最終話 平安の世、陰陽師と姫君
屋根瓦を激しく打つ雨が止んだ。
「起き上がりなさい」
光栄の言葉に好悪の感情はない。その腕にしがみついた姫の表情が微かに変化する。喜びに輝きながら、同時に苦しげにも見えた。
「
光栄は何も答えない。
ただ、息も絶え絶えな様子の姫を見つめている。女房も、それ以上、声をかけることもできず、光栄と同じように姫を追う。
乱れのない黒い装束を身につけた光栄とは、まさに対照的で、女房から見れば、かえって
これは
「姫よ」と、光栄の冷静な声がする。
姫は返答をしない。
「そなたは、
光栄の声は、あくまでも冷静だった。
「ああ」と、姫がせつなげな声をあげた。
濡れた目が未練を残して、ただ彼を追いかける。
まるで人形のように精彩を欠いた表情で光栄を見つめるが、実際には見ていないようにも思える。
光栄の指が印を形造り、姫の額に近づく。姫は両腕を光栄に伸ばしたまま、その場に凍りついた。彼が背後に下がり、姫と距離を取った。
「やはり間に合わなかったか」
「何が、何が起きたのでございますか?」
女房はおずおずとたずねた。
「そなたは姫の何にあたる?」
「姫付きの女房でございます。幼きころから、お仕えしておりました」
「そうか……。では、そなたに伝えておくとしよう。後ほど、兼家殿に話さねばならぬが。すでに、わたしにできることは少ない」
「どういう事にございましょうや」
「弟は門外不出の賀茂家の秘術を使っておる。姫に
秘術? 姫を呪った?
「この罪を、法光は
女房は驚き、尻もちをついたまま無様な様子で後ずさった。
「女房よ。法光のかけた秘術を解くことはできぬが、呪いを払う印を授けよう」
「ど、どういうことでございましょうか」
「このままでは、姫は永遠に人ならざるものとして生きるしか術はない。災いの種として生き続ける。この呪いを解く鍵を姫に与えておこう。のちの世で、姫が真実の愛を知り、本名を授ける人物が現れるやもしれぬ。その時、この呪いは消えるであろう……」
光栄の瞳が深く沈んだ。指で印を組み、意味のわからない言霊を発する。周囲の空気が張りつめ、ピリピリと刺すようだ。彼の全身に神々しさが加わった。
右足でドンと音を立てて床を踏む。床がへこんだようにも見えた。
彼が、その目を閉じると顔の輪郭がぼんやりと変化する。メラメラと青い炎が体全体から滲んでくる。次に奇妙な印を作ると、その場に結界がはられた。
なんの変化もない。ただ、光栄と姫を中心とした周囲が、薄淡い光輪で包まれた。
女房は目を擦ったが、それは、あると言えばあるように見え、ないと言えば、ないとしか。ただ、ふたりは結界の中心にいた。
どのくらいの刻限か。
光栄が口のなかで呪文を唱えている。それは低く長くつづく詠唱で、最後に、ひと差し指と中指を姫の額に当てた。
びくんと姫が痙攣した。光栄を認め我に返ったようだ。
「あ、あなたは賀茂光栄さま」
「そうだ、姫よ。久しいな」
「わ、わたくしは、いったい何を」
「そなたは呪詛を受けた」
光栄の声は子どもを諭すようだった。
「呪詛。
「わかっているようだな。法光の呪詛を受け、永遠に縛り付けられた。何ゆえ、このような愚かなことをしたのだ」
「ずっと、あなたさまを、お慕い申しておりました」
光栄の顔にあるかないかの、戸惑いが見えた。
「それゆえに弟を使ったと申すのか」
「そうです」
「愚かな者よ。そもそも、そなたには愛がわからぬのであろうな」
「このわたしの気持ちが愛ではないというなら、なんと呼べば良いのでしょう」
「愛とは無私の心から自然に相手に与える思いやりなのだ。わたしを慕っているなど、
すがるように姫は抵抗を試みる。
「光栄さま。あなたは、わたしを愛することも、憎むこともなさらぬ。ただ、ずっと無視なさっているだけ。いっそ憎まれたら、どれほど嬉しいことか。ああ、せめて、せめての願いです。法光殿になしたことで、わたしをお恨みください」
「……痛ましいことだ」
光栄は静かに背後に下がった。
「その身が満たされるまで、永遠を生きるしかなかろう。そなたが愛に満たされることを祈ろう。そなたにかけられた呪いを解くことはできぬが。ただ、自ら解けるようにはした。真実の愛を得よ。それまで、そなたは人に御名を教えることができぬ」
「光栄さま。光栄さま、どうか、どうか、わたくしの名前をお聞きくださッ……」
姫は自分の本名を伝えようとした。しかし、両唇がぴったりと閉じ、なにも言葉にできない。もがくように、姫の指が唇を破る。しかし、血が滲むだけで、言葉は出ない。
「わたしは、そなたを愛することはない。ゆえに、そなたはわたしに名を告げられぬ」
非情な男は来た時と同様、
あとに残ったのは、姫の衣についた移り香だけ。
姫は、どのくらい、そのままの姿勢で待っていただろう。光栄が戻ってこないのはわかっているだろうに。
「あの方は、永遠にわたしを愛しも憎みもしない。わたくしにとって運命の方なのに」
「姫さま」
深い闇の底を見たような表情を浮かべたまま、姫の目から静かに涙がこぼれ落ち、ほほを伝っていく。
「これが、わたしの流す最後の涙だ。言わずともよい。わたしが愛する者は、わたしを愛さない」
姫は寂しげにほほ笑んだ。
「きっと、わたしは耐えられないであろうな」
その後、姫は父である藤原兼家によって土蔵に幽閉され、藤原家の系譜からも消された。永遠の時のなか、歴史という時間軸から、その姿は消えさった。その物語は、いずれまた別の機会に。
まずは、わたしが姫に出会った現代へと、話を進めようか。
(平安時代編 完結:現代編につづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます