最終章
不死の姫 1
SNSを使って、何度もマロンにサインを送った。
──深草の女房から聞いたわ。師匠、連絡を待っています。
──コーキが異様な形で亡くなった。わかる? 危険でしょ、連絡を待つ。
──見てるんでしょ。怖い怨霊が近づいてるのよ、助けて。
──こら、未読無視してる場合じゃない。全部、知っているのよ。連絡せよ!
数日が過ぎた。
わたしは設計事務所に五人のスタッフを抱えている。そのうち、ひとりは共同経営者で、大手建築事務所を定年退職した結城。彼の助けがなければ独立することは難しかっただろう。
「あんたのデザインが好きでな。だから、賭けてみたくなった」と、結城は笑う。
デザイン重視のわたしに、彼は現実的な基礎設計で仕事を補ってくれる。時に激しい議論になることもあるが、大切な仲間であり、共同経営者だ。
そんな彼らを抱え、休んでいる場合じゃない。資金不足の自営業は、こういうところが辛い。マロン探しだけしているわけにはいかない。
その日、自宅を出たのは午前9時15分。
米国から戻って間もないし。事件のせいで疲労が蓄積して寝坊した。なんて、誰も聞いてない言い訳をしながら、栄養剤を片手に、ハイヒールで爆走して改札口を通り抜け、エスカレーターを駆けあがる。
さながら陸上部のアスリートだ。自分がオタクだったなんて信じられない。
転びそうになっても、ぜったい転ばない。それがプロというものだ。
遅刻しそうなときは、なぜ、あの安易な結婚生活を捨てたのかと後悔する。
捨てたことによって、あの人さえ失ったのかもしれない。
いや、今は後悔の時間じゃない。
全力疾走で脇目も振らず電車に乗り、定時に事務所に到着して結城ににっこりと笑いかけ、彼の心配を吹き飛ばさなければならない。
プラットフォームから電車が発車する音楽が流れている。わたしと同様に階段を駆け上がる人を押し退け、さらに足を早めた。
「駆け込みご乗車は、ご遠慮ください」
誰も遠慮なんてしない無意味なアナウンスを聞き流して、混雑した車内に飛び込む。
ドアが閉まりかけたとき、また新しく女性が割り込んで来た。
彼女は閉じたドアに布バッグの先を挟み、外そうとしたが電車はそのまま動きはじめた。
都会の朝は誰も他人に関心を示さない。あるいは、私と同様、一様に疲れた顔をして、関心はあるが態度に示さない。
発車してすぐ、ぽつりぽつりと水滴が窓に落ち雨がふり出した。斜めに窓を伝って流れていく。
冷たい雨だ。
朝から、暗くどんよりした雲がたちこめ、天気予報は雨を告げていた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタガタガタ……。
電車は、すぐに地下へと降りていく。
ガラス窓が車内のあかりに反射して鈍い鏡となり、乗客の顔を映す。数駅に停車したあと、ふと、ドアの女が気になって顔を見た。
ドア近く、同じ駅で走り込んできた女の顔が、ドア窓にうつっている。
若い女だ。傷ひとつない若さに輝く素肌……。ぷっくらとした下唇が見える。
誰?
まさか……。
軽く不満そうにバッグを見つめている、その顔。
色白の衰えのない若くなめらかな肌……。黒い髪、印象的な潤んだ瞳。すっと通った鼻すじ。その整った美人顔をぷっくらとした下唇が裏ぎっている。どうみても十代後半。年齢より若く見えたにしても二十代前半の素肌。
彼女の背後に立つ男が、まるで騎士のように、満員の乗客に小さく細い女が潰されないよう両手をドアにつき、体を盾にして必死に守っていた。その見知らぬ男に気がついてないのか、彼に背を向けたまま、女は優雅にドア窓を見ている。
視線があう。
息が止まった。
彼女の視線をドア窓をとおして捉えた。
若い女のおどおどした表情が消え、あのよく知っている傲慢な表情に変貌する。
恋神マロン……。
肖像画通りに年を取らず、再び、わたしの前にあらわれた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタガタガタ……ガタン。
地下を疾走する電車はカーブでさらに車輪の音を大きくする。
わたしは彼女の視線をとらえたまま、(見つけた)と、口の形だけで伝える。
マロンは何も答えない。例の冷たい視線で真っ暗闇な外の風景を見ている。
キーッと音がして、電車がスピードをゆるめた。
『まもなく、虎ノ門です。お出口は……』
アナウンスが聞こえ、電車はプラットフォームに滑り込む。人工的な明るい照明が見えると同時に、ドア窓にうつった彼女の顔が消えた。
電車は、ゆっくりと停車する。
ドアが開いた瞬間、わたしは必死に人を押し退け、ドア近くに立っていたマロンを追う。
「降ります。すみません、通してください。降ります」
降車する人を通すために、なにかの儀式かのように人びとは左右に別れ、道をゆずる。
マロンの前に人の道が開く。
ダメ、通さないで、彼女を止めて。
わたしは必死に人をかき分け、プラットフォームに降り立った。
彼女の姿が消えている。
どこにいるの?
右か左か。
虎ノ門ビルというサインが見えた。咄嗟に、わたしは右を選んで走る。エスカレーターを登っていく小柄な女を見つけて、あっと思った。
地下鉄の駅を出て、古びた地下通路から、近代的でモダンな虎ノ門ヒルズに向かう。なぜか、マロンに追いつかない。
途中でスマホが鳴った。外部に出るエスカレーターに乗りながら耳にあてる。
「もしもし」
「結城だけど、今日の予定なんだが」
「ごめんなさい。今日は休むわ」
「え? 下鴨ちゃん、今日はクライアントとの打ち合わせがあるんだよ」
「ごめんね。結城さん、お願いしても」
「息が切れてますけど」という声に皮肉が滲んでいる。
「ええ、ええ。急ぐから。ほんと、ごめん」
わたしの小さな事務所では、スタッフたちがオフィスに到着しはじめているだろう。彼らはわたしを信頼していた。少なくとも、わたしを信頼していると思いたい。
「後で必ず連絡をいれてくださいね」
スマホを切ると、そこにマロンが立っていた。
雨が降っている。
マロンは濡れるのもかまわず、その場で、なぜここにいるのという冷たい顔をしている。霧に煙る雨のなかに、あの美しく幻想的な顔が浮かびあがる。
その冷たさに、思わずはっとして、後ずさってしまう。
そう、マロンって、こういう女だった。
「なに。また、好きな男をつかまえてほしいの?」
「え?」
「お断りよ。ひさしぶりね」
目の前のマロンは高校生らしい制服を着ていた。チェックの短いスカートに、白いシャツ、首もとをリボンで飾っている。
(つづく)
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