平安の世、陰陽師と姫君 7
風が荒れた。
雨になりそうな
耳を覆うばかりの雷が鳴りひびくと、都人は家に閉じこもり、ただ神仏に祈るしかなく嵐が過ぎ去ることを待つ。
増水した鴨川は濁流になり、橋近くまで水位が上がり天の怒りに荒れ狂っているようだ。
「雷が去れば、さらに雨が激しくなりましょうな」
「鴨川の水は冷たかろう」
鴨川の水?
姫が不思議なことをつぶやいた。
こういう謎めいたところが昔からあったのだ。姫は異様に勘がするどく、使用人たちが妖狐の娘と噂するのもうなずける。
──人を深く観察しているだけよ。
そう姫は言うが、それだけとも思えない。
「鴨川の水?」
女房は繰り返したが、姫から返事はなかった。じとじとした湿気で重くなった髪を耳にかけ、雷の激しい音にすら驚きの表情を見せない。
肝がすわっている。
激しく揺れうごく
「なにか、お気にかかることがございましょうか?」
姫は何も答えない。
文机の書の文字を追っている。消えかけの
虫の知らせか、悪いことが起きそうで恐怖がつのってくる。
実際に異変を感じたのは、雷の音が遠ざかった後だ。
こん棒で屋根瓦を叩いているかのように雨音が激しくなった。
雨音に呼応するように、濃厚な匂いが漂ってくる。異質な、これまでなかった匂い。香を焚きしめたものだろうが……、姫の香とは、あきらかに違う。
これは間違えようもない。
はっとして女房が気づいたとき、姫も同時に何かを感じたのか、顔を上げた。
これは賀茂法光が好んで衣服に焚きしめた
こんな酷い天気の日に、わざわざ姫を追って西の屋敷まで追いかけて来た。姫に来るなと言われたばかりなのに。
几帳の奥で姫が
と、白い
姫は霧を迎えるように几帳から出てきた。
それを追うように、白い霧が、すぅーっと寄ってくる。
霧は、もやもやと床をはっていたが、姫の前で何かを形造るかのように細長くまとまり、上昇していく。意志を持っているかのように形を変え、もがき、奇妙な動きをする。
いつこんな姿を成したのか、異形の者が佇んでいた。女房は腰を抜かさんばかりに驚き、声を上げることもできない。
アワアワアワ……。
口もとを震わせ、その場にどすんと尻から転んだ。腰に力が入らない。逃げなければ、姫を守って逃げなければ。
心は焦るが、体が動かない。
ひんやりとした冷たい空気を全身に感じると、両手を床について体を支えたまま動けなくなった。
「
「お、お、お呼びになったのですか?」
姫は何も答えない。
それで逆に女房は確信した。姫は文でも送ったのだろう。そもそも、こんな寂れた場所に方違えするなど、最初から奇妙なことであった。
目の前に壁のように立ちはだかる白く異形な霧など、どうでも良いのだろうか、ひどく冷静だった。
白い霧は徐々に濃く染まり、さらに人の形へと変化していく。
床が濡れていることに気がついた。
ピシャン、ピシャン、ピシャ……。
古い屋敷なので水漏れしている。きっと、い、いや、違う。
白い霧から水が垂れているのだ。それに気づいた女房は恐怖のあまり悲鳴を上げた。
「ひ、ひぃー!」
「どうした。深草」
「お、お姫さま。あ、あ、あれが、あれが!」
指で指し示したが、姫は
「お、お見えにならないのですか? あれが」
「何が見えるのじゃ」
「の、法光、法光殿が、そこに」と言って、思わず女房は目を閉じた。
目を閉じても音は聞こえる。
ピシャン、ピシャン、ピシャ……。
恐怖でひきつったまま言葉がでない。次第に闇が濃くしじまを塗っていく。
そのとき、姫の手から
ひんやりとした。
なんという冷たい手をしているのだろうか。氷に触れたようで、不安になって姫の顔を伺う。
それを待っていたかのように
「
女房は叫んでいた。牛車を引いてきた下働きの男でもいい。助けを呼んだが、誰も来る気配がない。
ハタハタと音を立てていた
空気の気配が一変した。
姫の顔に光がましたのを見て、女房は怯えた。
切れ長の美しい目を閉じ、異形のものを感じたかのように、その口もとが引き上げられる。
薄暗いなか、浮かび上がる、この世のものとは思えないほど美しい姫。女房の体は、いまでは骨の音が聞こえるほどに震え、それを止めることができない。冷や汗が肌にじんわりと滲む。
姫の母について聞いたことが頭のなかで繰り返し思い浮かぶ。
この世のものとは思えぬ美しい女。
人肉を喰らって生きている女。
ひとに害をなす恐ろしい妖狐。
噂だから真実とは限らない。それでも姫を見ていると、
「光栄さまがお越しなのかもしれない。彼の方が近づくと、妖どもが騒がしいと聞く。ちがうか?」
「お、お姫さま、目の前にいるのは……」
「深草、何が見えるのだ」
「お、お姫さま、恐ろしくて、お名を呼ぶことはできません。とても、できません」
白い霧はさらに鮮明になる。
女房は確信した。これは、間違いなく人だ。それも、あの法光。まさか……。
人は思いがつのって
怨霊。
(つづく)
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