不死の姫 4



 カッポカッポ……カッポ……。


 奇妙な音が聞こえている。はじめて聞いた音なのに聞き覚えがあった。脳裏に浅沓あさぐつという言葉が浮かぶ。


 浅沓あさぐつ……、木靴?


 カッポカッポカッポ……。


 心を凌辱りょうじょくするような、神経にさわる音だった。耳の奥に痛みさえ覚える。鳥肌が立ち血液が逆流していくような感覚で。


 靴音が大きくなり、ヒィーヒィーという音が重なった。


「あ、あれは、なに? なんなの? わ、わたしだけが見えているの?」

「あれは死に損ないよ。ああやって、わたしを見つけては、やってくる呪い。今回は遅かったわね。前に出会ったのは、たぶん百年ほど前。大正時代だったかしら。あれに会うたびに、自分に変化があったか、絵や写真の記録を残しているから」

「毎回って、毎回、自分を殺して撃退したの?」

「その時によるわ」

「ヒィーヒィーって、言ってる」

「話そうとしているのよ。だから、早く逃げなさいって言ってるでしょ!」


 マロンが声を荒げた。

 わたしは逃げるかわりに、彼女を守る位置に立った。オンラインゲームを楽しんでいたときと同様に防御の姿勢を取る。


「こら、モチ。何しているの」

「だって、わたしはあなたのガードだったから」

「馬鹿じゃない。今はゲームを思い出してるときじゃないわ。さっきも言ったでしょ。あんたの元夫は、たぶん、自分のなかに潜んだ恐怖でああいう事になったのよ。ここにいたら恐怖に耐えられないわよ。あんたたち人間はもろくて弱い」


 白い霧はさらに近づき、人の形になっていく。そして、完全に人の姿へと変貌した。光宏に似ている。


『ヒィー……、ヒィー、ひー……、ひ……、ひめ…』


「ひめ? 姫? って聞こえた」

「いま、そこなの、モチ。その勘違いおとぼけは、いつまでたっても治らない。ある意味、貴重だけど。でも、震えているわよ。さあ、どきなさい」


 止めようとしても、体がガタガタと震えてくる。


「光宏、光宏なの。あれ、光宏よね」

「あれは、あんたの元夫じゃない。その細胞から擬態化したから、少し似ているように見えるだけよ」


『……、ひぃめ、ひめ…おぁあいした……、の……のりみ……。ひめ、ひ、ひめ、ひめさま、姫、姫、姫、……のりみつ、法光が……、苦おしい、こんなに苦しおしいほどに、……姫、姫、姫。そなたの名は、名を、名を……せめて、御名おんなを、……なぜ、答えてくださらぬ』


 地の底から湧いてくるような声。

 不気味というには、あまりにも常識的すぎる。体中の細胞が、血液が凍結するような恐ろしい声だった。


「本当の名前を聞いてるの? 本当の名前って、あんたの本名のことね。たしかに、わたしも知りたいわ」

「下鴨モチ、ここであっち側についてどうするの」

「だって、わたしも知らないわよ」

「わたしの名前は誰も知らない。本名を教えることは、結ばれるという意味があるの。平安時代には名前は魂だったのよ。だから、現代よりも重い意味を持っている」


 白い霧は、さらに実体化していく。


 人を型取り、その何かは、まるで空気の上を滑るように近寄ってくる。

 マロンがわたしの腕をつかんで引き寄せた。それは思ったより強い力で、背後にたたらを踏み、体勢を崩して尻もちをつきそうになる。


 その時だった。

 バチンと強い音がすると、激しい衝撃に体が締まった。マロンと一緒に背後にふっとんだ。コンクリート道路にしたたか打ち付けられたが、緊張と恐怖で痛みを感じない。


 それから、右手に赤い血がついていることに気づいた。

 え?


