桂昌院-束縛?解放?玉の輿-五代将軍綱吉の母
龍玄
五代将軍綱吉の母--桂昌院-束縛?解放?玉の輿
三代将軍・徳川家光の正夫人は、関白鷹司信房の女・鷹司孝子。公家から嫁いだ二歳年上の孝子は、結婚当初より家光の男色趣味が原因で大変不仲だった。
乳母の春日局(お福)は、家光が女性に興味を持たないと世継が出来ないと大変心を痛めていた。そこで、自分の縁者のおふりと云う女を家光の枕席に勧めした。大恩あるお福の言うことには逆らえないと家光も励み、おふりが寛永十四年閏三月五日に千代姫を生むと、家光はお役ご免とばかりに、また男色に走った。
そんな家光が突然、ある女性に心を奪われてしまう。それは、寛永十六年、伊勢の禅寺で尼寺の慶光院の住職が就任の挨拶で江戸に上がり、家光に拝謁した時の事だ。
すぐさま家光は、春日局を呼びつけた
「如何なされました家光様」
「あの住職が気に入った。なんとかせい」
「えっ、住職ですと…」
突然の告白に春日局は、よりによって尼さんが趣味とは、腰を抜かすほど驚いたがが、家光がやっと女性に興味を持ったですから何とかしなければと自らに言い聞かせ、この尼僧をさんざん口説いて還俗させますがそこには問題が…。
「おお、どうじゃった」
「ご期待通り承知させましたが…」
「どうした」
「流石に髪を剃った尼さんを枕席に侍らせることは叶いませぬ」
「私は気にしておらん」
「なりませぬ。上に立つ者、振舞は厳格になされませぬと示しがつきませぬ」
「そなた、日頃から子が欲しいと言うとろうが」
「それはそうですが…」
「何とかせい」
「わ、分かり申した。何とか致すゆえ、今しばらくお持ち下され」
「うん、よきに計らえ」
春日局は思案の末、尼の髪が生え揃うまで田安屋敷に留めてから家光に供することにし、家光の了承を得るとその尼にお万という俗名を与えた。
恋焦がれたお万を家光は、男色狂いが嘘のように寵愛したが、子に恵まれないでいた。その陰には、お万の素性が、公家の六条宰相有純の娘であったため、世継を生むと朝廷の勢力が徳川家に伸びてしまう。それを嫌った大奥は後に慣例となる五摂家または宮家出身の御台所(将軍正室)、それ以外でも天皇家・公家を外戚に持つ将軍が誕生しないよう管理していたとされたのではとの噂も流れた。
父・有純は朝廷の官職である参議であり、三条西家の同僚の和歌の家である六条家の娘であった万も決して例外ではなく、妊娠するたびに堕胎薬を盛られていた、あるいは不妊薬を飲まされていたという俗説もでる始末。
「お局様、このままではお世継ぎが…」
「分かっておる。強い力が世を束ねれば戦乱が起きる。そうさせてはならぬ。そのためならば私は、この命を鬼に取られても悔いはないわ…如何にしても成し遂げてみせようぞ。しかし、家光様が女性に目覚めて頂けたのら、それはそれで良いとせぬか」
「御意…」
そんな頃、お万に同行してからお玉は、お万に会える日を夢見て、大部屋の女中として歯を食いしばり頑張って働いていた。春日局とは幾度か会っていたが、身分の差もあり、話すようなことはなかった。そんなある日、廊下を歩く春日局を見つけたお玉は、意を決して尋ねた。
「お局様、お玉と申します。お万の御方に同行した」
「…」
「お万の御方は健吾に過ごされているのでしょうか、会いとうございます」
すると、春日局の取り巻きに直ちに制止させられた。
「そなたごときが何を致す、下がれ、下がれ」
と、あしらわれた。不条理にいらだつお玉の横を葛岡たちが馬鹿にしたように通り過ぎる。怒り心頭に発したお玉は、思わず葛岡たちに桶の水をぶちまけてしまった。
「な、何を致す、ただでは済まさせぬ」
背後の争いごとに気づいた春日局は、場を治める。
