平安の世、陰陽師と姫君 5
姫が法光を
それでも、階段に腰を下ろして姫と過ごす短い時間、彼はとても幸せそうに見えた。
世の中にこれほど幸福な者はいないという無邪気な表情だった。
「今日は美しく晴れやかな日ですね、姫。こんな晴れた日が好きです」
「……それは、雨や曇りの日があってこそ。楽しみの裏に悲しみがあると同じように、対であるからこそ際立つものでしょう」
「ああ、そうです。そうです。姫のお考えは、本当に深い」
姫は長く細く息を吐き、退屈そうに扇を手にとった。指で扇を
「姫。あ、あの、わたしの願いを聞いてはくださいませんか?」
「……」
「あなたのお名を知りたいのです。いつまでも、兼家殿の姫とお呼びするだけなのが、
扇の影で、姫が眉間にシワをよせた。
本名を教えることは危険と背中あわせのこと。婚儀が決まるまで名を明かさないのは慣習なのに、と、女房は思う。
この若者はうかつすぎる上に、世間というものがわかっていない。
姫の本名を知り、その名を使って
名は名であるが、それだけではない。
女房は
姫は薄笑いを浮かべていた。
はっとするしかない。法光は恋こがれ、食事も喉を通らず、眠ることもできずにいるというのに。
姫は薄笑いを浮かべている。
「わたしは……」と、法光は感情を
「わたしは、姫を愛おしく思っております……。こんな、わたしでは不釣り合いなのはわかっています。でも、あなたのためなら、死ねます。あなただけが、わたしの命なのです……、わたしは、たとえば、この晴れた空のような心で、ああ、なんと言えば、お心に響くのでしょうか……」
階段から立ち上がり、法光は思いあまったのか、いきなり御簾のなかへ入ろうとした。
「な、なぜ、そんなにも、すげなくできるのですか? なぜ、このように、わたしを
「姫……」
片手で
日が経つにつれ、そのやつれた姿は仲の良い公達たちにも噂になっていく。その中には中傷に近いものもあった。
「
その噂は女房の耳にも届く。姫も悪いところはあるが、こうした悪意には、怒りに全身が震えてくる。
「お姫さま、巷で噂になっております。どうか、ほどほどに。兼家殿にまで聞こえましたら、どうなりますことやら」
「捨ておけ。父上は、そのようなことを気にする方ではない」
「しかし、後の障りにもなりましょう」
「あの方の、光栄さまの耳に届くには、まだ、足りんようじゃ」
「姫さま……」
「なあ、深草。そなたにわからぬであろう。女が男を求めても、その方策は少ない。この狂おしい思いを誰も知るまい。あの者は、わたしに自分の気持ちを自由に押し付けてくる。わたしができぬことを簡単にな。そんな者に、なぜ、同情せねばならぬ。男は良いな、好きな女にいくらでも告白できる。だが、どうじゃ。女のわたしは思いを知らせる術もない」
「それは……」
深草の女房は絶句した。
姫の行動に得心はしたが、その善悪は別だ。ひとりの男を追い詰めることで、兄である
まさか……。
いや、違う、そんな恐ろしい企みなど、この可憐な姫がしているなど、さすがに信じられない。
「姫さま、まさか」
「なんじゃ、深草」
「いえ、な、なんでもございませぬ」
法光には無邪気なところがあって、姫に求婚にしている時でさえ、庭に蝶が飛んでいたりすると、素直に目で追うようなところがあった。
その純真さも、近頃では消えた。
彼は恋焦れ、まるで飢えた犬のように、醜くよだれを垂らし、姫しか目に入らない。
女房から見れば、その一途さは哀れでもある。
このまま捨て置いては、のちに災いになるのではと恐ろしさを感じる。
「あ、あの若ものを、このように焦らすのは残酷というものにございます。お断りになるのなら、なさりませんと。このままでは、あの方は病にお倒れになられてしまい……」
「深草、手を」
深窓の姫になるほど出歩くことがなく、日々は床に片ひざを立ててすわっているか、寝そべっているかである。
一日中、室にこもり、立ち上がることもない生活ゆえに足腰は弱い。
それから、外で、しょんぼりと立つ法光を盗み見る。
「まだじゃ。まだ、生ぬるいようだ。いったい、いつになったら、光栄さまはおいでくださるのか」
「姫さま……」
女房は言葉を失った。
やはり予感は当たった。しかし、光栄を呼ぶために、その弟を恋に狂わせるなど、なんという浅ましい所業であろうか。姫の狂気を秘めた顔に、背筋が凍るような
世間は美しい姫を
(つづく)
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