第96話 帰ってこれた……

 誰にともなく砦の方へと足を向けた直後、激しく地面が揺れ、吹き飛ばされるような風圧と衝撃が砦を襲った。

 反射的に耐える姿勢をとったアーヴァインたちはともかく、外壁の上にいた者は飛ばされたり壁に叩きつけられる者も出て一瞬の静寂の後にあちこちで声が上がった。


「すみません! 説明の前に余波がまだまだ来るので物理結界と魔法障壁の準備をするように言ってもらえますか!?」


 後方の砦で被害が出ている事に気づいた樹が地面に片手をついたまま声を上げた。

 視界の遥か彼方、距離にして数キロは離れていると思われる場所で薄く白む世界がチカチカと赤や黄に染められており、遅れて聞こえる身体に響くような破裂音が始まった戦闘の激しさを物語っていた。


「……マジで来てんのかよ他の魔族が」


 樹の話を疑っていたわけではないが、どこかで本当の事とは認識しきれていなかったハインツ。膝をついたまま呟けば、咄嗟にハインツと樹を庇うように前に出たラドバウトがその背をしっかりしろと叩いた。訳もわからずこの場に連れてこられた自分よりも、ここで戦っていたハインツの方がどうするべきか判断出来ると思ってだ。

 悪い、とすぐに我に返ったハインツ。


「アーヴァイン、説明は状況が落ち着いてからで頼む。こいつの言う通りにしてやってくれ」


 アーヴァインは戦闘が行われている方へと視線を向けていたが、軽く舌打ちをして砦に移した。


「カッサに話を通す」


 短く言って動き出したアーヴァインに合わせハインツとラドバウトもその後を追い、樹もハインツに来いと言われて追いかけた。

 アーヴァインは砦に入るとすぐに指揮官の所へと直行し、死にたくなければ物理結界と魔法障壁を張るよう言い放ち、そのまま横にある通信用の魔道具を操作している伝令官に目を向けた。


「ルマンシラの作戦本部に繋げろ」


 我が物顔で指示を出すアーヴァインだったが、伝令官は何故冒険者がと訝しがる事もなく「繋いであります」と即答した。それは過去にアーヴァインが作戦会議に参加した事があり、そしてアーヴァインが通信の魔道具を使いたがる時は言う通りにしろという通達が成されていたからだ。

 アーヴァインは戦闘能力もさることながら、第六感とでも言えばいいような動物的勘の鋭さがあり、それが何度もこの地を守ってきた実績があったからこその指示だ。


『アーヴァイン、悪いが今――』


 魔道具の向こうから聞こえた声はカッサではなくネイマールだったが、アーヴァインは気にせずその声を遮った。


「各砦に魔法障壁と物理結界を張れ。おそらく一日以上……」


 アーヴァインはちらっと樹に視線をやって、樹はすぐに気づいて数日は続くと言われましたと答えた。


「三日から四日、最低でもそのぐらいの間はでかい衝撃が何度も来る。張れる奴でローテーションを組ませろ。それからオグルの残党がまだ残ってる筈だが、この状況じゃ砦から出てそいつらと戦える奴が大して居ない。向こうも巻き込まれて数を減らしてるだろうがな。面倒だからいつもみたいにアウローラともう一人の小娘に言って破邪結界に穴を開けて一か所だけ通すようにしろ。俺達が行ってそこで数を減らす。残ったのは物理結界と魔法障壁を張った内側でどうにか始末しろ」

『まてアーヴァイン、何が起きているのか知っているのか』

「龍と魔族がやりあってるが、それ以上の事は知らん」

『龍……教会の騎士が呼んだとかいうやつか?』

「知らんと言ってるだろうが、いいから動け」


 横柄なアーヴァインに『お前は……』と言いながら他の砦に指示を出すネイマールの声が聞こえ、それを聞いてすぐにアーヴァインは踵を返した。


「お前らも来い」


 薄い髭の生えた顎をしゃくって言うアーヴァインに、この流れだとそうなるよなとハインツとラドバウトは頷き、「お前もだ」と言われた樹もはいと頷いた。


 木々を大きくしならせる爆風や地面の揺れ、時々高熱の風と鼓膜を削るような異音が響く中、アーヴァインの先導で駆け抜けた先はどこまでも続く林の中にぽっかりと開いた草地だった。

 そこには林が途切れた事で透明な壁に押し付けられるようにして声を上げているおびただしい数のオグルの姿が露わとなっており、一瞬声を無くす樹。


「ハ、ハインツさん……あの、まさか」


 話の流れでなんとなくオグルを一点に集めて数を減らすのだろうというのは想像していた樹だったが、実際に隙間なくひしめき合う光景を目の前にして腰が引けた。それは喰鬼トロゴ・オグルに感じていたものとは違う、集合体恐怖症のようでもあり、数の暴力という言葉が頭に浮かび、どこまでも続く終わりの無い戦いの予感に恐怖が背筋を這い上がってくるようだった。


