平安の世、陰陽師と姫君 8
「お、お
「わたしには見えぬ。だが、そうだろう。どこにいる」
「お姫さまの、め、目の前に」
姫は白く長い指を前に差し出すと、白い霧が形作る何かに触れようとしている。
「ひ、姫さま、おやめください。いま、その、その、口に穴があいて、わ、笑っております」
「笑っておるか」
「ひ、ひぃ〜〜」
閉じた
姫の
庭の古木は揺れ、風が渦巻いていた。
女房はガタガタと震え止められない。姫が一歩前に、あの白い、霧、いや、ものの怪にむかって進む。
『ひ……、ひぃ、ひめ…、ひめ、おぁあい、した……した……した…い』
地の底から湧いてくるような、ぶきみな声がする。
「見えたぞ」と、姫がささやいた。
「姫さま、姫さま、姫さま。どうか、どうか、おやめください。お逃げください」
自分でも支離滅裂と思うが、言葉は意味のなさない悲鳴となった。
法光が姫に会いに来ている。
いな、会いに来ているのではない。このものの怪を呼んでいるのは姫の気がした。
『ひ……、ひぃ、ひめ…おぁあいした……、の……のりみ……。ひめ、ひ、ひめ、ひめさま、姫さま、姫さま、姫さま、……のりみつ、法光が……、苦おしい、こんなに苦しおしいほどに、あ、あなたを、……姫さま、姫さま、姫』
白い煙は完全に人間の姿になっている。
『ひめ、姫の名は、名を、名を、名をおしえてたも、……せめて、名を、……なぜ、なぜ、答えてくださらぬ』
女房の制止する声など、まったく聞こえないのか、姫は、さらに一歩進む。次の瞬間、姫の体が奇妙にかがやき、「ああ」という声が唇から漏れた。
まるで操られているかのように、姫は両手を胸もとにあてると、ゆっくりと襟もとをはだけさせていく……、傷ひとつない白く柔らかい肌があらわになっていく。
この時、ものの怪と姫の体はぴったりとくっついていた。まるで抱き合っているかのように、ふたりの体が重なっていく。
「あ、あああぁぅ……」
細い声が姫の唇から漏れる。体がのけぞり、顔は
その時──
「触れるな!」
ハリのある深い声が室内に
聞いたことのない声、だが、一度聞けば、印象に残る声でもある。
女房が声の方角をガクガクしながら振り返る。と、背の高い男が
男は黒い
この貴公子は……。
あの遠い昔に『後の月の宴』にいた
女房は平伏しようと無駄にあがいたが、腰が抜けて動けなかった。
──ぶ、
喉もとまでせり上がった言葉が、声にならない。
今では、姫の白い小袖(肌着)は乱れ、上半身があらわになっている。
「間に合わなかったか」
光栄の声が耳を叩く。
間に合わない。どういう意味なのだろうか。
姫の姿は異様で、これほど気弱で女性的で、そして、妖艶な姿を見たことがない。どんな貴公子に言い寄られても、首を縦にふらない
「……、
光栄が呪文を唱えると、ふたつの体が切り離された。
姫の顔が、まるで化け物に出会ったかのように歪む。あれほど恋焦がれた
徐々に形あるものの怪となった何かは、カクカクと奇妙な動きをし、さらに変化しようとした。
その姿は
地底から響いてくるような、奇妙な声……。
『ひ、ひ、ひ、ひ、ひ……、め、ひめ…、わ、わたしの……姫』
軋んだ恐ろしい声。
「姫さま、お逃げください。そこにいてはなりません」と、女房は必死に叫んだ。いっそ自分が逃げたいと思った。
同時に姫は彼にむかって歩をすすめた。ものの怪に向かったのではない。光栄に向かったのだが、必然的にそれの体に抱きつくことになる。
姫は惹き寄せられるように、ものの怪と重なった。次の瞬間、雷に打たれたかのように、姫の体が
『ひ、ひめ……。わたしの、あい、を、うけて。お名を』
女房が悲鳴をあげるのと光栄が呪文を唱えるのは同時だった。
「
ひと差し指と中指を刀に見立て、上下左右にすばやく動く。
長く白い指が空中に舞うと、ものの怪の姿が歪み明らかに変化をおよぼした。陰陽師は顔色も変えずに、犬歯で自らの指をかみ、吹き出した血で懐から取り出した和紙に念を塗りこめる。
「
紙人形の文字が黄金色に輝く。
ものの怪が悲痛な表情を浮かべ、『なぜ、あ…にうえ……』としゃがれ声で囁いた。
光栄が蝋燭の火に紙人形をかざして火をつけた。次の瞬間、ものの怪の姿が消えた。
あとに残った血塗られた紙は、ぶすぶすと音を立て燃え上がり、ヒラヒラと空中に舞う。黒い炭になっても、まだ床に落ちなかった。
姫の目が輝いた。
その場に崩れ落ちると、光栄がその体を抱きとめた。彼の腕のなかで、汗に光る頬を染め、姫は幸せそうにほほ笑んだ。
「ほんに、お会いしとうございました。
(つづく)
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