あれから、12年後 3
植野になんどか連絡をいれたが、電話は繋がらなかった。
部屋のなかをあっちに行ったり、こっちに行ったりしながらスマホを握りしめ、トゥルルルという無駄に鳴りつづける音を聞いている。
こんなふうに、電話に出ない光宏をずっと待っていたことがある。そう思い出したとき、受信音が聞こえた。
「もしもし、植野ですが」
「下鴨です。すみません、突然に。佐々波のことで連絡を」
「こちらこそ、お忙しいところを申し訳ない。何度かご連絡をいただいたようですが……、すぐお電話を取れずに」と、言って彼は言葉を切った。
「母から聞きました。佐々波ですが、事実なんですか?」
「はあ、なんていうか、言葉がない。ご愁傷さまです」
それから、彼は事情を丁寧に説明してくれた。
「佐々波をお引き取りになるなら、警察にご連絡いただけますか? 彼は両親もなく、縁戚も九州で、数十年もつき合いが全くないようで。もし、ご負担なら会社のほうでなんとか」
「わたしから警察に、あの、れ、連絡を入れます」
「ありがとうございます。それにしても、なぜこんなことに。
植野は、そこで言葉をにごした。
「こちらでお手伝いできることがあれば何でも言ってください」
礼を言って電話を切った。
電話を切ったが、すぐ警察に連絡をいれる勇気がなかった。
バスルームに行き顔を洗い、タオルで適当に拭いた顔がよそよそしく鏡にうつっている。
七年前、ハネムーンで泊まったホテルで同じように鏡の顔を見ていた。
あれから七年が過ぎたのだ。それは、もうなのかまだなのか。
あの朝、ホテルの部屋で顔を洗うわたしを彼が背後から抱きしめ耳を噛んだ。あの幸福な時間、『笑って』と、彼は言った。
あの男が二日前に亡くなった……。
胸をドンと硬いもので叩かれたような痛みが走る。まだ若かったのだ。わたしは日本へ帰る一番早い便の航空券を手配した。
うつらうつらしていると、佐々波とマロンが一緒にいる夢を見た。彼が取り憑かれたようにマロンを見ている……。
声がでなかった。でも、これは止めなきゃ。止めなきゃならない。
『だめよ!』
自分の叫び声で目が覚めた。
わたしは、どちらを止めたかったのだろう。佐々波なのか、マロンなのか。マロンが消えてから十二年も過ぎて、いまだに、その姿を追っている。ときどき、幻のように彼女の姿を見たと思ってしまう。
日本に戻ってすぐ所轄の警察署に向かうと、刑事課第1課の井伊という年配の男を紹介された。
定年間近らしい人の良さそうな男で、ひとしきり無駄な会話を続けたあと、本題に入った。
「ようよういらして下さいましたな。なんちゅうか、その、非常に奇妙な状況でしてな。それゆえに司法解剖に至ったんですが、解剖医の初見では死因とするに『感動死』ではないかと。事件性という意味では、外傷もありませんしな。妙な事件です」
クチュクチュと口から音を出しながら、井伊は困ったようにシワの多い顔をゆがめた。刑事というより、日に焼けた黒い顔は農夫のように見える。穏やかな語り口に、たいていの人は自分の鎧の脱いでしまうにちがいない。
「感動死? そんな言葉を聞いたことがありませんが」
「長く警官を務めてきましたがな、わたしもはじめてのケースで。極度に高まった感情によることが理由だそうですが。恐怖、驚愕などによって起こる精神的ショックで心臓麻痺あるいは神経機能の停止を招くのだそうで」
「まさか、びっくりしてと……。佐々波はそこまで繊細な男ではありませんが」
「さようですか。解剖医が申すには、心臓が元気な若い方では珍しいケースと。普通なら心不全として扱うところですが。解剖医が優秀な男でしてな。まあ、その、あまりに特異な様相ではあったのです」
そこで、井伊は両唇を軽く突き出し、困ったように人差し指で眉をかいた。言葉を選んでいるようで、要領を得ない。
「どういう意味でしょうか」
「ご遺体をお引き取りになりますかな」と、彼は話題をかえた。
「ええ。彼と会えますか?」
「はあ、もちろんです。これから、向かってもよろしいですかな?」
返事をする前に、井伊はスマホを持つとメールした。しばらくして、ピンと音がした。
「手配しました、したんですがね。大学の解剖室に安置しておりますんで。半刻ほどで行けますが。実は、かなり心を強く持っていただかないとなりません。確か、昨日の夜にご帰国したばかりですよね。大丈夫ですかな?」
心を強く?
意味を聞いても要領を得ない。ただ、井伊は何度も念を押しながら、大学病院まで車で案内してくれた。
この病院は井伊にとって慣れた場所なのだろう。エレベータで地階におり、込み入った廊下を迷わずに歩いていく。異様に靴音が響き、ひっそりとして人の気配を感じない。
灰色のスチール製ドア前に来ると、井伊は立ち止まってノックした。白衣を着たひょろりとした男が出てきた。
「先生、例の佐々波さんの……、
「お入りください。ご遺体はこちらです」と、富士島と紹介された男は軽く頭を下げた。
もの静かな男だった。骨格が細く動く度に微妙に体全体が揺れているようにも見える。
ふたりの後から解剖室に入った。
中央にステンレス製のベッドがふたつあり、ひとつのベッドに白いシーツにおおわれた人が横たわっていた。おそらく裸体なのだろう。体の形に合わせてシーツがでこぼこしている。
まさか、これが。
大学時代に恋焦がれ、そして、愛し合い、結婚して別れた光宏なのだろうか。
蛍光灯がむやみに明るく白い壁に反射して、余計に冷たい場所に思える。
「よろしいでしょうか」
富士島はボソボソした声で話す。
「はい」
彼が、ゆっくりと頭部のシーツを剥がしていく。
そこにある顔、青褪めた顔。
こ、これは……。
ち、ちがう、ちがう……、こ、これは、ちがう!
悲鳴をあげそうになったが、声が出ない。衝撃から無意識に両手で口を抑えた。
閉じ込められた悲鳴が行き場を求めて体を揺らし、力が抜け、気づいたら冷たいフロアに尻もちをついていた。
ジジジーっという音が耳の奥で鳴り、体がガタガタと震えてくる。
この顔、こんな顔に、なんてこと。
佐々波の顔は異常なほどむくんでいた。
それだけではない。
恐怖のためなのか、口を大きく開けている。まるで、誰かが強引に口を裂いたかのように大きく、
「い、いったい、何が……。彼に何が」
「わかりません」
富士島は冷静な声で言うと、すぐにシーツを閉じて顔をおおった。井伊が手を差し出して助け起こそうとしてくれたが、無視した。
彼らは、わたしがフロアから立ち上がるのを待った。
「わたしも、過去の検視において、このような表情を見たことがありません。あきらかに、なんらかの精神的ショックを受けたと考えられます。これが死因を『感動死』とした
「いったい何が起きたのですか?」
「わかりません」
「わ、わたしは、どうしたらいいのでしょうか?」
「そちらの書類が整い次第、お引き取りができるようにします」
「わ、わかりました」
老刑事の話ぶりから、警察は佐々波の事件をこれ以上、調査するつもりはないようだった。
「佐々波のマンションはどうなりましたか?」
「整理なさるなら、管理人に連絡しておきますよ。しかし、奥さん」と言って、彼は言葉を選んだ。
「いや、もう奥さんではないですな。失礼しました」
曖昧な笑顔を向け、この場合、笑顔を見せるべきじゃないかもしれないと思いながら、大学病院からよろけ出た。
(つづく)
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