最終話 平安の世、陰陽師と姫君 




 屋根瓦を激しく打つ雨が止んだ。


「起き上がりなさい」


 光栄の言葉に好悪の感情はない。その腕にしがみついた姫の表情が微かに変化する。喜びに輝きながら、同時に苦しげにも見えた。


陰陽頭おんみょうのかみさま。なにが起きたのでしょうか」と、深草の女房が言葉をはさんだ。


 光栄は何も答えない。

 ただ、息も絶え絶えな様子の姫を見つめている。女房も、それ以上、声をかけることもできず、光栄と同じように姫を追う。


 蝋燭ろうそくの炎に姫の脆い姿が浮かんでいる。

 ろうたけ、妖艶ようえんであり……。身動きするだけで、姫のころもが、ゆるゆるとほどけていく。白い肌や、太ももが惜しみなくあらわになる。その肌が熱をおび、ほんのりと赤く染まる。


 乱れのない黒い装束を身につけた光栄とは、まさに対照的で、女房から見れば、かえって淫靡いんびなものを感じて目を背けたくなる。


 これは現世うつしよなのだろうか。あまりにも眩くも退廃的で、女房は息ができない。


「姫よ」と、光栄の冷静な声がする。


 姫は返答をしない。


「そなたは、おのがせしことに自覚がない」


 光栄の声は、あくまでも冷静だった。あらがう姫の手を断固とした決意で外し、膝を起こして立ち上がった。


「ああ」と、姫がせつなげな声をあげた。


 濡れた目が未練を残して、ただ彼を追いかける。

 まるで人形のように精彩を欠いた表情で光栄を見つめるが、実際には見ていないようにも思える。


 光栄の指が印を形造り、姫の額に近づく。姫は両腕を光栄に伸ばしたまま、その場に凍りついた。彼が背後に下がり、姫と距離を取った。


「やはり間に合わなかったか」

「何が、何が起きたのでございますか?」


 女房はおずおずとたずねた。


「そなたは姫の何にあたる?」

「姫付きの女房でございます。幼きころから、お仕えしておりました」

「そうか……。では、そなたに伝えておくとしよう。後ほど、兼家殿に話さねばならぬが。すでに、わたしにできることは少ない」

「どういう事にございましょうや」

「弟は門外不出の賀茂家の秘術を使っておる。姫に呪詛じゅそをかけたのだ。ただ秘術を使いこなすに未熟であった。哀れにも乱心して屋敷を飛び出し、鴨川に身を投じてしまった。魂が還らぬので、後を追ってここまで参ったが」


 秘術? 姫を呪った?


「この罪を、法光はおのれの命によってあがなった。見えぬだろうが、いま、その隅にまだ立っておる」


 女房は驚き、尻もちをついたまま無様な様子で後ずさった。


「女房よ。法光のかけた秘術を解くことはできぬが、呪いを払うを授けよう」

「ど、どういうことでございましょうか」

「このままでは、姫は永遠に人ならざるものとして生きるしか術はない。災いの種として生き続ける。この呪いを解く鍵を姫に与えておこう。のちの世で、姫が真実の愛を知り、本名を授ける人物が現れるやもしれぬ。その時、この呪いは消えるであろう……」


 光栄の瞳が深く沈んだ。指で印を組み、意味のわからない言霊を発する。周囲の空気が張りつめ、ピリピリと刺すようだ。彼の全身に神々しさが加わった。


 右足でドンと音を立てて床を踏む。床がへこんだようにも見えた。


 彼が、その目を閉じると顔の輪郭がぼんやりと変化する。メラメラと青い炎が体全体から滲んでくる。次に奇妙な印を作ると、その場に結界がはられた。


 なんの変化もない。ただ、光栄と姫を中心とした周囲が、薄淡い光輪で包まれた。


 女房は目を擦ったが、それは、あると言えばあるように見え、ないと言えば、ないとしか。ただ、ふたりは結界の中心にいた。


 どのくらいの刻限か。

 光栄が口のなかで呪文を唱えている。それは低く長くつづく詠唱で、最後に、ひと差し指と中指を姫の額に当てた。


 びくんと姫が痙攣した。光栄を認め我に返ったようだ。


「あ、あなたは賀茂光栄さま」

「そうだ、姫よ。久しいな」

「わ、わたくしは、いったい何を」

「そなたは呪詛を受けた」


 光栄の声は子どもを諭すようだった。


「呪詛。法光のりみつさまがなさったのですね」

「わかっているようだな。法光の呪詛を受け、永遠に縛り付けられた。何ゆえ、このような愚かなことをしたのだ」

「ずっと、あなたさまを、お慕い申しておりました」


 光栄の顔にあるかないかの、戸惑いが見えた。


「それゆえに弟を使ったと申すのか」

「そうです」

「愚かな者よ。そもそも、そなたには愛がわからぬのであろうな」

「このわたしの気持ちが愛ではないというなら、なんと呼べば良いのでしょう」

「愛とは無私の心から自然に相手に与える思いやりなのだ。わたしを慕っているなど、戯言ざれごとにすぎぬ。その結果とはいえ哀れな」


 すがるように姫は抵抗を試みる。


「光栄さま。あなたは、わたしを愛することも、憎むこともなさらぬ。ただ、ずっと無視なさっているだけ。いっそ憎まれたら、どれほど嬉しいことか。ああ、せめて、せめての願いです。法光殿になしたことで、わたしをお恨みください」

「……痛ましいことだ」


 光栄は静かに背後に下がった。


「その身が満たされるまで、永遠を生きるしかなかろう。そなたが愛に満たされることを祈ろう。そなたにかけられた呪いを解くことはできぬが。ただ、自ら解けるようにはした。真実の愛を得よ。それまで、そなたは人に御名を教えることができぬ」

「光栄さま。光栄さま、どうか、どうか、わたくしの名前をお聞きくださッ……」


 姫は自分の本名を伝えようとした。しかし、両唇がぴったりと閉じ、なにも言葉にできない。もがくように、姫の指が唇を破る。しかし、血が滲むだけで、言葉は出ない。


 光栄みつよしの冷静な瞳は、憐れみしか宿していない。それは、姫が望むものではなかった。


「わたしは、そなたを愛することはない。ゆえに、そなたはわたしに名を告げられぬ」


 非情な男は来た時と同様、御簾みすをくぐり、振り返りもせずに去った。


 あとに残ったのは、姫の衣についた移り香だけ。

 姫は、どのくらい、そのままの姿勢で待っていただろう。光栄が戻ってこないのはわかっているだろうに。


「あの方は、永遠にわたしを愛しも憎みもしない。わたくしにとって運命の方なのに」

「姫さま」


 深い闇の底を見たような表情を浮かべたまま、姫の目から静かに涙がこぼれ落ち、ほほを伝っていく。


「これが、わたしの流す最後の涙だ。言わずともよい。わたしが愛する者は、わたしを愛さない」

 

 姫は寂しげにほほ笑んだ。


「きっと、わたしは耐えられないであろうな」






 その後、姫は父である藤原兼家によって土蔵に幽閉され、藤原家の系譜からも消された。永遠の時のなか、歴史という時間軸から、その姿は消えさった。その物語は、いずれまた別の機会に。


 まずは、わたしが姫に出会った現代へと、話を進めようか。



(平安時代編 完結:現代編につづく)

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