最終話 不死の姫
叩かれた頬の痛みで意識が戻った。
肌に触れたままのマロンの手に気づく……。直に触れるなんて、他人を遠ざけ、接触を嫌うマロンが珍しいって思うと、心臓がドキドキンと大きく高鳴る。
「気がついた?」
こもったような声がボワンと耳に届く。
わたしは雨水に濡れたアスファルトの道路に、大の字で寝転がっているようだ。地面の冷たさが肌に直に伝わりヒンヤリする。
「モチ、気がついた? 返事をして。心を乗っ取られないで。あんたは、あんたなのだから」
「マ、マロン」
まだ、頬に彼女の手が残っている。その手に指で触れると、火傷でもしたかのようにパッと外していく。昔なら、可愛くない女だと口にしたかもしれない。
「マロン……」
ハアハアハアという荒い息が聞こえ、それが自分の呼吸音だと気づくのに、数秒かかった。
かぶさるように、わたしを見ているマロンの息もあがっている。角度によってはふたりが抱き合っているように見えるだろう。
「……、あ、あれはもう消えたの?」
「ええ。また、いつか来るけど」
「よほど、あんたを恨んでいるのね」
「執着しているのよ」
マロンは安堵したのか、わたしの上から離れた。それが、心残りでもあり同時に、安堵もした。
やけっぱちなどうとでもなれという気分で、奇妙なことに、すごく満たされてもいた。
夜空を眺めると──
屋根に切り取られ、雨によって大気が洗われ、見慣れた風景が
マロンが隣にいる。
街はこともなく、星は輝いて、世界はわたしたちに向かって広がっている。
「わたしたち、どのくらい、戦っていたの」
「数秒とも、数時間とも、数日とも」
「数日は困るわ」
「どうして」
「仕事が立て込んでるから。数日もいなきゃ、わたしの会社が傾いてしまう」
「わたしは金持ちよ」
「ここで自慢なの、マロン」
「一千年も生きてれば蓄財もできるわ。あなたの会社のひとつやふたつ。いくらでもスポンサーになってあげるほど持っている。蓄財には長けてるのよ」
「そんな賢い女が、あんな化け物に呪われるんですか。そもそもが、バカなのよ」
「言ったわね。男にモテないって、泣きついてきた女は誰よ」
「忘れた」
わたしはゴロリと回転して、腕を枕に、となりで寝転がっているマロンの顔を見た。
たぶん、多くの男たちが、この顔に恋焦がれ欲望に眩んだ目で見たことだろう。
あと数センチ近づけば唇が触れるほど近くにあるマロンの顔。なんの傷もない完璧な素肌と完璧な容貌が街灯のオレンジ色の光に浮かび、目の前にある。
それは、あまりに完璧すぎて、なんだか笑えてきた。
笑いはじめると止まらなくなって、顔をくしゃくしゃにして大声で笑った。マロンも吹き出して、それから意外なことをした。わたしの肩に倒れ込んできたのだ。わたしたちは息がきれるほど、ふたりで抱き合いながら笑った。
「マロン、会いたかったわ」
「わたしは……、わからない。近づけば危険な目にあわせるから、遠くから見守っていたほうが楽よ。こんな遠慮をわたしにさせるなんて」
「賢いようで、愚かよね。いえ、黙って、何も言わないで。伝言があるのよ。
「たぶんね。この世界から消えることができなければ、もう時間的な猶予は残されていない。意識を持たない化け物に変化するってことでしょう」
「それ、どういう意味?」
「知らなくていいわ。ただ、心配しなくてもいいわ」
学生の頃のように傲慢な言葉遣いだが、表情は穏やかで優しさに満ちている。
このマロンの姿を説明するのは難しい。男に見せるあざと可愛い態度でも、女に見せる冷淡な態度でもなかった。
「藤原兼家の娘だったの?」
「そうよ」
「それって、藤原道長の姉だっていうこと」
わたしは腹ばいになって、体を起こそうとしたが、ガクっと全身の力が抜けた。
「何しているのよ、あいからわず意味不明のモチ」
「ひざまずかなきゃ。だって、平安時代に、あの大変な権力者だった藤原道長の姉って、うわって言うしかないけど。平民が目を合わせちゃいけないでしょ。あ、ということは紫式部とか知っているわけだ」
「わたしは深窓の姫だったから、座敷から出られず軟禁状態で過ごしていたのよ」
