平安の世、陰陽師と姫君 6




 昨日の午后ごごのこと。


「もう、訪ねて参るな」と、姫はいきなり法光に告げた。


 あまりに無常な言葉で、法光が気を失うのではないかと女房は振り返る。


 そう、彼は、まさに文字通り力が抜けたようだった。人とは、こんなふうに力を失うものなのだろうか。


 むごい言葉が心臓を刺した結果、彼はきざはしから音をたてて滑り落ちた。

 そのまま地面に転げ落ち、ぽかんと口を開けた。

 両足を広げ腰が抜けたような姿は滑稽であり、その上、薄ネズミ色の烏帽子えぼしが頭から脱げて地面に転がり、さらに憐れさを誘う。


「え、烏帽子えぼしが」と、思わず声にだした女房は手で口をふさいだ。


 下袴が脱げて下半身をさらけ出すよりも、貴公子にとって帽子のない頭頂部を見せるほうが恥なのだ。


 とっさに見なかった振りをしようと思った。


 法光の頭は無防備にさらされている。そのことに気づきもしない彼。肩を落とし、やつれた表情のまま、泣くこともできずに呆然としている。そのまま姫の言葉を待っているが、目の前の御簾みすはぴくりとも動かない。


 この後に及んでは、ただ立ち去るしか術はない。

 呆然として歩いていく彼の後姿が見えなくなると、何事もなかったかのように姫が言った。


「明日は南が凶方位のようじゃ。忌むべき方角に行かねばならぬな。西へ方違えをする。用意せよ」

「姫さま、そのような方位のこと、聞いておりませんが」


 なぜ急にそのようなことを、さすがの女房も顔をしかめた。


「して、姫さま、どちらに」

「西の右京に使ってない屋敷があったはずや」

「あ、あの、お屋敷は……」


 確かに、方角的には吉かもしれないが、まさか、右京にある貧相な家に行くとは、女房は驚いて抗議しようとした。


「手配せよ」

「でも、お姫さま。あちらまで参らなくても、敷地内の別宅でも、ようございますのに」

「あの屋敷は警備が薄い」

「どういうことでございましょうや」

「そなたに説明する必要があろうか」


 姫がこう宣言すれば、もう後はない。

 ため息を漏らしながら女房は下働きの者を呼び、翌日の牛車を手配させた。




 翌朝、まだ日が明けきらぬうちに用意された牛車に乗ると、姫は西に向かうように命じた。


 牛車にゆられてトボトボと向かう間も、女房の心は晴れない。到着した屋敷の寂れた佇まいに、さらに落胆した。


 それを嘲笑うかのように空には、どす黒い雲が低く立ち込めている。風は湿気を帯び、木々の葉を鳴らしている。寂れた通りでは、壊れた桶がカラカラと音を立てて転がっていた。


「おうおう、これは、ようお越しに、このような寂れた屋敷に、ようお出くださいました」


 屋敷を管理する老爺ろうやが門を開けながら、しわくちゃな顔に笑みを浮かべる。


「二日ほど、こちらに滞在します。世話をかけます」

「なんの。寂しい場所で、姫さまには退屈ではあらしゃりませんかのう」

方違かたちがえでございますから」


 この屋敷は寂しすぎる。西の湿地帯に位置するせいか空気も蒸す。


 朱雀すざく大路から西に位置する右京側は寂れる一方だ。「去る者はあっても、移り住む者はいない」と都人が語る場所だ。


 忌むべき方角を避ける方違かたちがえでなければ、このような草深い屋敷に滞在しない。なぜ、姫は強引に来ようとしたのだろうか。いつものことだが、姫の真意は計り難い。ただ、恐ろしさを感じる。


 ──あな、恐ろし。あな、恐ろし。


 胸のうちで、幾度も唱えながら、幼いころから世話をしてきた姫を女房は見捨てることができない。


 牛を外した輿車よしゃを人力で引いて、寂れた屋敷門をくぐると、姫は檜扇ひおうぎで顔を隠した。

 しずしずと部屋に入る。

 館は三部屋ほどしかなく狭い。老爺が掃除したといっても、カビ臭い匂いは取れていない。


蝋燭ろうそくをつけや」

「しばらく、お待ちくださいませ、おひいさま」


 女房がにじりよって灯した蝋燭ろうそくの炎に、姫の横顔がほんのりと浮かびあがった。薄紅色の小桂こうちぎを着崩した姿は夢幻のようであり、優美な容貌は、いっそこの世のものとは思えないほどだ。


 女房は、それを美しいと思うより、なぜか体に走る慄きにおびえた。


 薄暗い室内で、灯がゆらゆら揺れるたび、水面に写したように揺れる姫の面差おもざし。そんな姫を見ていると、現実に存在しているのか、わからなくなる。このまま消えてしまいそうなほどはかなげで、一方では恐ろしくもある。


東風こちが強うござりますな。蔀戸しとみどを下げてもよろしゅうございますか、おひいさま」

蔀戸しとみどを閉めては、さらに部屋が暗うなろう」

御簾みすが風にあおられております。春の嵐が近いのやもしれず、今のうちに準備をいたしませんと。明日で物忌みが終わりでございましょうから。姫さま、しばしのご辛抱でござります」


 姫は何も聞いていないかのようだ。しばらくして、うっかり漏らしたとでも言うように呟いた。


「あわれなことよのう。あの者と……、今なら互いに理解できるやも知れぬな」

「姫さま、あのような言葉をかけられたのに、やはり、法光さまを受け入れられるのですか」

「そうではない」


 人に感情を見せない姫は、冷たい態度をかたくなに崩さない。


 そもそも貴族社会にあって、あからさまな振る舞いは嫌われる。

 典雅であるべきなのだ。

 品格ある所作を重んじ、ものの哀れを美意識とする狭い貴族世界では、それこそが生きる術なのだ。法光の情に狂ったあさましい姿に同情する者は多いが、同時に、あなどられてもいる。


 姫は無意識に滅びを求めているのかもしれない、悲しいことだと女房は思う。

 美しさも、時のうつろいとともに消えていく。


 姫は決して得られない賀茂光栄を求め、彼の弟、法光を冷たくおとしめる。それは、まるで自分が崩れていく姿と重ねあわせているかのようだった。



(つづく)

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