あれから、12年後 4
大学病院からオフィスに向かうには、横断歩道を渡った先の地下鉄に乗る必要がある。が、足が前に進まない。
井伊たちに「大丈夫です」と、強がったくせに、この場に立ち往生する自分がふがいない。しかし、進まないものは進まない。まるで駄々をこねているみたいだ。
信号が赤になり、再び青になった。
電子音がつくる鳥の鳴き声が流れてくる。人びとは横断歩道を、それぞれの目的に向かって歩いていく。
行き先を見失ったわたしは、どう渡ればいいのだろう。
前にも後ろにも進めず、立ち止まる。マロンが消えた日からずっと立ち止まっている気がする。
ふたたび信号が赤になり、また青になった。
わたしは大きく息を吸って走ってきたタクシーを止めた。佐々波が住んでいたワンルームマンションの住所を運転手に伝えたくなかった。
彼は都内の中心部にある便利な場所に住んでいた。
十一階建ての細長い作りのビルで、階ごとにふた部屋ずつあり、ビルの中心には階段とエレベータがある。彼の部屋は八階の右側だった。
管理人に連絡すると警察からも連絡が来たと、すぐに中年の女性が飛んできた。その様子から困っているのが、あからさまにわかった。
「ああ、助かりましたですよ。どうなるか、わからなくて。あなたが下鴨さんですか。佐々波さんの……元奥さま」と、最後の言葉を濁した。
「お世話になります」
「実は、警察がかってにした黄色い規制テープが二日前までありましてね。困りきってて。どうぞ、どうぞ。今、部屋の鍵を開けますから。引き払っていただくための書類とか、これから準備します」
「あの、片付けとか。しばらく、時間がかかると思いますので、終わりましたら、ご連絡します」
「はあ」
女性は、わたしの返答に納得がいかないのか、しばらく、そのまま立っていたが、わたしが何も言わないと、「では、ご連絡を待ちますから」と、帰った。
部屋のドアを開ける。
瞬間、
主を失った部屋は時間が止まったかのように、まだその魂が残っている気配がする。玄関口で両手をあわせて冥福を祈った。
「光宏……。わたしよ、入るわ」
誰もいない部屋に声だけが虚しい。
部屋は、よくあるワンルームの造作だった。
玄関口からの廊下、ほとんど使用してない狭いキッチン。ベッドルームを兼ねた十畳くらいのリビングがある。
白い部屋には白いカーテン。
白、白、白。
それが病院みたいで、味気ない。
まるで色を拒否していかのようだ。
形容しがたい恐怖に鳥肌が立ってくる。
なぜだろう?
あの優しかった人の部屋なのに。
なぜ、亡くなったあとで恐怖を感じるのだろう。
リビングでは、壁から床にかけて、チョークで人型が描かれていた。この壁にもたれ、すわるような形状で彼は倒れたのだろう。両足が開いた様子が床にある。
警察が捜索したのだろうか、それとも最初からだろうか。室内は本や書類が散らばり、かなり乱れていた。
解剖室で見た、恐ろしくゆがんだ顔。恐怖に怯えた顔を過去に見たことがない。あの気持ちの優しい人が、こんなことになるなんて。
ザ、ザ、ザワザワ……。
「誰!」
空気に、ざわりとした妙な気配を感じる。ふたたび鳥肌が立った。
背後を見るのが怖い。
誰もいないはずなのに、気配を感じる。
幽霊は音がすると出ないと、母が言っていた。幼い頃、お化けを怖がると、母がいつもそう慰めてくれたものだ。
『山でクマを追い払うんじゃないから』と、思春期のわたしは笑ったが、『あら、幽霊もクマも一緒なのよ。音が怖いの』と、母は言い張った。
「いい、わたしは怖い女よ。出てこないで。返り討ちだからね。だめよ。わかっているわよね」
迷信だと思いながらも、つい、声を出したのは、なにか異様な気配を感じたからだ。
部屋に散乱している本は、結婚していた頃、彼のベッドルームにあったものと変わりない。
わたしたちは結婚しても、それぞれの個室をもった。生活時間が完全に異なり、都合が良かったのだ。
「これは、なに? 本よね。本か書類ばかり。暇だったの?」
散らばっている書類は、ほとんどがマンション訴訟法についてだ。まだ決着がついてなく、住民との話合いが続いているのだろう。この部屋の乱れは、あるいは、彼の心の乱れなのかもしれない。
この部屋でひとり孤独に悩んでいたとすれば、本当に哀れだ。
『おまえはいいな』と、彼がぼそっとつぶやいたのを覚えている。
離婚をきりだされたとき、わたしはジャパン建築家大賞新人賞をもらい、仕事が波にのりはじめていた。光宏は、それを喜ぶよりも嫉妬した。
『この賞を取るために、本当に寝るのも忘れてがんばったわ』
『ああ、知ってるよ』
そう言った彼の荒んだ目に、強いて気づかないふりをした。今から思えば、例のマンションの施工不良問題が、いよいよ表沙汰になり追い詰められていたのかもしれない。
わたしは悪気など全くなかったが、心配りが足りなかったと思う。昔からだ。この鈍感な性格は治らない。
ザ、ザ、ザワザワ……。
奇妙な気配をさらに感じ、全身が粟立ってくる。
部屋の一面は備え付けのクローゼットで、そこから強く気配を感じた。
おかしい……、おかしい、逃げたほうがいい。
心の声を無視して、折戸を全開した。彼のスーツが数枚とワイシャツ、それから現場で着る作業着が乱雑にかけてあった。私服は下部の引き出しに入っている。多くはない。必要最低限のものだけだ。
「ほら、何もないじゃない。何を怯えているの……」
そう声に出しながら、スーツのかかり方が奇妙だと気づいていた。仕事柄、こういう微妙に尺が合わないことに目ざとい。
入っている服をすべて取り出すと、奥は板張りになっている。
何もない。
いったい、何を期待していたのだろう。
思い違いなのだろうか。建築家としての職業からくる違和感。それがなんなのかわからないイラ立ち。
背面板を手で触れてよく見ると、巧妙に隠した隙間があった。
ザラッとした肌触りで、ひどく湿気ている。それも、蒸れたような感触。見ただけではわからなかったが、これほど湿気を含むのは異様だ。
振り返って窓を見た。
この部屋は八階にあり、南向きで正面を遮るものは何もない。
日差しが強く、乾燥しがちな部屋で結露もなさそうだ。
そのまま触れていると背面板に吸い込まれるように感じ、ぞっとして手を外した。
もう一度、窓の外を眺めた。
太陽がオレンジ色に輝き、ビル群の間から落ちようとしている。ブーンという空調機器の低音と、ハッハッハッというわたしの激しい呼吸音だけが聞こえる。
もう一度、クローゼットの奥を見て、室内を見渡し工具箱を探した。
簡易キットが入った工具箱をキッチンの戸棚から見つけた。
マイナスドライバーとカナヅチを取り出してクローゼットに戻る。
手で触れる。
よく見ると巧妙に隠した隙間があった。
(つづく)
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