平安の世、陰陽師と姫君 3
「この文を
「お返事を出されるのですか?」
女房は驚いて、几帳に隠れる姫に向かって念を押した。姫の白い指が宙を舞い、行けと合図する。
これまで姫は、すべての求婚者に色良い返事を出さなかった。出さないどころか黙殺してきた。
最初の文に色よい返事を出さないのは暗黙の了解だが、しかし、姫は、どんなに有力な相手でさえ、二度目、三度目の
いつしか『
それが、最初の文に返事をだし、その後、二度目、三度目の文にも返事を書いた。
法光からの返歌はすぐに届いてくる。
『きみ思い 眠る枕の長き夜の 恋の夜長に』というような、なんの捻りも面白みもない
姫といえば、血管が透けるような白い指で文を持ったまま、右唇をうっすらと引きあげただけ。
その気持ちは、すぐに読み取れた。
三度目の文を受け取ったとき、姫が几帳越しに言った。
「その辺の枯れ枝をさがして、取ってきや」
「枯れ枝でございますか」
「そう、できるだけ枝振りの良いものをな」
「お待ちくださいませ」
『枯れ枝の 思いも知らず この夜は 枕のうえで枯れし心を』
さらさらと達筆な字で書かれた和歌。女房は姫にたずねた。
「姫さま、なぜ、枯れ枝なんですか?」
「ふふふ……、意味はない。ただ、相手は思い悩むことやろう」
悪い姫だ。枯れ枝のついた文など、いい知らせではない。しかも、内容的には断ってもいない。あの純情な返歌を書く法光だ。深読みして思い悩むにちがいない。
「では、この文を届けておきます」
「今ではない。明後日の昼過ぎにしや」
「明後日ですか?」
「しばらく
「姫さま、お相手の方は、もう必死でございますよ。今さら焦らす必要がございましょうか」
姫は、ただ、うっすらと右唇をあげて
命令された通りに二日後に文を届けさせ、相手の様子を使用人にたずねる。彼によると、法光は喜びにはち切れんばかりで、その場で封を開けるのも、もどかしそうだったという。
法光は恋する男の不安と幸福にはち切れながら、意気揚々と姫を訪れた。
大いなる希望を抱き、若さゆえのあやうい自信と
兼家の屋敷は広大な寝殿造りだ。
正門にあらわれた法光は、使用人に姫の在所をたずねた。
下男が、すぐさま女房のもとへ伺いをたてに走ってきた。
「いかが致しましょうや」
「本殿を通らず、こちらへ向かうには西門が都合いいと。そう教えや」
「かしこまりました」
「深草の女房どのにお取り次ぎ願いたい」
「どちらさまでございますか」
「賀茂法光と申す」
「お待ちください」
しばし法光を待たせて、姫付きの
おしゃれしようと身につけた薄紅色の狩衣は、いかにも身についてなく野暮ったい。背は高からず低からずで、面長の顔は少し馬に似ている。
「今日は姫さまは気分がすぐれず、お会いできないと申しております」と、
「それは……」
とっさの言葉もなく、法光はただ呆然とした。おずおずと、「姫から文が」と、言葉を途切れさせた。
「姫さまには伝えておきますゆえ」
「明日参りますと、お伝えくだされ」
「しばし、お待ちを」
その後、
翌々日、八つ前。
屋敷まで走ってきたのか、暑い日でもないのに、法光の額には汗が噴き出していた。
深草の女房は西門へと向かい、はじめて彼と面とむかった。
「
「は、はい、わたし、わたしです」
法光は恋する男の常として性急だった。
「姫さまに、お、お取り次ぎを願いたい」
息を切らしながら、期待に胸がはち切れんばかりの法光の表情。若さというものは、かくも哀れで美しいものなのかもしれない。
彼の腰に刺された枯れ枝を見て、女房は、わずかに頭を振った。
これは……、『面倒なことよ』と興味なさげに嘆息する姫と、なんという違いであろうか。
このふたりにある隔たりはあまりに大きい。それを知るに法光は経験不足だ。純粋で愚鈍で、必死で、姫と対等にやりあうには、陰陽師の力を借りても不可能だろう。
「いかがすべきや」
女房は嘆息した。
お止めなさい。あなたでは姫の心は動かない。傷つくだけですよと、忠告したい気持ちもある。
「あの、わたしの申し出がまちごうておりましたか? 姫へのお取り次ぎを願いとう存じます」
「賀茂法光さま、あいにくと、姫さまのもとにはお客さまがいらしております」
「そ、それは、どなたにございますか? 殿方? お相手をおたずねしてもよろしいでしょうか?」
──なんとまあ
女房は返答につまった。
姫から、
「申し訳けございません。あいにくと今日は姫の都合が悪く。また、日を改めて」
「改めるとは、いつまで」
法光の顔に、わかりやすい失望の色が浮かんだ。この男は純粋すぎ、そして、愚かでもある。
手練手管など、まったく考えもしていない。
愚直に、真っ直ぐに、その翌日も、また、その翌々日も彼は屋敷を訪れては、姫の都合をたずねた。
(つづく)
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