平安の世、陰陽師と姫君 4




 ──姫さまにも困ったもの。


 深草の女房は、ため息を漏らすことがふえた。


 時につれ、法光の姫への思慕は狂気を帯びた。純粋だった青年は、恋にやつれて痩せ細り、憂いをおびた男になっていく。


「今日こそは、姫のお近くにはべらせていただけませんか?」

「あいにくと方違かたがえにあたり、姫は田舎の屋敷に参っております」

「さ、さようですか。では、……お帰りはいつになりましょうや」


 方違かたがえとは、縁起の悪い方角を避けるために、一時的に居場所を変えること。お付きの女房が屋敷にいるのに、姫ひとりで別の場所に向かう訳がない。

 嘘なのだ。


「お帰りは……、いつになりましょうや」と、彼は朴訥ぼくとつに繰り返す。


 最初の頃の快活さが消えた彼に、女房は困り果てた。


 姫が望んでいるのは彼ではない。彼の血のつながらない兄、高名な陰陽頭である賀茂光栄かものみつよしである。


 法光に、あの典雅な兄の面影はまったくないのが、いっそ悲しかった。天は残酷だと思う。


 つっかえながら、慌てて話す様子は無邪気で、けっしてあり得ないのに、姫に愛されるという奇妙な自信を抱いている。


 烏帽子えぼしの下で充血した目は、なにも見えていない。見ようともしないようだ。

 ただ、あながち姫を責める気にもなれなかった。

 幼いころから、広大な屋敷の片隅に追いやられ、ひとり寂しく育った姫の孤独を考えれば、姫も哀れな存在なのだ。


 ある日、女房は意を決して、几帳の奥で和歌を書いている姫ににじり寄った。


「いかが、いたしましょうや?」

「なにをや?」

「毎日のように、賀茂法光かもののりみつ殿が参っております」

「なれば?」

「憔悴なされたお姿で、あまりお眠りになれないのか、目の下には隈が深こうなりあそばれて。お気の毒な様子でございます」

「そうか、では、次は軒まで通してやれ」


 翌日、はじめて屋敷奥にある対の屋たいのやまで入ることを許された。法光は有頂天になった。

 多くの言い寄る男たちに、姫が応じないのは周知の事実。ここまで入れたはじめての男だと思うと晴れがましい。


「あちらのお部屋にございます」


 女房が指し示した部屋からは、えも言われぬ香りが、そこはかとなく漂ってくる。


 法光は縁側近くまでにじり寄り、中庭から様子を伺った。どう声をかけるべきか迷って視線を泳がせている。


 御簾みすが垂れた、その先に姫がいる。


 おそらく、このことは誰かに教授されたのだろう。法光は不器用に腰にゆわえた笛を取り出した。その様子はぎこちなく、わかりやすく緊張しており、女房は吹き出しそうになった。


 文の交換をしたのち、部屋近くに侍ることができれば、笛などを吹いて、自らの魅力を誇示する。それは習わしではある。しかし、残念なことに、賀茂法光かもののりみつの笛はお世辞にもうまいとはいえない。


 春だった。


 庭に咲く桜の木から、はらはらと花びらが風に舞って落ちてくる。笛の音は、その趣を壊して、かまびすしい。


 と、その時、ポロンと琴の音色が御簾みすごしに聞こえた。


 最初は笛の音に合わせるように、それから、徐々に琴の音色が自由に高まっていく。なんともいえない悲しげな弦の音に、法光のりみつの口もとから笛は外れ、ただただ、呆然と美しい音色に酔った。


「姫。法光でございます。お、お慕いしておりました」


「ごめんあそばせ。父上さまが……」と、姫は嫋々じょうじょうたる声で、御簾みすごしに答えた。その声の技巧的なこと。


 十七歳だが、年増の女御もかくやという手管で、若い男を翻弄ほんろうしている。


「兼家殿がなんと申しましょうと。姫、わたしの心はすべてあなたに捧げます」


 いっぱく置いて、姫が愛らしいため息をもらす。

 姫の息遣いが、ふうぅっと耳もとで聞こえた。そう錯覚するような、深いため息。そこに、琴の音がふたたび聞こえ、色っぽく重なる。側で見ていた女房は、若者の頬が真っ赤に染まるのが見えた。




 その後も賀茂法光は一日も欠かさず屋敷を訪れ、当然のようにやつれていった。福々しかった顔は細くなり、頬骨が浮きだし、首筋や手に青い静脈が目立つようになった。


 はじめの頃は、また今日も来てるよと、下の者も呆れていたが、今では、そうした陰口でさえはばかられる姿だ。


「いい加減、姫のことは程々にして、女は他にいくらでもいよう」


 誰もが、親の様に彼を諭したくなるが、憑かれたような顔を見ると何も言えなくなる。


 恋に狂った男というのは度し難い、と女房は心配や怒りや相反する複雑な思いを抱いた。法光という男は、さして特別なところはない。しかし、その一途な姿には、どこか母性本能をくすぐるところがあった。


(つづく)

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