「待たれ。この者、今より私の部屋付きに取り立てることに致す」
葛岡たちは唖然とするも従うしかなかった。その後、春日局は、お玉の要望を聞き入れお万にお玉を譲り渡す。お玉はたまらず「尼君様!」と声を掛けた。こうして、お万の部屋付きに取り上げられ、お玉の夢のひとつは叶えられた。その夜、お万とお玉は心置きなく久し振りに語り合った。
日が変わり、お万の元へ家光からの贈り物の着物を持って春日局が訪れた。家光からの着物を拒んだお万に、春日局は側室としての務めを果たすよう強く言いつけるがお万は頑なに拒み、話をそらし、家光の正室・孝子に侘びを言いたいと申し出る。春日局は、お万の落ち着きぶりに何やらを決心したのではとたじろいだ。
春日局の制止を聞き入れずお万はお玉を伴い、中の丸に追いやられた孝子を訪ね詫びを述べるが、孝子は「侘びなど無用」と言い放ち、反対にお万を哀れんだ。
日が過ぎ、お玉も成人となっていた。相変わらず気丈に働くお玉は、お万の元で楽しく大奥で過ごしていた。お玉のもう一つの夢は上様に出会う事。こればかりは、お玉の身分では敵わないことだった。
そんなある日、春日局は日頃のお玉の奉公のご褒美にお玉の夢を叶えてやろうと将軍とお目通りが唯一許される御庭拝見に参加させることにした。それを聞いたお玉の喜びは計り知れず、何とか家光の目に留まるように策を練った。これと言った策も見つけられず燈台下暗しと言うべきか開き直りと言うべきか、ありのままの自分を見せようと当日を迎えた。その日、他の者が着飾り、自慢の一芸を披露する中、お玉は、春日局の勧めも利かず、普段の着衣で参列した。一芸では、幼いころに覚えた郷土の歌を披露しようと思っていた。流石の春日局もお玉の意志に根負けしたものの、失望感に襲われていた。参加者を観てお玉は、見た目では勝負にならないと自覚させられた。お玉の何とか家光に見初められたいと言う欲は形を潜め、純粋に家光に会える嬉しさを感じ、素朴で素直な笑顔で輝いていた。
内心、春日局は、何をにやついているのか、しゃっきとせぬかと、心配する気持ちをお玉を直視しないことで抑えていた。
ある参列者が木刀の薙刀の演舞を披露していた。その時、緊張からか刃先が運悪く、庭の木に当たり、木の葉や枝が庭に散らばった。演舞者は、顔面蒼白で涙ながら失態を謝るばかり。他の者は冷ややかな目で演舞者を見下していた。その時、お玉が飛び出してきて、袖から襷を取り出し、襷がけをして、飛び散った葉や枝を搔き集め、袖の中に取り込んだ。そして、放心状態で座り込む演舞者にお玉は優しい声を掛けた。その姿を家光は、見終えるとすくっと立ち、その場を退いた。誰もが家光が怒りの表れと捉え、御庭拝見は取りやめになった。ここにお玉の夢は、途絶えた。
「お万、話がある」
「何で御座います」
「その~、そのだ」
「はっきり、申されなされ」
「では、そなたの部屋付きだったお玉と言う者に夜伽を申し付けたい」
「何と、お玉にですと…」
お万は、驚きの告白にもそれで自分が務めを果たさないでよいのなら、また、お玉も望んでいたこともあり、春日局や家光の不安をよそにあっさりと承諾して見せた。
お玉は、京都西陣の八百屋の娘。商人の娘らしく活発な子だった。八百屋を営んでいた父が亡くなった。それを知った父が野菜を納めていた下級武士・本庄家は、働き者のお玉を身分制度を気にせず養女とした。本庄家の養女となったお玉は、公家出身の尼僧の侍女として奉公することになり、商から士、士から公家へと運のいい事に出世の階段を昇っていく。お玉は、それだけ公家に奉公に出しても恥ずかしくない聡明な女性だった。本庄家にしてみれば養女した女の子のおかげで、公家との濃い関係を築けた。お玉には、それだけの価値のある魅力があったのだ。