軽く言われた『軟禁』という言葉に唇をかんだ。マロンの悲惨な幽閉時代は、ありきたりの慰めでは、とても足りないほどの凄惨な体験だと知っている。数々の理不尽な経験をしてきた、この愛おしく悲しい友が、気の毒でならない。
マロンは過酷な幽閉を経て、さらに一千年も生き続けてきた
「顔がこわばっているわよ。学生時代と一緒ね。思考が表情にダダ漏れよ。わたしが怖いの?」
「怖くはないわ。ただ怒っているのよ」と、わたしは嘘をつく。
「なぜ急にわたしの前から消えたの」
マロンは何も言わない。都合が悪いと無口になるのは今も変わらないようだ。
「マロン、わたしは探したのよ。たぶん、数年は探した。その怒りがね、まだ持続中だから」
細い指を波打つような優雅さでふったマロン。その指は、気配の消えた怨霊を指しているようだ。
「こんなふうに、おぞましいモノが追ってくるからよ。長く近くにいれば、危険が及ぶ」
「それでも、説明して欲しかった。死ぬほど寂しかったわよ」
マロンは体をひねって起きあがろうとする。きっと、また、何も言わないつもりなのだろう。
その体を強引に抱き寄せ、わたしは「逃さない」と宣言した。
「離しなさい」と、マロンは言葉では言うが、体は抵抗していない。
ここから、どうする。笑い飛ばそうか、それとも、もっと強く抱きしめようか。
何もせず、ただ抱きしめたまま、マロンに話しかけた。わたしたちの心臓の音が重なる。
「賀茂光栄を好きだったの?」
「賀茂光栄は、幼い頃に恋に落ちた相手よ。わたしは男を落とす方法も、モテる方法も、駆け引きも知っているけど、愛は知らないって、あの男が言ったわ。それで散々な目にあった。さあ、もういいでしょ。わたしを解放しなさい」
「逃げないわよね」
「バカね、逃げないわ」
「ずっとよ、これからもずっと逃げないわよね」
「いい加減にしたら、モチ」
わたしが手を緩めると、マロンは、ゆっくりと起き上がった。黒髪がさらさらと頬を撫でていく。
彼女は上半身だけを起こし、伸ばした足を交差させて、空を眺めている。斜め下からみる、マロンの神々しいまでの美しい横顔に、あらためて息を呑んでいる。
「マロン……。わたしは知っているわ。本当は優しいマロン。わたしは、よく知っている。あんたは寂しくて、その寂しさを埋めてくれる相手をさがしているのね」
「何をはじめたの。わたしは稀代の性悪女で、男を傷つけることしかしないと言っていたじゃない」
「黙って聞いて、マロン。愛しているって説明したいのよ」
マロンは拗ねたような顔をして、頑固に月を見ている。その横顔を見ていると、胸が掻きむしられそうなほど痛い。こんなに小さく、そして、細い体で、よくがんばったと抱きしめたくなる。
この気持ちに、なんという言葉を当てはめればいいのだろう。
黙っていると、マロンが横目でにらんだ。
「なに、結局は黙っているの。愛を説明してくれるんじゃないの?」
わたしは彼女の手に自分の手を重ねた。
温かい……。
いつも冷たい体だったマロンの肌が熱を帯びている。
「マロン、あんたを見ていると腹が立つし、同時に泣きたくなるのよ。どうしてこんなに胸が痛いのかわからない。わたしにできることは、何もないのに。でも、ただ傍らで、あんたが泣きたいときに、一緒に泣きたいと思ってしまう。笑いたいときに、一緒に笑いたい。苦しんでいるときに、ヨシヨシと慰めたいし、幸せなときには、その気持ちをわかちあいたい。そして、なにより、危険なときに、一緒に戦いたい。あのオンラインゲームをしていた時のように、いつもあんたを守っていたい」
マロンは目を閉じ、それから珍しく照れたような表情で、顔を背けた。まるで泣いているみたいな声でささやいた。
「わたしが、これまで聞いた言葉のなかで、もっとも幼くて、もっとも美しい言葉ね……。たぶん、ついに、その時がやってきたのね。ひたすら待っていたのに、いざとなると、寂しいものだわ」
(エピローグにつづく)
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