あれから、12年後 2




 カリフォルニア大学バークレー校には、大聖堂に似合うくすんだ若草色の正門がある。正門をくぐり抜けた先に開放的なキャンパス、ここに四月という季節を付け加えると、最高に心地よい世界となる。


 校内は木々にあふれ、春の風が樹木の葉を揺らしていく。枝は動かない。葉の先だけが微かに揺れ、喝采するかのように一心不乱にさざめいている。


 肌にまといつくように抜ける穏やかな風を追えば、誰もが幸せを感じるはずだ。




 わたしは建築イベントに参加するために渡米した。


 イベント週間に開放された講義室に入ると、目当ての著名建築家による講演が、すでにはじまっていた。


 ざわざわした会場に、こっそり入り込むとき、むやみに緊張してしまった。こういうとき、昔なら、緊張のあまりバカなことをしでかすんだけど、普通に普通にと呪文のように念じる。


 ああ、だめだめ。もっと自然でいい、わたしは自信にあふれた下鴨モチを演じるんだから。


「遅かったな」と、先に来た顔馴染みの男が耳元でささやいた。

「ちょっと散歩したくて」

「相変わらずだな。佐々波が言っていたよ。あいつは自由なんだとな」

「彼、元気にしてる?」


 男は大学の先輩で、佐々波と同じ大手ゼネコン会社に勤めている。


「元気? そりゃ、ないっしょ。一年前におきた例の事件、当時、だいぶ騒がれていただろう。マンション施工不良問題だよ。あれ、やつが基礎工事部分の責任者でな。基礎工事で杭の固定を適当にして、そのデータを二次受け会社が改竄かいざんした奴さ。マンションの躯体くたいにひび割れが生じて大騒ぎになっただろう」

「あれは、佐々波が担当していたの。知らなかった」

「そういうとこ、おまえ、昔から抜けてるのな」


 離婚する少し前、確かにこの問題が起きていた。彼に連絡をいれたが『関係ない』と短く返ってきた。


 お互いに仕事のことは話題にしなかったから、彼の部署とか何も知らないし、この問題で悩んでいるとも思わなかった。


「そう、大丈夫かしら」

「あまりいいとは言えんかな。かなり精神的に追い込まれてるようでさ。実は二次受けの会社は倒産して、社長は雲隠れで」

「そう……、彼のこと頼むわ」

「いや。頼まれてもな。勤務地も違う」

「冷たい人」

「そこが、俺の魅力だろう」


 彼はおおらかに笑った。いずれにしろ他人事なのだ。


 無駄話をしている間に講演が終わり、若い建築家たちの間で、熱のこもった議論が交わされはじめた。


 成功において、二種類の相反する報酬があると言ったのは、光宏だ。

 一つは賞賛と栄光、もう一つは嫉妬と敵意。

 この二つに耐えうる強靭な神経がなければ、成功などしないほうがいいと。


 わたしがそのどちらにも耐えられないのは確実で、まだ成功とはほど遠いが、それでも、わたしの立ち位置に嫉妬の目を向けられることがある。

 食べていければいいというマインドは、とくにこうしたアーティストの世界では厳しい。

 

 ほどほどに挨拶をしてから、「ごめん、帰るわ」と声をかけ、会場を後にした。


 大学正門を出ると、その先はレストランやショップが連なるテレグラフアベニューという街路になる。まだ夕暮れには早く、散策する人びとは多い。


 ホテルへ帰る道をいそいだ。


 その時、背の高い白人男性と小柄な黒髪の女性と、すれ違った。ふっと届いた香りに、思わず振り返った。


 風が通り抜けた。

 サラサラの黒髪から、なつかしい匂いがする。


 大柄な白人男性は黒髪の女性にむかって、愛おしむような表情で顔を傾けている。なにかを必死に問いかけていた。


 女が顔を傾け、うっすらとほほ笑み、彼の顔を見上げる。

 その美しい横顔。

 完璧なフェースライン、ぬけるように白い肌に血のように赤いぷっくらとした下唇。整った冷たい顔立ちを、その下唇が裏切っている。


 恋神マロン。


 考えるより先に走っていた。咄嗟の行動に足もとがもつれ重心を崩してしまう。


「あっ!」


 思わず悲鳴をあげて道路に転がった。


 女が、こちらを見た。その冷たい視線は、まるで、バカねと言っているみたいで、優しさの欠片もない。すべての女性を敵にまわして気に留めない。冷酷な恋神マロン。

 いや、ありえない。

 彼女の顔は、わたしが知っている十代のままで。


「待って……」


 わたしの声は人混みに邪魔され届かない。

 あわてて起き上がると、膝や手のひらにするどい痛みが走った。擦り傷ができた手に血が滲みだす。


 いや、違う。そんなはずはない。マロンのはずがない。わたしと同じ三十三歳だから人違いにちがいない。


 空を見上げたら、雲の流れが早い。しばらくして、にわか雨が降ってきた。パラパラと降る雨はすぐに激しさを増す。


 人びとは傘もささず、同じ歩調で歩いていく。濡れても気にならないのだろうか。これが日本なら、一斉に傘をさすか、軒下で雨宿りするだろう。


 わたしは雨に濡れたまま、彼女が消えた先を見つめた。


 どうかしている。きっと、幻を見たのだろう。




 ホテルに戻り、スマホの電源を入れた。メッセージが入っている。一瞬、マロンかもと思ったが、母親からだった。

 時差を確認して電話を入れた。


「もしもし、何かあった?」

「あのね、驚かないで聞いてちょうだい。佐々波さんの会社の方から連絡があったのよ。植野さんって知ってる」

「ええ、知っているわ。佐々波の同僚だった人。一度だけだけど、会ったことがある」

「もう関係はないでしょうけど。でもね、これもご縁でしたから」

「どうしたの?」

「佐々波さん、別れて一年ちょっと? よね。あのね……、お亡くなりになったんですって」

「え? もう一度、言って」

佐々波光宏ささなみみつひろさんがね、会社の同僚の方がいうには、ご自宅で亡くなっていたそうなの。二日前のことだそうよ。それであなたに連絡を取りたいって」

「り、理由は。だって、そんな」


 穏やかでめったに感情的にならない人だった。そう過去形で思ったわたしは、すでに彼の死を受け入れはじめているのだろうか。


「わたしも、よくわかりませんよ。ともかく、あなたに連絡したいとか。なんでしょう」

「亡くなった理由は?」

「なにも聞かなかったわよ。もう別れた方だから、モチちゃん、どうする?」

「植野さんの連絡先は?」

「ちょっと、待ってね。これ、これよ」


 母が電話口で読み上げる連絡先を、メモしてから電源を切った。




(つづく)

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