あれから、12年後 6




 ──人の思念とは情報だ。その情報は脳の奥深くに蓄積された太古の記憶であるかもしれない──


 光宏が残したノートパソコンには、ワードで書かれた日記が所蔵されていた。その冒頭がこれで、メモ書きのように綴られている。


 色褪せた年代物の冊子は、表紙に墨で「深草の女房日記」と書いてあった。かなり古いもののようで、古文で書かれた日記は現代文に訳す必要がある。理系のわたしには、なかなかハードルが高い。


 先に、佐々波の日記を読んだ。わたしと出会った頃からはじまっている。恋に恋する気恥ずかしい内容で、死後にこんなことを読まれたら、いやだろうな。


「ごめん、光宏」


 あの頃のわたしは男性を特別のものと思い、ぎこちない態度で接することしかできなかった。マロンが教えてくれたのは、実際は男を落とす手練手管ではなかった。緊張するあまりに、バカなことをしでかすわたしを変えることだった気がする。


 光宏の日記は、わたしとの出会いから結婚まで、いかにわたしが素敵かと事細かに描写している。読んでるこちらが恥ずかしくなるほどで、そして、かなり気が滅入めいることでもあった。


 しかし、結婚してからの内容は一変した。


 ──僕は、なぜ下鴨モチと結婚したのだろうか?

 幼い頃に母を亡くしたからか、女性への接触の仕方がわからない。オンラインゲームで知り合った彼女に対して、理想の女性が現れたと思った。

 結婚して彼女は変わった。いや、僕が気づかなかっただけかもしれない。

 新婚旅行の頃から疑問を感じはじめた。今では疑問というより、愛情を持ったことさえも理解できない。

 下鴨モチはいい人だから、とても申し訳ないと思う──


 わかっていたことだが傷ついた。光宏は下鴨モチではなく、恋神マロンが作った女に恋したのだ。それはわたしではない。


 光宏の文章は徐々に乱れていく。

『てにをは』を間違えている箇所も多い。


 当時、思い起こせば、彼は真っ暗な部屋に、ひとりいることが多かった。何か悩みがあると、薄々感じてはいたが、声をかけると、『ほっておいてくれ、うざい』という冷たい言葉が飛んできた。


 当時のわたしは、ちょっと有頂天だったのだ。


 必死で努力した建築の新人賞を取ったばかりで。それを理由に、不穏な空気を察しながら逃げた。わたしは本当にずるい女だ。今も昔も欺瞞ぎまんばかり。


 ──結局、人間なんか、奴ら自分だけをかわいい。いざてなったら、みな逃げる。どんなに善人ヅラしても、、どんなに正義は振り回す輩でも、声が大きいだけ、バカ野郎ばかり。バカだ、、バカだ、、bbばかやろうだ。。くっそ薄きたネイ、どいつもこいつも──


 この言葉を最後に、ワードの文章は中途半端に終わった。


 他には、「ボイスレコーダー」というフォルダがあった。フォルダを開くと、光宏の声が、まるで生きているかのように飛び込んできた。


『あの男は言うだろう。話しあうべきなのか』


 誰との会話だろうか。

 音声データの上部に日付があり、わたしと離婚した直後のものだとわかる。


 ジジジッという音が聞こえ、再び会話がはじまる。

 

『そもそも、なぜ、そなたがせねばならぬ』

『あのマンションは僕の仕事だからだ』

『そなたの仕事? ちがうであろう。それは彼らの背負うべきものだ』


 会話の相手と光宏の声は、よく似ていた。話し方が違うだけで、声質が似ている。


『さっさと逃げた下請けの奴ら、殺してやりたい』

『ああ、そうだ、やつらを殺せばいい』

『犯罪者になれっていうのか。いっそ終わりにできれば、どれほど楽なんだろうか。こんなふうに絶望を感じることさえも、つくろっている気がする』

『絶望は希望があるから感じる。わたしもそうであった。だが、その希望は偽りなのだ』


 支離滅裂で禅問答のような会話が、ずっと続いている。いったい、これはどういうことだろうか。


『そなたは途を見失ったようじゃ』

『そうだ、わかっている。今では理解している』

『あの姫はどこじゃ。そなたが真に愛すべき、オナゴぞ』

『それは誰なんだ』

『わからぬのか。近くにいたのに、なんと、愚かな者なのだ』

『姫とは誰だ』

『まだ、出会ってはいない。すぐ側まで近づいたやもしれぬが、すんでのところで逃げられた』

『言っている意味がわからない。ああ、頭が痛い。わかるか、おまえ、僕は頭が痛むんだ』


 ジジジジジッ……。


 奇妙な音が聞こえる。

 蝋燭ろうそくの芯が切れたような、かすかな音だ。


『いつのまに、……なぜ、こんな腑抜ふぬけになってしまったのだ。僕は何をした。な、何もしなかったのか。おまえ、おまえは、いったい誰なんだ。姫とは誰だ。教えろ』


 そこで、ボツっと音声データが途切れた。

 これで終わり?

 ノートパソコン内を調べたが、ほかにデータはない。


 あとはUSBメモリだけだ。パソコンに挿入して、中にあったフォルダを開くと画像が保存されていた。


 画像はすべて女性。それもみな同じ女だ。


 古そうな絵から新しい写真。

 平安時代の衣装を着た若い女性の絵からはじまり、時代が流れていくごとに衣装が変わっていく。途中から絵は古いモノクロ写真になった。


 最後には、大正時代らしいモノクロ写真で、撮影された女がにらむように、こちらを見ている。


 恋神マロン。


 どの画像もすべてマロンだ。見間違いようがない。

 光宏は恋神マロンを知っていたのだろうか。これはどういうことだろう。じっとりと嫌な汗がにじむ。


 膝頭ひざがしらの力がぬけ、ガクッと、その場に落ちるように倒れた。……息苦しい。この画像を見ていると息がつまる。

 空気が重い。

 この絵に意識があり、それが空気を犯している。



(つづく)

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