ルーマニア国トランシルヴァニア 3
深夜、不穏な気配で目が覚めた。
ベッドの横でマロンも上半身を起こしている。
わたしに目配せして、人差し指を唇におき黙るように合図してきた。
カーテンの開いたガラス窓から月明かりが白く届き、床に反射している。とくに異質なものは見当たらない。
と、マロンの目が獣のように光った。
フゥーフフフゥ、フゥーフフフゥ。
耳慣れない音、なんだろうか。
生き物の息遣いのような、あるいは、自然がヒト声を真似しているような音で。
ベッドのなかで目だけを移動して、部屋のあちこちを見渡した。バルコニー側のガラス窓が白く曇っている。
と、パキパキッと音がして窓ガラスに氷が張るような筋ができる。
これは、結露とは違う。ガラスにヒビが入っているのだ。
うぶ毛が逆立ち、背筋が凍るような恐怖を覚えた。
「マロン!」
呼ぶと同時に、バルコニー側のガラスに斜めに入ったヒビが広がる。
マロンがベッドの下へと滑らかに体を落とした。床にうずくまってから、立ち上がる。白い絹のガウンが大きくひるがえり、わたしの視界を隠す。
ベッドと窓の間に、背筋をすっと伸ばして立つマロン。
こんな時だけど、なんて美しいのだろう。
小柄だが均整の取れた体つきで、月明かりに透けて体の線をあらわにする。
フゥーフフフゥ、ふぅふぅヴーフフフゥ……
かすれてはいるが、
「deschide!」
深く底なしの声が聞こえ、同時に人とは思えない咆哮が再び聞こえる。いや、聞こえてはいない。床から振動が起き、体に響いているのだ。
ブゥーフフフゥ、ふぅふーフフフゥ……
ワキの下を冷たい汗が流れた。
「deschide!」
再び声が響いた。
「マロン……」
「あいつが来たようね」
「知り合いなの? だとしたら、こんな夜中に随分と礼儀知らずだけど」
「怖くないの?」
「あんたが一緒だから」
マロンは音もなく滑るように歩くと、薄暗がりに影が見えるバルコニーのガラス戸を開けた。
すかさず冷たい風が室内に吹き込んでくる。
バチンと音がして部屋が明るくなった。マロンが照明をつけたのだ。いきなり明るくなったので、目がしょぼついた。
マロンの声が聞こえる。
「ちょっと……、普通にドアをノックして会いに来ることはできないのか、キャレブ=デシャネル」
「それじゃあ、つまらんだろうが。劇的なのは美しいものだ」
「相変わらず、見当違いの美意識で過ごしているようね。にしても、窓ガラスのヒビ、責任を持って弁償しなさい」
「おお、わたしの美しい姫君。その美しさがさらに増して、神々しくもある」
「なぜ、来た」
「わたしを呼んだであろうが。違うのか? 昼にロマ族の格好をして完璧に踊る、アジア系の小柄な観光客がいたと聞いたが……。ふむ、いい匂いがする。そちらはヒトか。ヒトだな。わたしへの供物か」
わたしはマロンを見て、それから、男を見た。
胸板が厚く大柄な男だが、顔は中性的で異常なくらい色素がない。つまり、白粉を塗ったかのように白い。
黒い服に黒いマント。
21世紀にしては、あまりにも時代かかっていて、逆に新鮮だった。
「彼が、あの、会いに来たヴァンパイア?」と、マロンの耳元で聞いた。
「そうよ」
「え、そうなの。いかにもって格好すぎて、ちょっと興醒めだけど」
「聞こえているぞ。女」
キャレブ=デシャネルと呼ばれた男は、マロンに話しかけた。
「そなた、匂いが変化したな。血の匂いがする」
どういう意味なのだろう。
マロンに血が通ったということなのだろうか。それは、わたしも気づいていた。
学生時代、マロンの肌は氷のように冷たく、触れるたびにドキっとしたものだ。今のマロンは触れると暖かい。
「ついにはじまったのか」
「だから、お別れに来たわ」
ふたりが、お互いを警戒するように近づいた。
月明かりを背後に姿が重なる。
男は背が高い。マロンの頭頂部が肩ぎりぎりに届く高身長で、190センチはありそうだ。
彼の胸に抱かれたら、マロンは胸板の下にすっぽりおさまり、きっと窒息する。
二次元オタクとしては、この身長差が美味しいけど。
ふたりは一定の距離を保っている。ただ、それだけなのだが……。
わたしはマロンが人ではないと思わなかった。これまで、不思議とそう感じなかったのは、たぶん、マロンひとりだったからだろう。
人外の男と隣りあったとき、はじめてマロンがあちら側の人間なのだと気づいた。
ふたつの異質な者たちは、月明かりの下で、あまりに美しく、美し過ぎて恐怖すら覚える。
(つづく)
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