平安の世、陰陽師と姫君 5




 姫が法光を妻戸つまどまで近づけるのは五日に一度くらい。それも板張りのの子縁にしつらえた階段までだった。


 御簾みすごしでの会話に甘んじる若者は、その先、姫の寝所を想像するだけで体が火照るだろう。この純真な若者にとって、その数歩が、あまりに遠い。

 それでも、階段に腰を下ろして姫と過ごす短い時間、彼はとても幸せそうに見えた。

 世の中にこれほど幸福な者はいないという無邪気な表情だった。


「今日は美しく晴れやかな日ですね、姫。こんな晴れた日が好きです」

「……それは、雨や曇りの日があってこそ。楽しみの裏に悲しみがあると同じように、対であるからこそ際立つものでしょう」

「ああ、そうです。そうです。姫のお考えは、本当に深い」


 姫は長く細く息を吐き、退屈そうに扇を手にとった。指で扇をはじきながら返事はしない。


「姫。あ、あの、わたしの願いを聞いてはくださいませんか?」

「……」

「あなたのお名を知りたいのです。いつまでも、兼家殿の姫とお呼びするだけなのが、口惜くちおしいのです」


 扇の影で、姫が眉間にシワをよせた。

 本名を教えることは危険と背中あわせのこと。婚儀が決まるまで名を明かさないのは慣習なのに、と、女房は思う。


 この若者はうかつすぎる上に、世間というものがわかっていない。


 姫の本名を知り、その名を使って呪詛じゅそすることにでもなれば、それこそ恐ろしい。


 名は名であるが、それだけではない。


 女房は御簾みすの奥、さらに几帳きちょうの影にたたずむ姫を伺った。


 姫は薄笑いを浮かべていた。


 はっとするしかない。法光は恋こがれ、食事も喉を通らず、眠ることもできずにいるというのに。


 姫は薄笑いを浮かべている。


「わたしは……」と、法光は感情を吐露とろするようにつぶやいた。

「わたしは、姫を愛おしく思っております……。こんな、わたしでは不釣り合いなのはわかっています。でも、あなたのためなら、死ねます。あなただけが、わたしの命なのです……、わたしは、たとえば、この晴れた空のような心で、ああ、なんと言えば、お心に響くのでしょうか……」


 階段から立ち上がり、法光は思いあまったのか、いきなり御簾のなかへ入ろうとした。


 の子縁から先に進むと、姫は奥の部屋にさっと隠れた。が、サラサラと床を擦り、去っていく音が、あからさまに聞こえてくる。


「な、なぜ、そんなにも、すげなくできるのですか? なぜ、このように、わたしをもてあそぶのでしょうか。ただ、あなたの男になりたいだけなのに」


 御簾みすのさき、からっぽの薄暗い部屋では、蝋燭ろうそくの火だけがゆらゆらと燃えている。


「姫……」


 片手で御簾みすを持ったまま、法光は硬直する。若さと純粋さゆえに翻弄ほんろうされ、その先への勇気が持てないでいた。彼は追いつめられ喘いでいた。


 日が経つにつれ、そのやつれた姿は仲の良い公達たちにも噂になっていく。その中には中傷に近いものもあった。


妖狐ようこの娘というではないか。法光殿はあやかしに魅入られている」


 その噂は女房の耳にも届く。姫も悪いところはあるが、こうした悪意には、怒りに全身が震えてくる。


「お姫さま、巷で噂になっております。どうか、ほどほどに。兼家殿にまで聞こえましたら、どうなりますことやら」

「捨ておけ。父上は、そのようなことを気にする方ではない」

「しかし、後の障りにもなりましょう」

「あの方の、光栄さまの耳に届くには、まだ、足りんようじゃ」

「姫さま……」

「なあ、深草。そなたにわからぬであろう。女が男を求めても、その方策は少ない。この狂おしい思いを誰も知るまい。あの者は、わたしに自分の気持ちを自由に押し付けてくる。わたしができぬことを簡単にな。そんな者に、なぜ、同情せねばならぬ。男は良いな、好きな女にいくらでも告白できる。だが、どうじゃ。女のわたしは思いを知らせる術もない」

「それは……」


 深草の女房は絶句した。

 姫の行動に得心はしたが、その善悪は別だ。ひとりの男を追い詰めることで、兄である光栄みつよしに心を届けようとしている。


 まさか……。


 いや、違う、そんな恐ろしい企みなど、この可憐な姫がしているなど、さすがに信じられない。


「姫さま、まさか」

「なんじゃ、深草」

「いえ、な、なんでもございませぬ」


 法光には無邪気なところがあって、姫に求婚にしている時でさえ、庭に蝶が飛んでいたりすると、素直に目で追うようなところがあった。

 その純真さも、近頃では消えた。

 彼は恋焦れ、まるで飢えた犬のように、醜くよだれを垂らし、姫しか目に入らない。


 女房から見れば、その一途さは哀れでもある。

 このまま捨て置いては、のちに災いになるのではと恐ろしさを感じる。


「あ、あの若ものを、このように焦らすのは残酷というものにございます。お断りになるのなら、なさりませんと。このままでは、あの方は病にお倒れになられてしまい……」


 脇息きょうそくにもたれたまま、姫は天井に視線を送り、怜悧れいりな横顔を見せている。


「深草、手を」


 深窓の姫になるほど出歩くことがなく、日々は床に片ひざを立ててすわっているか、寝そべっているかである。


 一日中、室にこもり、立ち上がることもない生活ゆえに足腰は弱い。


 几帳きちょうの先へと、女房の手に支えられていざり寄り、姫は立ちあがった。

 それから、外で、しょんぼりと立つ法光を盗み見る。


「まだじゃ。まだ、生ぬるいようだ。いったい、いつになったら、光栄さまはおいでくださるのか」

「姫さま……」


 女房は言葉を失った。

 やはり予感は当たった。しかし、光栄を呼ぶために、その弟を恋に狂わせるなど、なんという浅ましい所業であろうか。姫の狂気を秘めた顔に、背筋が凍るような戦慄せんりつを覚える。


 世間は美しい姫を氷柱つらら姫などと、おもしろおかしく噂するが、実際の姫は冷たいのではない。むしろ熱い。近づけば、やけどをするような情熱を持つ女なのだ。


(つづく)

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