから、自己嫌悪で狂いそうになる。
むこうを傷つけてひとりで苦しむのは、この世でいちばんの愚行ではないのか。
「私は、平等で在り続けます。あなたが信じられないと言うのであれば、すがたを消して、あなたと生き続けます」
灰色のしんとした空を見上げていたら、花のにおいが胸を満たした。春に生まれたいくつもの、澄んだやわらかな花のにおい。かつて、他人を憎んでいたころのこと、とても親しくしていたひととの戯れの記憶が、温かな雨のように朔の肩を濡らした。
「僕には、うつくしい朝陽も、日照雨も、柔らかな春も、なにも必要ありません。生きるのはつらいことです。言葉を尽くすのは、わかりあうのは、望むことは、幸福からは程遠いものだ」
「ほんとうでしょうか。あかるい夜の海や、しずかな木漏れ日や、朝焼けを映す湖は、あなたを貶めたりなんてしないのに。ねえ、いちどだけ、目を覚ましてください」
知らぬまに、連れ出されてしまった。朔は言われたとおり、たったの一度だけ、目を覚ました。永遠の夜の気配が、ようやく体から離れてゆくようだった。
花曇りを、長くぬかるんだ道を、はじめて美しいと思った。うつくしさは、孤独なものではなかった。春はいつだって、朔に寄り添っていた。
「向きあいたくなければ、直視しなければいい。なにも話さなくてもいい。けれど、あなたがどんなに苦しくても、幸福でも、私はあなたと在り続けます」
時計の針が、ゆっくりと回り始める。桜は燃えるようにきれいだ。震える足に力をこめてようやく立ち上がると、背中に柔らかな風が吹いた。季節は輪廻し、祝福され、存在し続けている。
深呼吸をする。煙った、春の夜のことだった。
春の輪郭 淡島ほたる @yoimachi
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