平安の世、陰陽師と姫君 2




 そろいもそろって権力を欲することに一寸の恥もなく、どん欲な藤原一族。姫のお付きとして働く深草の女房にとって、この家での生活は心配がつきない。


 これまで彼女はいろいろなものを胸にしまってきた。それら全てを心奥にたくわえ不安な息をしている。

 姫には後ろ盾もなく、不安定このうえない立場。だからこそ、女房はめったなことを口にできない。


 兼家の屋敷は、寝殿造りの豪壮なもので使用人も多い。しかし、姫には深草の女房の他に、雑用をする雑仕女ぞうしめひとりしかついていなかった。


 兼家の正妻や正式な側室の娘ならば、帝への輿入こしいれも視野に入る。そのため多くの女房や使用人が仕えているが、うちの姫は……、と、ついためいきが漏れてしまう。


 処世を間違えれば、兼家の信頼を裏切ることになる。ひいては自分の身分、さらにその先、女房の親族にとっても良いことなど、ひとつもない。


「いかがすべきや」と、つぶやくのが、女房の口癖になった。





 時が流れ、女房の心配は姫が花が開くように成長した頃には、杞憂きゆうとなった。予想以上に姫は美しく育った。美しいだけでなくさとい。


 めったに姫の在所に訪れない兼家が、自ら足を運んで女房を呼んだほどだ。


「姫はいかでや」と、兼家が思案気に聞く。 

「多くの殿方から、趣向を凝らしたふみが、日々、届いております」

「そうか。相手によっては、内々に手引きをせよ。ただし慎重にな」

「かしこまりましてございます」


 女房は、めざとく兼家の視線を追った。手入れされた庭園の先に姫の在所がある。視線の先には、御簾みすから出た美しい黒髪がわずかに見える。


 姫は美女としての条件をすべて兼ね備えていた。


 美しく艶のある長く黒い髪に、雪のような白くきめ細かい柔肌やわはだ。長く、ふっくらとした指や二の腕。折れそうな細い腰。


 なにより、姫の肌から発するたおやかな匂いは、女慣れした殿方でさえ、とりこにするだろう。

 ひとえに焚きしめた香が姫の体臭と交じる……。と、えもいわれぬ誘惑的な香気になって立ち昇り、夢見心地にさせられるのだ。


 さらに姫には持って生まれた機知があった。


 白い指からなる文字は気品にあふれ、軽く皮肉をこめ相手をもてあそぶ和歌の才能など、天に愛されたとしか思えない。


「なんとまあ、見事な姫さまに成長されましたでしょうか。お仕えするに、わたくしのような者でも誇らしゅうございます」

「確かにな。ただ、母親の身分がな」

妖狐ようこ……」


 おもわず口走った女房に、兼家のするどい視線がささった。

 はっとして、着衣が乱れるのもかまわず膝をつき、咄嗟にぬかづいていた。板張りの床の冷たさが額に伝わり体を震わせる。


「と、とんでもないことを、も、申しました。お許しくださいませ」

「ははは」と、兼家はおおらかに笑った。「妖狐か、なるほど、まさに妖狐だな」


 風が揺れた。


 しばし、無言の時が過ぎる。

 女房は上目使いに兼家を伺い、それから、賀茂光栄への姫の想いを、それとなく伝えたほうが良いかと、おずおずと口にのせた。


「あ、あの、申し上げてもよろしゅうございますか……」

「申せ」

賀茂光栄かものみつよし殿は、いかがかと……、す、少し年は離れておりますが」と、言葉を濁して兼家をうかがった。

「うむ、悪くはないな」


 そう言うと廊下で平伏する女房を置き去りして、兼家は去っていく。完全に足音が消えてから、女房はほっとして立ち上がる。


 賀茂光栄かものみつよし

 あの最初の出会いから十年が過ぎていた。


 七歳で彼に出会い、十三歳で成人式である裳着もぎの儀を終え、さらに四年、姫は十七歳になった。多くの求婚者を冷たくあしらうのは、ただ、ひたすら光栄を待っているからだ。


 これほど思慕をつのらせても、当の光栄から文が届くことはなかった。

 毎日のように、来ぬ文を待って姫はたずねる。


ふみは誰からきておる」


 女房は届いた文を読む。脇息きょうそくに寄りかかり、興味なさげに聞いている姫が、この日、「誰? 見せや」と、めずらしく身体を起こした。


たちばな文麿ふみまろ殿ですか?」

「いなや、その前のもの」

賀茂法光かもののりみつ殿でしょうか」

「そう、その方の……。見せや」


 几帳の奥ににじり寄り、女房は白い和紙に押し花を添えた平凡な文を手渡した。


「この者は陰陽師の賀茂家の者か」

「調べておきます」


 文を届けた下男によると、賀茂法光かもののりみつは、陰陽師家当主である賀茂保憲が遠縁から引き取った養子。姫が恋こがれる光栄みつよしより十歳年下の弟にあたり、姫とほぼ同年齢だろう。


 彼は賀茂姓を名乗ってはいるが、実際には血のつながりはない。


 そのためであろうか。天才の名を欲しいままにする長兄とは異なり、官位が低く才能に見るべきものがない。


すずりを」

「お姫さま。お返事を書かれるのですか?」


 姫は何も答えず筆を持ち、しばらく考え、それから返歌をしたためた。


 なぜ、このような凡庸ぼんような男に、と女房は不思議に思った。



(つづく)

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