平安の世、陰陽師と姫君 4
──姫さまにも困ったもの。
深草の女房は、ため息を漏らすことがふえた。
時につれ、法光の姫への思慕は狂気を帯びた。純粋だった青年は、恋にやつれて痩せ細り、憂いをおびた男になっていく。
「今日こそは、姫のお近くに
「あいにくと
「さ、さようですか。では、……お帰りはいつになりましょうや」
嘘なのだ。
「お帰りは……、いつになりましょうや」と、彼は
最初の頃の快活さが消えた彼に、女房は困り果てた。
姫が望んでいるのは彼ではない。彼の血のつながらない兄、高名な陰陽頭である
法光に、あの典雅な兄の面影はまったくないのが、いっそ悲しかった。天は残酷だと思う。
つっかえながら、慌てて話す様子は無邪気で、けっしてあり得ないのに、姫に愛されるという奇妙な自信を抱いている。
ただ、あながち姫を責める気にもなれなかった。
幼いころから、広大な屋敷の片隅に追いやられ、ひとり寂しく育った姫の孤独を考えれば、姫も哀れな存在なのだ。
ある日、女房は意を決して、几帳の奥で和歌を書いている姫ににじり寄った。
「いかが、いたしましょうや?」
「なにをや?」
「毎日のように、
「なれば?」
「憔悴なされたお姿で、あまりお眠りになれないのか、目の下には隈が深こうなりあそばれて。お気の毒な様子でございます」
「そうか、では、次は軒まで通してやれ」
翌日、はじめて屋敷奥にある
多くの言い寄る男たちに、姫が応じないのは周知の事実。ここまで入れたはじめての男だと思うと晴れがましい。
「あちらのお部屋にございます」
女房が指し示した部屋からは、えも言われぬ香りが、そこはかとなく漂ってくる。
法光は縁側近くまでにじり寄り、中庭から様子を伺った。どう声をかけるべきか迷って視線を泳がせている。
おそらく、このことは誰かに教授されたのだろう。法光は不器用に腰にゆわえた笛を取り出した。その様子はぎこちなく、わかりやすく緊張しており、女房は吹き出しそうになった。
文の交換をしたのち、部屋近くに侍ることができれば、笛などを吹いて、自らの魅力を誇示する。それは習わしではある。しかし、残念なことに、
春だった。
庭に咲く桜の木から、はらはらと花びらが風に舞って落ちてくる。笛の音は、その趣を壊して、
と、その時、ポロンと琴の音色が
最初は笛の音に合わせるように、それから、徐々に琴の音色が自由に高まっていく。なんともいえない悲しげな弦の音に、
「姫。法光でございます。お、お慕いしておりました」
「ごめんあそばせ。父上さまが……」と、姫は
十七歳だが、年増の女御もかくやという手管で、若い男を
「兼家殿がなんと申しましょうと。姫、わたしの心はすべてあなたに捧げます」
いっぱく置いて、姫が愛らしいため息をもらす。
姫の息遣いが、ふうぅっと耳もとで聞こえた。そう錯覚するような、深いため息。そこに、琴の音がふたたび聞こえ、色っぽく重なる。側で見ていた女房は、若者の頬が真っ赤に染まるのが見えた。
その後も賀茂法光は一日も欠かさず屋敷を訪れ、当然のようにやつれていった。福々しかった顔は細くなり、頬骨が浮きだし、首筋や手に青い静脈が目立つようになった。
はじめの頃は、また今日も来てるよと、下の者も呆れていたが、今では、そうした陰口でさえ
「いい加減、姫のことは程々にして、女は他にいくらでもいよう」
誰もが、親の様に彼を諭したくなるが、憑かれたような顔を見ると何も言えなくなる。
恋に狂った男というのは度し難い、と女房は心配や怒りや相反する複雑な思いを抱いた。法光という男は、さして特別なところはない。しかし、その一途な姿には、どこか母性本能をくすぐるところがあった。
(つづく)
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