第一部 平安時代「深草の女房日記」前編

平安の世、陰陽師と姫君 1




 ジジジジジ……ジジッ–––––




 かすかにれ音を立て、かたまりとなった蝋燭ろうそくの芯が倒れる。炎がすうぅっとかき消え、あとに濡れたような闇が残った。


東風こちが強うござりますな。蔀戸しとみどを下げてもよろしゅうございますか、おひいさま」


 蔀戸しとみどとは板造りの雨戸のようなもので、つっかえを取って下に落とせば、窓をおおい雨風をしのげる。


 今日は朝から雲が低くたちこめ、室内は昼なお薄暗い。

 午后ごごからは、ことさら風が強くなった。都びとは、これはあやかしたたりだと怯えたように噂している。


 深草の女房は、不吉な噂に苛立ちを覚え、そんな自分を持て余した。


 うわ目使いで姫をうかがう。


 姫は時の権力者、藤原兼家ふじわらかねいえを父にもち、常は『兼家の娘』と呼ばれている。しかし、たとえ彼の娘であっても、実母の身分が低く、自身の出世は望めぬだろう。


 正妻や側女そばめたちは富貴な出自ばかり。一方、姫の母親は、あろうことか貧民出とも聞き、藤原家での立場は弱い。


 ただ、悪いことばかりでもなかった。

 それは、姫の美しさだ。この美貌をもってすれば、道が開かれる可能性があるかもしれない。


 女房はウツウツした気持ちを切り替え、蔀戸しとみどを下ろそうと、の子縁ににじり寄る。

 と……、

 几帳きちょうの奥にいた姫が白い指で板張りの床を軽くはじいた。その音に、女房は動きを止める。


「いな。待ちや」


 なよなよとした可憐な容姿から想像もできない、意志の強い声が発せられた。腰を浮かせかけた女房は、半腰のまま振り返って几帳きちょうを開く。


 長い髪の間から、とがらせた赤い唇がのぞく。

 姫は、ちらりと女房を確認して上半身を斜めに傾けた。サラサラと髪が落ち、きめ細かい肌にほんのりと上気した薄紅色の頬が隠れる。


 いつものように、もの憂げに眉をひそめていることだろう。

 この男心をくすぐる色香。手入れの行き届いた黒髪が扇状に広がる様は、一幅いっぷく大和絵やまとえのようだ。


 ただ、と、女房は思う。


 もし姫の瞳を真正面から覗き込む勇気があれば、この可憐な印象はかき消える。ろうで造作したような冷めた目。この切れ長の目を正視できる者は少ない。

 これまでも、その視線にぞっとすることが幾度もあった。


 強い意志を秘めた瞳のせいか、藤原の屋敷に引き取られた七歳の頃から、姫は妙に大人びて見えた。


 今では月のものもはじまり、いつ婿を迎えても良い年頃になっている。


 女房の予想通り、美しさと聡明さをかね備えた姫として、都で評判をえた。噂を聞きつけ求婚に訪れる貴公子は多い。

 しかし、誰も、まして兼家殿は、さらにご存じないだろう。

 姫は、おそらく、あの『後の月の宴』以来、陰陽師として名高い賀茂光栄かものみつよしをずっと慕っている。






 ──そう、あれはもう十年も前になる。

 ──姫は七歳だった。



 姫の母親は藤原兼家が一夜を過ごした素性の知れない女。妾でさえなかった女は、姫が七歳のとき自ら命を絶ち、残された姫は権力者である父に引き取られた。


 母の名は葛の葉くずのは、姫を産む前から妖狐ようこという噂が絶えない女だった。兼家という人は豪胆な性格で、その噂を確かめると興にのったのだ。

 女のもとを、ただ一度、訪れただけで赤子が生まれた。生活の面倒は見ていたが、二度と訪れることはなかったと聞く。


妖狐ようこの娘ゆえ、あの異様な知恵を持つのであろうよ」と、口さがない女たちは噂する。


 確かに、貧しい女の娘が幼い頃から古今東西の和歌に親しみ、漢文も読みこなす才媛さいえんとは……、驚くべきことにちがいない。


