第二章 平安時代「深草の女房日記」後編

幽閉された兼家の姫 前編



 ジジジジジ……ジジッ–––––

 かすかな音をたて、蝋燭ろうそくの炎が小さくなっていく。


「い、いかがすべきや」


 深草の女房は憂いに満ちた顔でつぶやいた。

 蝋燭ろうそくは、あっという間に芯まで燃えつき、灯り取りの窓もない土蔵は真の暗闇になる。


「姫さま、お加減は」

「……」

「姫さま、お声を、深草はお声が聞きとうございます」

「深草……。男に、など、……情をもっては、ならぬ」


 吐き捨てるように言ったという言葉は、地獄の底からしぼり出すように悲痛だった。


 賀茂法光の呪詛であやかしとなった姫を、藤原兼家は無惨にも土蔵に幽閉した上で、その名を藤原家から完璧に抹消した。


 それは、あまりにむごい仕打ちだった。


 姫は、屋敷の奥深くにある土蔵で、鎖に繋がれたまま生きることを強いられた。壁面に両手両足を鎖に繋がれた姫は、往時とかわらず美しく妖艶で、いっそそれが恐ろしい。


 女房は姫に仕えることを許されたが、何かできるわけでもない。

 せめて暗い土蔵の灯りを切らさないくらいだ。


 ポトン、ポトンと、どこからか水滴が落ちジメジメしている。ここには、何本も足を持つ気味の悪い害虫やねずみしかいない。


 寒い日には凍るように冷たく、暑い日には焼けた鉄のように熱くなる。姫は手足を鎖で縛られたまま、衣さえ身につけることを許されなかった。


 その白く美しい滑らかな全裸をさらしたまま、鎖に繋がれ無為のなかに囚われている。


 再び蝋燭ろうそくが消えた。

 カサカサと地を這う虫が、姫の白い肌を這う。その虫を無意識のうちに姫は払う。ガチャガチャと鎖の音が響いた。


「あ、ああ」

「姫、お待ちくだされ、すぐに火を灯しますゆえに」


 湿った空気のため火のつきが悪い。蝋燭の火をやっとつけた女房の見たものは……、あまりの恐怖に悲鳴をあげた。

 

「ヒッ!」


 その場に尻もちをついたまま後ずさっていく。

 姫の唇が赤く血に染まっていた。食いちぎられた節足動物が、血とともに、ぽたっと地に落ちる。


「お、お姫さま、お、おいたわしい。あまりに、おいたわしい」


 これは、むごすぎる。

 女房は土蔵から走り出ると、命の危険もかえりみず兼家のもとに参上した。寝殿から出てくる彼を待って、中庭の地べたに這いつくばった。


 数刻──。

 兼家が寝殿から出てきた。外部に開かれた渡り廊下に面した中庭で、土下座したまま、女房は必死の声をかけた。


「と、殿さま」


 身分の低い女房が、こちらから声をかけられる相手ではない。

 宮中で頂点に立つ尊い身である兼家。直径の孫である皇子を天皇にした彼は、政敵も多い。姫の存在は、兼家にとって弱点になりうる。


 だからこそ、世間から隠した。

 今さら、表に出すことなどできまい。まして、死ぬこともできない妖の姫など厄介でしかない。

 女房はわかっていた。しかし……。


「殿さま」


 ちらりと兼家が視線を落とした。が、そのまま立ち去っていく。なおも食い下がろうとした女房を、警護のものが取り押さえる。


「ど、どうか、姫さまにお慈悲を、殿さま、どうか、どうか……」


 必死の訴えにも耳をかさない。

 その後、したたかに打ち据えられた女房は痛みをこらえ、絶望に心が冷えたまま、姫の土蔵に戻るしかなかった。


 その後、女房は訴えをあきらめ、これまでの事実を記録しはじめた。




 年月は過ぎていく。

 陰陽師として名をはせた賀茂光栄が他界すると、姫に施された結界が破れ、白い霧とともに法光の怨霊があらわれるようになった。


 怨霊は力を増したのか、姫を抱いたまま、地獄の業火を身にまとう。その炎は姫の素肌をジリジリと焼いていく。


『ひ、姫、……、わたしの思いを、な、なぜに…。わ、わたしは、や、焼かれ、姫、この苦しみを……』


 白い霧となった法光は、身動きのできない姫を抱擁する。メラメラと音を立てる炎に焼かれ、姫は苦痛のなかで悶え苦しみ、恍惚に似た表情でうめき声をあげる。


「わたしを殺して。痛い、痛い、痛い」


 悲痛な姫の叫びに、女房はなんとか助けようとするが近づくことさえできない。


「いま、お助けします。命にかえても、姫!」


 姫のもとに行こうとした女房も炎で焼かれた。


 姫の目が正気を帯び、深草をにらむ。と、体が、弾かれたように遠くへとふっとんだ。

 その後、法光が現れると、姫の周囲に結界が張られ、近くに寄ることさえもできなくなった。ただ、怨霊に抱かれるたびに、苦痛に満ちたうめき声を聞くだけ。


 体を焼かれ、苦痛にひきつけ、姫はおのれの首を自らねじ切る。ガクンと首が垂れ、業火は消え怨霊は去っていく。


 ただれた素肌を深草の女房は泣きながら、丹念に薬湯で拭った。すぐに血は欠片となって空気中に消え、また美しく汚れのない素肌に戻っていく。


 姫の首の骨は再生され、鎖につながれたまま息を吹き返す。

 ゲホッと大きな咳をして苦しげに息を吸う。


「なんという残酷な宿世なのでございましょうか。お姫さま」


 さめざめと泣く女房の声が虚しく木霊する。

 姫はうろんな顔をしたまま、心を失った。そうして、ただ時のみが通りすぎていった。


 壁に繋がれたまま、意識を狂わせた姫のもとで、時は残酷に過ぎていく。


「姫、聞こえてらっしゃるでしょうか。わが命は尽きようとしております。髪も抜け、かく体も思うようには動けませぬ。あなたさまを、このままにしておくことが、心残りでございます……」


 この頃には、藤原家の当主は藤原道長に代わっていた。

 深草の女房は亡くなり、遺体はそのままに土蔵の扉に鍵がかけられ封鎖された。

 いつしか幽閉された姫の存在は完全に忘れ去られ、開かずの土蔵の存在さえ、人びとの記憶から消え去った。




 それから、百数年。

 盗賊が忍び込んだ土蔵で、白骨化した遺体と鎖に繋がれた美しい姫を発見するまで、誰に知られることもなく、ゆっくりと時が流れ過ぎていった。



(つづく)

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