 隣に倒れたマロンの顔が血まみれになっている。


「マ、マロン!」

「今回は、また成長したわね」


『姫、姫、姫……、わたし、わたしです。お会いしたかった……。この、この気持ちを……。ああ、姫、美しい、わたしの姫……。御名おんなを』


 呪詛じゅそのような声が響く。それは声ではなかった。


「逃げよう。マロン」

「無駄よ。ついてくるだけ」

「死んでしまうわ」

「わたしは死なない、モチ。正確には、わたしは死ねないのよ」

「血が出てる。痛いでしょ、痛むでしょ?」

「この血はギミックだから、すぐに消える」


 確かに、マロンの顔から流れた血は、しずくになって地面に到達する前に、粉のようになり、空中に消えていく。


 わたしの手からも血は消えうせ、残ったのは、すり傷ができた自分の血だけ。はじめて痛みに気づいた。


「いったい、あなたの体は、マロン、どうなっているの?」

「今、この状態で、それを説明しなきゃならないの?」

「あ、今じゃなくても、いいわ。向こうの方が、切実せつじつそう」


『姫、姫、姫……』


「来るわ!」


 マロンの声と同時に、また、重みのある圧力が到達した。見えない力が押し寄せ体に圧がかかる。異様な圧でマロンもわたしも、肌が震え、奇妙な形に、その場に抑え込まれてしまった。


 い、息が、息ができない。


 どうしよう、どうしたらいい。


 その時だった。

 マロンが重圧を跳ね除けるように、ゆっくりと白く細い指で『印』を組む。


 印?


 印という言葉が、なぜ思い浮かぶ?


 そう思うと同時に、わたしの中で奇妙な変化が起きた。遠い過去からの呼び声のように、わたしの骨や内臓や、すべての細胞が深く深く変化していく。


 ──臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前


 心のなかに、言葉が浮かぶ。


 ──九字護身法くじごしんぼうだ。気を放て! 臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前。


「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」


 心に浮かんだ言葉が、よどみなく声として出る。


「モチ!」


 驚いたマロンの声と同時に、体にかかっていた圧力が減じた。



 もやに包まれた顔が苦痛に歪んだ。痛むのはこちらなのに、ものの怪のほうが辛いみたいだ。その人間的な振る舞いに、ゾワゾワっと悪寒が走る。


『あ、あに、兄じゃ、なぜ、邪魔を……。なぜ、また、じゃ、邪魔をぉおおお』


賀茂光栄かものみつよし……さま?」


 マロンまでが、こちらを見ている。

 わたし? わたしに聞いているの?


「モチ……、あなた、賀茂光栄の末裔なの」と、マロンが早口で言った。

「わからない。こんな呪文を知っているのが、自分でも驚きぶっこいてるけど」

「ぶっこいてって、どこの言葉? でも、とりあえず話はあとよ。ともかく、あれを消すわよ」

「わかった」


 ものの怪が咆哮をあげ、その振動で空気が激しく震える。凄まじく不快な音に耳を殴打されたようだ。

 隣りを見ると、マロンの耳や鼻から血が流れている。


 ひやっとした感触がある。たぶん、わたしも血が出ているのだろう。


「無理しないで」

「今、そう言われても。無理するわ」


 心配そうな顔を一瞬だけ見せたが、すぐに隠して、マロンはニッと右頬を引き上げる。


「行くわよ」


 わたしたちは楽しかったオンラインゲームのように連携を組んだ。なつかしい大学時代の、あの興奮が蘇ってくる。


 ものの怪は奇妙な動きをする。

 マロンが隣にいなければ恐怖で気絶しそう。だってカクンカクンと上半身を不自然に揺らして近づいてくるのだ。人の形をしているだけに不気味で。


『兄じゃ……、そ、それ…、姫を取らないで……。姫はわたしのもの』


 ものの怪は不自然な動きで止まり。今度は浮いて滑るように、道路上をいっきに近づいてくる。


 わたしは人差し指と中指でを組む。

 教えられたわけではない。かってに体が動く。オンラインでゲームをしていたとき、わたしが動かしていた『モッチン』が、今の自分の姿だ。どこかで、誰かに動かされている。


「気を散らさないで!」と、マロンが叫んだ。

 

 ものの怪が向かってきた。そうだ、今は気を散らしている場合じゃない。


 やつが来た!


 防御!!




(つづく)

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