 不思議はそれだけではなかった。

 引き取られた当時、姫は、いっさい言葉を発することができなかったのだ。幼子は体に多くの傷を負っており、おそらく母親から受けた虐待に、その因があるのだろう。


 兼家は数名の医師くすしに診せたが、理由がわからずみな首を横に振る。


 姫は口がきけないまま、しばし過ぎた頃だ。藤原家で秋に開かれる恒例の月を愛でる会が開かれた。


 天候に恵まれ、『後の月の宴』は、常より盛大なものになった。


 庭園の中心にある川に沿って宴席が設けられ、多くの公達きんだちが秋の月を愛でた。


 賀茂光栄かものみつよしが屋敷に招かれたのは、姫の声が出ないためであった。妖狐ようこ呪詛じゅそにちがいないと家人たちが恐れたからだ。


 陰陽師としての賀茂光栄かものみつよしは、少年の頃から異彩を放つ男であった。


 彼は十八歳で陰陽家の最高責任者である陰陽頭おんみょうのかみに出世している。安倍晴明あべのせいめいとは同門で、十八歳も年下。三十六歳になる晴明の兄弟子にあたる。


 陰陽家を継ぐ正式な跡取りで、類まれなる美麗な容姿。男女を問わず、見る者をときめかせるが、それにおごることのない、まさに貴公子といえる男だ。千年にひとりの偉才いさいと、取るに足らない女房でさえ知っていた。


「哀れにも声を失った幼子です。診ていただけますでしょうか?」と、幼い姫を仲立ちして兼家の正妻が頼んだ。


 宴に招かれた賀茂光栄かものみつよしは、「そうですか」と、短く応えた。


 秋であった。

 彼は姫をともない、月が映える秋の庭をそぞろ歩く。


 薄黄色の束帯そくたいを身につけた上背のある光栄みつよし、その隣を素直に付き従う桃色の汗衫かざみで着飾った小柄な少女。


 近くの山に自生するモミジの葉が風で庭園に紛れ、銀色に輝く月明かりの下に、はらはらと舞い落ちてくる。


 興を添えるように、笛やしょうの雅な音曲が聞こえる。


 庭にしつらえた池の橋を渡るふたりの姿は、モミジに彩られた映し絵のようで、居合わせた者すべてを魅了した。


 釣殿つりでんから眺めていた兼家は、ふたりが近づくと酒のはいったガラガラ声で問いかけた。


「どうじゃ。姫が口がきけぬ理由はわかったかな」


 賀茂光栄かものみつよしは、しばし黙り、それから、ぼそりとつぶやいた。


「この者は聖にもなり、鬼にもなる相をしております」

「それは、幼い姫の非凡さに対する褒めことばですな、ハハハ……。天下の陰陽師、賀茂光栄かものみつよし殿にそのように言わしめるとは、兼家殿も鼻が高うございますな」


 おどけた公卿くぎょうのひとりが、訳もなく幼子を褒め兼家におもねった。


「口がきけぬのか?」と、光栄みつよしが低い声で姫にたずねる。


 姫がゆっくりと顔をあげ、おじけもせず真正面から彼を見つめた。当代随一の美形といわれる彼に釘付けのようだ。その視線は不躾であり、影で付き従う深草の女房は気をもんだ。


「口がきけぬのか?」


 再び同じ言葉を口にして、さらに三度みたび、彼は問うた。

 三度、姫は黙り、それから、視線を外した。


「いいえ」


 はじめて発した声はコロコロと空中を転がり、居合わせた貴人たちの耳をうるおしていく。


「おお、なんと、愛らしい声じゃ。成人したあかつきには、さぞや評判の姫になろうぞ」と、公達きんだちたちがどよめいた。


 その賞賛の声は、しかし、姫の心にまったく届かなかった。視線の先には光栄の姿しかとらえていなかった。


(つづく)

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