第一部 平安時代「深草の女房日記」前編
平安の世、陰陽師と姫君 1
ジジジジジ……ジジッ–––––
かすかに
「
今日は朝から雲が低くたちこめ、室内は昼なお薄暗い。
深草の女房は、不吉な噂に苛立ちを覚え、そんな自分を持て余した。
うわ目使いで姫をうかがう。
姫は時の権力者、
正妻や
ただ、悪いことばかりでもなかった。
それは、姫の美しさだ。この美貌をもってすれば、道が開かれる可能性があるかもしれない。
女房はウツウツした気持ちを切り替え、
と……、
「いな。待ちや」
なよなよとした可憐な容姿から想像もできない、意志の強い声が発せられた。腰を浮かせかけた女房は、半腰のまま振り返って
長い髪の間から、とがらせた赤い唇がのぞく。
姫は、ちらりと女房を確認して上半身を斜めに傾けた。サラサラと髪が落ち、きめ細かい肌にほんのりと上気した薄紅色の頬が隠れる。
いつものように、もの憂げに眉をひそめていることだろう。
この男心をくすぐる色香。手入れの行き届いた黒髪が扇状に広がる様は、
ただ、と、女房は思う。
もし姫の瞳を真正面から覗き込む勇気があれば、この可憐な印象はかき消える。
これまでも、その視線にぞっとすることが幾度もあった。
強い意志を秘めた瞳のせいか、藤原の屋敷に引き取られた七歳の頃から、姫は妙に大人びて見えた。
今では月のものもはじまり、いつ婿を迎えても良い年頃になっている。
女房の予想通り、美しさと聡明さをかね備えた姫として、都で評判をえた。噂を聞きつけ求婚に訪れる貴公子は多い。
しかし、誰も、まして兼家殿は、さらにご存じないだろう。
姫は、おそらく、あの『後の月の宴』以来、陰陽師として名高い
──そう、あれはもう十年も前になる。
──姫は七歳だった。
姫の母親は藤原兼家が一夜を過ごした素性の知れない女。妾でさえなかった女は、姫が七歳のとき自ら命を絶ち、残された姫は権力者である父に引き取られた。
母の名は
女のもとを、ただ一度、訪れただけで赤子が生まれた。生活の面倒は見ていたが、二度と訪れることはなかったと聞く。
「
確かに、貧しい女の娘が幼い頃から古今東西の和歌に親しみ、漢文も読みこなす
不思議はそれだけではなかった。
引き取られた当時、姫は、いっさい言葉を発することができなかったのだ。幼子は体に多くの傷を負っており、おそらく母親から受けた虐待に、その因があるのだろう。
兼家は数名の
姫は口がきけないまま、しばし過ぎた頃だ。藤原家で秋に開かれる恒例の月を愛でる会が開かれた。
天候に恵まれ、『後の月の宴』は、常より盛大なものになった。
庭園の中心にある川に沿って宴席が設けられ、多くの
陰陽師としての
彼は十八歳で陰陽家の最高責任者である
陰陽家を継ぐ正式な跡取りで、類まれなる美麗な容姿。男女を問わず、見る者をときめかせるが、それに
「哀れにも声を失った幼子です。診ていただけますでしょうか?」と、幼い姫を仲立ちして兼家の正妻が頼んだ。
宴に招かれた
秋であった。
彼は姫をともない、月が映える秋の庭をそぞろ歩く。
薄黄色の
近くの山に自生するモミジの葉が風で庭園に紛れ、銀色に輝く月明かりの下に、はらはらと舞い落ちてくる。
興を添えるように、笛や
庭に
「どうじゃ。姫が口がきけぬ理由はわかったかな」
「この者は聖にもなり、鬼にもなる相をしております」
「それは、幼い姫の非凡さに対する褒めことばですな、ハハハ……。天下の陰陽師、
おどけた
「口がきけぬのか?」と、
姫がゆっくりと顔をあげ、おじけもせず真正面から彼を見つめた。当代随一の美形といわれる彼に釘付けのようだ。その視線は不躾であり、影で付き従う深草の女房は気をもんだ。
「口がきけぬのか?」
再び同じ言葉を口にして、さらに
三度、姫は黙り、それから、視線を外した。
「いいえ」
はじめて発した声はコロコロと空中を転がり、居合わせた貴人たちの耳をうるおしていく。
「おお、なんと、愛らしい声じゃ。成人したあかつきには、さぞや評判の姫になろうぞ」と、
その賞賛の声は、しかし、姫の心にまったく届かなかった。視線の先には光栄の姿しかとらえていなかった。
(つづく)
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