エピローグ
終章
「わたしは人が嫌いなのかもしれない。ひとりで過ごすほうが、いっそ楽だと思うわ。
美しい自然のなかにいるときだけ、ほっとするのよ……。
水飛沫をあげる滝や紅葉に燃える山々。
虹がかかった湖。
ただ景色を眺めているって、いいことでしょう?
ちがう? モチ。
虚しい世界だから、呪縛から逃げるため男に固執した。
わたしは男たちに復讐したかったのかもしれない。
一千年の間に多くの男たちが現れ、消えたけど。その誰もわたしの飢えを理解しなかった。
あまりにも長い時間を無為に費やして、そうしていると、徐々に感情が鈍り冷えていくものね。もう心があるなんて感じなくなるものよ」
あの怨霊を
わたしは仕事をセーブして、多くの場所をマロンと旅した。時に、その地方の怪異をふたりで退治するという、思ってもみなかった日々を過ごして。
マロンが蓄えた財産では、たいていのことが可能だ。
そして──
数ヶ月前から、東北の奥入瀬渓流に面したコテージを借りている。マロンはもう動くことも辛そうだった。
「美しい場所ね、渓流の流れる音が聞こえ辛いけど。耳が遠くなっているのかしら。老いとは穏やかな消去法なのかもしれないわね、モチ」
さやさやと流れる透明度の高い奥入瀬渓流。まだ早朝で、薄く霧がたっている。
わたしは彼女のために、木々に囲まれた場所にリクライニングチェアを置いた。マロンが渓流を眺めたいと言ったからだ。
もともと小さい女だったが、さらに、ひとまわり体が縮んだ。マロンは対岸にたたずむ紅葉を眺め、わたしは彼女の膝掛けを寒くないように胸もとまで引き上げる。
「もう、秋も終わりね。マロン」
「そうね」
「冬が来るわ」
「そうね」
「ね、寒くない?」
「寒くないわ、モチ」
「そう」
渓流は木立の間から漏れる太陽の光にキラキラ輝き、自然の雄大さと美しさを、余すところなく伝えている。
わたしはリクライニングチェアのかたわらにすわり、マロンの膝に頭を沈めた。
「世界は、本当に美しい」
マロンが骨張った手でわたしの髪をなでる。
「モチ、十分に生きたけど。これほど満たされた時間はなかった。あなたに、どれほど感謝しているのか伝えることができなかったわね」
「バカね、マロン。わたしだって幸せだわ。男がいなくてもね」
マロンは掠れた声で笑った。
「あなたは、いくつになったの、モチ」
「四十五歳よ」
「誰かを見つけてあげたかったけど、無理そう」
「いいのよ、師匠。もう自分の足で歩ける」
マロンが老いた顔でわたしを見つめた。
「モチ、わたしの本当の名前はね。
「
「言えなかったのよ。もし、言葉として口にできなかったら、辛いから。言えなかった」
「
もう一度、名前を呼んだとき、彼女の体が透けて見えた。
「マロン、これは」
「お別れよ、モチ」
彼女が穏やかな笑顔を浮かべる。
空気に溶けていくように、体がキラキラと煌めき、小さな破片が体から切り離れていく。それは美しいガラスの破片のようで、留めようとした、わたしの手をすり抜け消えていく。
「よかった。あんただけは見送りたくなかったのよ、モチ……。ありがとう、愛してくれて」
声が森に消えていく……。
「だめよ、マロン。まだ早い。わたしはまだ一緒にいたい。この馬鹿。わたしをひとり、残していくの?」
「愛してるわ」
馬鹿にしている。愛しているなんて、そんな言葉なんて聞きたくもない。
マロン、わたしは男に告白されたいわよ。でも、あんたがいれば、男なんて必要ないんだから。
そんな気持ちを知らないでしょ? マロン……。
最後の最後まで、自己中で自分勝手で、わがままで。大っ嫌い。本当に嫌い。はじめて会ったときから、ほんと嫌いだったから。
マロンの体が自然に同化しようとしている。それから、ふっとほほ笑んだように見えた。
──ごめん……、先にいくわ。待っているわよ。
彼女の姿が消えた……。
手のひらにキラキラした破片が残っている。それは、わたしの手のなかで、最後の別れを告げるように、しばらくそのままでいて、そして、ゆっくりと消えていった。
空っぽのリクライニングチェアが残り、ふんわりと膝掛けが落ちていく。
さようなら、わたしの愛しい友よ。
マロン……、わたしは、これからも生きていく。
そして、いつか、必ず、いつか、わたしを迎えにくるのよ。
わたしの
さようなら……。
長い旅が終わり、やっと休めるのね。
−了−
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