運に好かれたお玉は、家光の男子を産む。後の五代将軍・綱吉だ。当初は、綱吉の上に2人の男の子がいたため、将軍を継ぐ可能性はほとんどなかった。ところがお玉は、諦めないでいた。「この子が将軍になったときのために」と熱心に綱吉を教育した。そんな中で家光が亡くなり、四代将軍は予定どおり嫡男の家綱になり、側室のお玉は出家して桂昌院となる。それでもお玉は諦めないでいた。桂昌院になった後も綱吉の教育に熱心行っていると突然、四代将軍・家綱が亡くなった。家綱には子どもがなく、家光の二男もすでに他界していた。将軍を継ぐ男子は、お玉の子・綱吉しかいなかった。こうして五代将軍・綱吉が誕生し、八百屋の娘だったお玉はなんと、将軍の生母になる。お玉が「玉の輿」の語源になったのも頷ける。
お玉が産んだ五代将軍・徳川綱吉といえば、天下の悪法といわれる「生類憐みの令」を発令した“お犬さま将軍”。この裏には事情があった。
お玉は、自分の運の良さを神仏のおかげと信じることで心を落ち着かせていた。特に綱吉を身ごもった時から、仏に男の子が生まれますようにと熱心に祈りをささげるようになった。その結果、おのこが生れ、将軍になった。そんな折、綱吉の嫡男・徳松が五歳で病死。たった一人の子どもだったことでお玉と綱吉は深い悲しみに沈みむ。この後も、綱吉に子どもができることはなかった。お玉と綱吉は、これは良い行いが足りないからだと信じて、世継ぎの誕生を仏に祈り続けた。
そんな経緯から発令されたのが「生類憐みの令」。お玉と綱吉は、動物たちを大切にする良い行いをすることで、世継ぎに恵まれると信じていた。
「この世の誰もが慈悲の心を持ち、他に仁愛を施さなければならぬ。しかし、実際には万物の命を奪いながら誰ひとり顧みるところがない。なんとも嘆かわしいことじゃ」
と、綱吉は残している。綱吉に子どもができなかったのは、綱吉の血を継ぐ将軍をつくってはならないと判断した大奥の調整によるものだったのかも知れない。お玉が奉公していたお万の方が子どもを産まなかったのは、公家の血を将軍家に入れてはならないと考えた大奥の調整だったともいわれる。お万の方は妊娠すると堕胎薬を盛られていた。子どもに恵まれた綱吉にその後、世継ぎが生まれなかったのは、ここでも大奥が、綱吉の血を後の将軍に受け継がせてはならないと調整したと噂された。
晩年、お玉さんは京都の寺社の復興に力を注いだ。特に故郷の今宮神社に対する崇拝と西陣への思いは非常に強かった。そして元禄7年(1694年)には御牛車や鉾を寄進し、祭事の整備や氏子区域の拡充も行われた。さらに社領として50石が与えられている。お玉が、晩年に詠んだ歌だ。
「法の師の をしえてたまうにならいそて わが後の世も たのみこそすれ」
(もう何年も仏の教えに触れています。ですからどうか、後の世も人々が幸福でありますように)
すべてを仏のおかげと信じたお玉は、信じがたい幸運に恵まれ続けた人生を仏のお陰と感じ、綱吉に「生類憐みの令」を発令させたのでは。
お玉がち、八百屋の娘のままだったら、同じ商人と結婚してのびのびと暮らしていたのかも知れない。玉の輿結婚は、幸を得た反動のかなりのストレスを抱えることは間違いないようだ。
「玉の輿結婚」があなたに訪れたらどうしますか?
お金がないストレスと、お金があっても自由にならないストレスに耐える人生とどちらが幸せになれるか、慎重に考えて決めた方がいいでしょうね。
桂昌院-束縛?解放?玉の輿-五代将軍綱吉の母 龍玄 @amuro117ryugen
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