あれから、12年後 5
マイナスドライバーを板の隙間に挟み、何箇所かカナヅチで叩いた。コンコンという乾いた大きな音が出て、隣の部屋に響くかもしれず冷や汗がでる。
そっと、そっとよ。
板と板の間に隙間ができる。楽に外せそうだ。
片手を添え、隙間のできた部分にマイナスドライバーをさし入れた。テコの要領で押しだす。
クローゼットの内部板が、パタッと乾いた音をたて倒れてきた。
「うっ!」
思わず声が漏れる。両端を持って重量のある板をささえたが、支えきれない。
ガタッ、ガタン!
激しい音を立て、板の下部がこちらにズレてきた。とっさに下を支えると、逆に上部が倒れてくる。
お、重い。
両手と頭をつかって支えたまま背後に下がり、板が倒れるまま床に転がした。バタンと激しい音を立ててしまった。
耳をすませて、周囲を警戒した。
何も聞こえない。ほっとしてクローゼットの内部を見た。
闇に溶けるような空洞が広がっている。底なしの暗闇。いや、そう、ただ、そう感じた。
重い空気に、食べ物が逆流してくるような、すっぱい味がする。
思念だ……、これは思念の圧力だと、心のなかで誰かが語りかけてくる。これはわたしの意識だろうか?
ちがうと漠然とだが否定した。
なぜ、否定したかなんて、このさいどうでも良かった。ともかく理解したのだ。これは思念だと。
時に、わたしは本来のわたしじゃないと感じることがある。ここはいるべき場所ではないという感覚。その感覚がどこから来るのか理解できない。
その時、あるまとまった明確な声が聞こえた。声というより言霊のような男の深い言葉だった。
──怯えることはない。すでに去っておろう。
心に明確に語られた言葉が、はっきりとした意味を持つのは、はじめてだ。
『怯えることはない。すでに去っておろう』
いったい誰がわたしに語りかけてきた。
怖い! という明確なわたしの声と、相反する声が同時に存在している。
言葉とは情報だ。思念も情報にすぎない。誰かがわたしに情報を伝えてきた。その思念はわたしより強く、わたしなのに、わたしではない。
目を閉じようとしたが、恐怖に凍りつき閉じられない。
体が麻痺して自分のものではない感覚。牢獄に閉じ込められたように、全身が粟立つ。
……怯えることはない。すでに去っておろう……
「わかったわ。怯えない。それでいいんでしょう」という自分の声が震えていた。
黒い空洞に見えていたものが、はっきり何モノかへと変化する。それは文字として存在する。直感的に人が書いた文字ではないと思った。
血で書き殴ったような赤い文字だ。
『藤原兼家の娘』
どういう意味だろう。光宏がこれを書き残したのだろうか?
板をはって隠したのは、おそらく怖くて仕方なかったからだろう。
怖くて、怖くて、怖くて、そして、彼は、その恐怖から死んだ。
恐る恐る、その文字に触れてみた。
赤い文字は、指に吸い付くかのように濡れている。まるで、今、書かれたばかりのようだ。
触れた指に赤い色がついた。鼻に近づけると鉄サビのような匂いがする。
これは、血だ。まちがいなく血で書かれた文字にちがいない。それも、今も血を流しているかのように濡れている。
その時……。
ふっと、空気が揺れ、唇から煙のようなものが出てきた。
ゆっくりと姿形をつくり、わたしの前に立ちあがる。
男。
男は感情を持たない人形のように、その場に立っている。なんという神々しくも輝かしい容姿だろう。
男は優雅な動作で、ひと差し指と中指を顔の前にあげていく。上下左右に二本の指がすばやく動く。乱れはない。
「
低い声が耳に届く。
と、自分の指が上下左右にかってに動いている。男と同じ仕草をしているのだ。
──兄者。
クローゼットの板に書かれた赤い血文字が粉々になって泡のように消えていく。
──よく聞け、オナゴ。わたしが救えるのは、これが最後と、そなたの知る恋神マロンに伝えよ。宿願を達成せよ。時間はもうあまりない。理解できたか?
「あなたは?」
──賀茂光栄。
「なぜ、ここに」
──そなたが受け継いだ遺伝子のなかに組み込まれた太古の記憶だ。すべての人間は遠い祖先から、その遺伝子を受け継ぎ不死を生きているのだ。
──命はすべてつながりがある。意識できずにいるだけのことだ。
「では、わたしはあなたで、あなたがわたしでもあるってこと」
ぞくぞくっと悪寒が走ると背筋から圧力が消えた。
美しい男の姿はかき消え、跡形もない。
クローゼットの『藤原兼家の娘』という文字は完全に消えている。
板に、そっと触れたが、濡れた感触もない。
その時、下部にUSBメモリとノートパソコン、それから年代物の冊子が置いてあるのに気づいた。
玄関ドアのチャイムが鳴った。
「もしもーし、奥さん。わたしです。管理人ですけど、大丈夫ですか?」
わたしは慌ててドアを開けた。
「あの、下鴨さん。大変、申しにくいのですが、大きな音がすると苦情がでていて。この部屋については、それでなくても住民が神経質になっていますから」
「す、すみません。もう終わりましたから」
「本当に大丈夫ですか? お顔の色が真っ青ですよ」
ふらっとして、その場にしゃがみこんだ。
「この部屋は呪われているのかしら。まったく禄でもないことばかり起きて」
「す、すみません」
「救急車を呼びますか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうですか。元奥さまに、お願いするってのも、なんですが。この部屋をどうして良いのやら。誰に被害を訴えてよいのやら、いやですよ、もう」
管理人の女性はこずるそうな表情を浮かべた。
「賠償請求をしたいところなんで、なんせ、相手がいなくて。法律的には、あなたに責任はないようで。でも、同義的な」
「何をおっしゃりたいのか、わかりませんが。部屋は開け渡しますので。掃除費用とか。もし補償金で賄うことができなければ、こちらにご連絡ください。正当なものであれば、お支払いします」
「まあ、まあ、まあ、そんなことを言ってるわけではありませんから」
わたしは手続きを終わらせ、必要だと思うものだけ部屋から運びだして外に出た。外は、すっかり暗くなっていた。
(つづく)
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