ルーマニア国トランシルヴァニア 2
宿泊先のオーレリアス・インペラトール・ロマニロールは、湖畔に面した華やかなホテルだった。テニスコートや室内プールもあり、赤い切妻屋根のある建物はスイスによくある高原ロッジにも似ている。
さて、内部に入ってみようかなんて、ワクワクしながらホテル内に足を踏み入れた。
そこは、まさに別世界だった……。
わたしね、安いビジネスホテルが常宿だから。なんなら新婚旅行も、ビジネスに毛が生えたホテルだったから。
フロントまで入り口ドアから数歩で、シンプルな長いカウンターがあって、スタッフはくたびれ愛想の悪いオッサン。そんなホテル。
キーを渡されて重い荷物を自分で運ぶ。
それが、スタンダード。
これは、どうよって話だ。
高い天井にむき出しの
「マロン、すごい、すごい、すっごい!」
「騒がないで、モチ。恥ずかしいわ」
「え? 恥ずかしいって、そんな感情があるの」
「そんな感情があるフリをしなきゃ」
「なんでよ」
「時に、感覚のするどい人間がいて、正体を見破られる。だから、目立ってはならない」
「いや、すでに、その容姿で目立っているから」
「あんたの大興奮で、さらに目立っている!」
「マロン」
「なによ」
「楽しい!」
マロンは何も答えず、さっさとフロントでキーをもらった。
『ご滞在中のお荷物が届いております。先にお部屋に入れておきました。この度は当ホテルにお越しくださり、誠に光栄にございます。御用がございましたら、なんなりとお申し付けください』
なんてことをフロントマンが英語で
『ありがとう』
マロンが言うので、隣で頭を90度以上さげた。と、すぐにマロンに首ねっこをつかまれ引き起こされてしまった。
「なにしてんの、モチ」
「丁寧なお辞儀で礼をつくしてみた。フロントマン、王様みたいだから……。ど、どうしたの? マロン。なに、わたしを置いて先に行かないで」
「本気で恥ずかしくなってきた」
通された部屋は白を基調とする豪華な内装で、キングサイズのベッドも白。青いビロード生地を張り、金で縁取った椅子やソファは貴族の別宅という印象だ。招かれたことはないけれど。
「部屋も豪華。すっごく豪華」
「こういうとこに泊まったことがないの」
「リゾートホテルのスィートルームなんてはじめてよ。普段はビジネスホテルだから。えええ? ひ、広い! わたしのマンションの部屋より広い。ね、ね、どうする? プールに泳ぎに行く? ね、ホテルを探検してもいい?」
「落ち着け」
「これが落ち着けますか。あんたは感動ってものを知らない」
「そんな感情は一千年も前に捨ててきた」
それから、嫌がるマロンを引きずって様々な場所を探検していると、いつのまにか外は暗くなっていた。
ここから車で一時間ほどの距離に、ドラキュラ城のモデルと知られるブラン城があると聞く。
だからというわけでもないだろうが、天候は
雲が多く日中でも薄暗く、日没は遅い。午後7時はまだ明るく、午後8時を過ぎて、ようやく暗くなった。
「この頃、眠れるようになったわ」
例のごとく、優雅にベッドに横になりながら、マロンがなにげなく呟いた。
「眠るって。夜、これまで寝なかったの?」
「寝ていない」
「それは、つまりどういう意味、マロン?」
マロンは何も言わない。
これまでも、質問に黙ることがあった。言いたくない過去が多いのだろう。この小柄な体で、どれだけの時をひとり孤独に過ごし、ひとり涙を流してきたのだろうか。想像すると胸が痛くなる。
この見知らぬ感情を、なんと表現していいのかわからない。
異性に対する情熱的な恋ではない。でも、友情というには軽すぎる。愛というには重すぎる。だから、わたしは迷う。
胸の痛みを、どの言葉に当てはめればいいのか。
だって、かわいそうなマロンなんて口にしたら、この女はわたしの前から消えるかもしれない。
「なに、ひとりでニヤニヤしているのよ」
「いえ、かわいそうなマロンと思ってさ」
「おまえという奴は! いい度胸だな」
「テヘヘ」
マロンは頭を振った。
それから、何も言わずに室内からバルコニーに出ていく。出る瞬間に隠したが、にやりと頬が緩むのが見えた。
だから、消えるつもりはないようで、わたしは安堵する。
それにしても、なぜ、マロンを試してしまうのだろう。自分の衝動がわからない。まるで彼女に恋しているみたいだ。
バルコニーの開いたガラス戸から湿気の混じった風が、すぅーっと入ってくる。東京のこの季節に比べれば、かなり肌寒い。わたしはカーディガンをつかむと、マロンを追った。春とはいえ、夜は10度以下に気温が下がる。
「マロン、マロン」
「なによ」
「ずっと、側にいてよ」
「なに、気持ちが悪いこと言ってるの」
肌の接触を嫌うマロンの腕を強引に組んだ。
異国の夜は物悲しい……。
日中ならバルコニーから針葉樹の森を眺められるが、この時間は真っ暗で何も見えない。オレンジ色に輝くホテルの街灯だけが郷愁をさそう。世界が知らない間に滅亡して、ふたりしかいないみたいだった。
「寒くない?」
「ちょっとね」
マロンの肩にカーディガンをかける。
「モチ、わたしは、もう消えないわよ」と、ぽつりとマロンがつぶやいた。
「うん、そうして」
それから、わたしたちは、ここは寒いとか、静かねとか、雲で星が見えないとか、どうでもいい会話を続けながら、いつまでもバルコニーで寄り添っていた。
(つづく)
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