あれから、12年後 2
カリフォルニア大学バークレー校には、大聖堂に似合う
校内は木々にあふれ、春の風が樹木の葉を揺らしていく。枝は動かない。葉の先だけが微かに揺れ、喝采するかのように一心不乱にさざめいている。
肌にまといつくように抜ける穏やかな風を追えば、誰もが幸せを感じるはずだ。
わたしは建築イベントに参加するために渡米した。
イベント週間に開放された講義室に入ると、目当ての著名建築家による講演が、すでにはじまっていた。
ざわざわした会場に、こっそり入り込むとき、むやみに緊張してしまった。こういうとき、昔なら、緊張のあまりバカなことをしでかすんだけど、普通に普通にと呪文のように念じる。
ああ、だめだめ。もっと自然でいい、わたしは自信にあふれた下鴨モチを演じるんだから。
「遅かったな」と、先に来た顔馴染みの男が耳元でささやいた。
「ちょっと散歩したくて」
「相変わらずだな。佐々波が言っていたよ。あいつは自由なんだとな」
「彼、元気にしてる?」
男は大学の先輩で、佐々波と同じ大手ゼネコン会社に勤めている。
「元気? そりゃ、ないっしょ。一年前におきた例の事件、当時、だいぶ騒がれていただろう。マンション施工不良問題だよ。あれ、やつが基礎工事部分の責任者でな。基礎工事で杭の固定を適当にして、そのデータを二次受け会社が
「あれは、佐々波が担当していたの。知らなかった」
「そういうとこ、おまえ、昔から抜けてるのな」
離婚する少し前、確かにこの問題が起きていた。彼に連絡をいれたが『関係ない』と短く返ってきた。
お互いに仕事のことは話題にしなかったから、彼の部署とか何も知らないし、この問題で悩んでいるとも思わなかった。
「そう、大丈夫かしら」
「あまりいいとは言えんかな。かなり精神的に追い込まれてるようでさ。実は二次受けの会社は倒産して、社長は雲隠れで」
「そう……、彼のこと頼むわ」
「いや。頼まれてもな。勤務地も違う」
「冷たい人」
「そこが、俺の魅力だろう」
彼はおおらかに笑った。いずれにしろ他人事なのだ。
無駄話をしている間に講演が終わり、若い建築家たちの間で、熱のこもった議論が交わされはじめた。
成功において、二種類の相反する報酬があると言ったのは、光宏だ。
一つは賞賛と栄光、もう一つは嫉妬と敵意。
この二つに耐えうる強靭な神経がなければ、成功などしないほうがいいと。
わたしがそのどちらにも耐えられないのは確実で、まだ成功とはほど遠いが、それでも、わたしの立ち位置に嫉妬の目を向けられることがある。
食べていければいいというマインドは、とくにこうしたアーティストの世界では厳しい。
ほどほどに挨拶をしてから、「ごめん、帰るわ」と声をかけ、会場を後にした。
大学正門を出ると、その先はレストランやショップが連なるテレグラフアベニューという街路になる。まだ夕暮れには早く、散策する人びとは多い。
ホテルへ帰る道をいそいだ。
その時、背の高い白人男性と小柄な黒髪の女性と、すれ違った。ふっと届いた香りに、思わず振り返った。
風が通り抜けた。
サラサラの黒髪から、なつかしい匂いがする。
大柄な白人男性は黒髪の女性にむかって、愛おしむような表情で顔を傾けている。なにかを必死に問いかけていた。
女が顔を傾け、うっすらとほほ笑み、彼の顔を見上げる。
その美しい横顔。
完璧なフェースライン、ぬけるように白い肌に血のように赤いぷっくらとした下唇。整った冷たい顔立ちを、その下唇が裏切っている。
恋神マロン。
考えるより先に走っていた。咄嗟の行動に足もとがもつれ重心を崩してしまう。
「あっ!」
思わず悲鳴をあげて道路に転がった。
女が、こちらを見た。その冷たい視線は、まるで、バカねと言っているみたいで、優しさの欠片もない。すべての女性を敵にまわして気に留めない。冷酷な恋神マロン。
いや、ありえない。
彼女の顔は、わたしが知っている十代のままで。
「待って……」
わたしの声は人混みに邪魔され届かない。
あわてて起き上がると、膝や手のひらにするどい痛みが走った。擦り傷ができた手に血が滲みだす。
いや、違う。そんなはずはない。マロンのはずがない。わたしと同じ三十三歳だから人違いにちがいない。
空を見上げたら、雲の流れが早い。しばらくして、にわか雨が降ってきた。パラパラと降る雨はすぐに激しさを増す。
人びとは傘もささず、同じ歩調で歩いていく。濡れても気にならないのだろうか。これが日本なら、一斉に傘をさすか、軒下で雨宿りするだろう。
わたしは雨に濡れたまま、彼女が消えた先を見つめた。
どうかしている。きっと、幻を見たのだろう。
ホテルに戻り、スマホの電源を入れた。メッセージが入っている。一瞬、マロンかもと思ったが、母親からだった。
時差を確認して電話を入れた。
「もしもし、何かあった?」
「あのね、驚かないで聞いてちょうだい。佐々波さんの会社の方から連絡があったのよ。植野さんって知ってる」
「ええ、知っているわ。佐々波の同僚だった人。一度だけだけど、会ったことがある」
「もう関係はないでしょうけど。でもね、これもご縁でしたから」
「どうしたの?」
「佐々波さん、別れて一年ちょっと? よね。あのね……、お亡くなりになったんですって」
「え? もう一度、言って」
「
「り、理由は。だって、そんな」
穏やかでめったに感情的にならない人だった。そう過去形で思ったわたしは、すでに彼の死を受け入れはじめているのだろうか。
「わたしも、よくわかりませんよ。ともかく、あなたに連絡したいとか。なんでしょう」
「亡くなった理由は?」
「なにも聞かなかったわよ。もう別れた方だから、モチちゃん、どうする?」
「植野さんの連絡先は?」
「ちょっと、待ってね。これ、これよ」
母が電話口で読み上げる連絡先を、メモしてから電源を切った。
(つづく)
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