「こんだけ爆風やら衝撃やらが飛んでくる中で動ける奴は少ないからな。下手な被害を出さないためにもここで俺らが踏ん張るぞ」

「心配するな。お前は俺達の討ち漏らしだけやればいい。お前の腕なら出来る。いいな?」


 前に出てそれぞれの武器を構えるハインツとラドバウトの言葉に、はい以外の言葉が求められていない事を悟ってどうにか頷く樹。

 そしてリカルドから借りた剣に視線を落とし、握り直して覚悟を決めた。時を止めた中でリカルドにもう一度腕輪に魔力を補充してもらっているのだ。この中で誰よりも安全なのは自分だという確信が樹にはあった。圧倒的な数の差から気持ちが押し負けそうになるが、それでも何かあれば二人を助けられるのは自分だと、その覚悟で気持ちを奮い立たせた。

 そんな樹の強張りを見透かしたのか、ハインツは樹を見て表情を緩めた。


「ま、そのうち他からも応援が駆け付ける。それまでの辛抱だと思えばいいさ」

「楽観視はするなよハインツ」

「楽観視っていうか、経験則? あいつらがこの状況で砦に籠ってると思うか? 絶対出てくるって」


 だろ?と気楽に言うハインツにラドバウトは溜息をついてから、まぁなと同意した。


「そういうわけだ。だからそんな心配すんな」


 手を伸ばしぐしゃぐしゃと樹の頭を掻き混ぜたハインツは笑って、それからと声を潜めた。


「そこにいるアーヴァインだけどな。実はもうそこの結界超えてオグルどもを薙ぎ倒せるのにそうしてないんだぜ? なんでだと思う?」

「え……っと、穴を開けてもらってそこで倒す方が効率がいいから。とかですか?」


 確か一対多にならないように戦う立ち回りが理想だったっけ?と教えて貰った事を思い出す樹にハインツはニヤリと笑う。


「ハズレー。一人で突っ込んでいっても誰も見てくれないからでしたー」

「はい?」

「自分の格好いい戦いを誰も見てくれないからだよ」

「……はい?」


 二度聞いても意味がわからなくて変な声が出る樹に、横で聞いていたラドバウトが自己顕示欲が強いんだこいつは。とぼそっと付け足した。 


「せっかく頑張ってもその戦いぶりを吹聴してくれる奴がいないとちやほやされないだろ? だから一人では戦いたがらないの。一人の方がめちゃくちゃ強いくせに」

「聞こえてるぞハインツ」

「だって事実じゃん」


 飛んで来た鋭い声に肩を竦めるハインツ。


「事実だがそれを言ったら恰好よくないだろ」


 認めてる時点でどうかと思うけどな。とまたしてもぼそっと呟いたラドバウトは、アーヴァインの黙ってろという視線からすいーっと目を逸らして明後日の方を向いた。

 こんな状況なのにふざけているように見えるその様子に、樹はいつの間にか肩の力が抜けていた。

 たぶん、この人達なら大丈夫。そんな風に思えるものがあった。



 一方その頃リカルドは白龍の口の中——ではなく、口の中は邪魔になるからと飲み込まれて胃の中に居た。普通の人間なら死んでる所業なのだが、生まれて間もない白龍にはその辺の事がよくわかっていなかった。

 ちなみに胃と言っても白龍の身体構造は蛇に近いので、すぽんと胃に落ちるような事はない。粘膜で出来たトンネルの中をぬるぬる奥へ奥へといざなわれるだけだ。

 まぁいざなわれ続けたら出るとこから出てしまうので、物理結界を張って自分の周りに空気と一緒に空間を作り重力魔法によって奥へと行かないように留まっている。

 暗いし(明かりをつければ胃の生々しい内壁が目に入って嫌なのでつけていない)匂いが酷いし(物理結界は張っているが魔力提供のために一部を穴をあけている)、戦闘中のため上に下に横にとよく動くし、偶に攻撃が入るのか衝撃が来て揺れも激しい。身動きも取りづらくなかなかな環境だった。

 そんな中で外に自分の存在がバレないように白龍に魔力をあげ続けているリカルドは、虚空検索アカシックレコードで調べる度に参戦しようとする魔族が増えていて白目を剝きそう(気分)になっていた。


(俺いつ解放されるんだろ……)


 当初の確認では数日ぐらいかと踏んでいたが、参戦する魔族の中に悪魔族も結構いて、下手をすれば一週間ぐらい掛かる可能性も出てきていて気が遠くなった。

 それでも砦の方に被害を出すのは避けなければならないと、被害状況を確認して白龍をそっと誘導し、どちらが上か下かもわからなくなるような中でシルキーのご飯食べたいなぁ……と夢想しながら、帰ったら沢山食べようとモチベーションをどうにか維持して作業を続け、それが二日程続いたところで白龍の身体に変化が起きた。


 もともとこの白龍、生まれた時は貪食龍という種だったのだが、ラドバウトが持っていた大剣に込められたリカルドの魔力を喰らって白龍となっていた。

 古龍の変異種というのは成長とともに進化する龍なのだ。そして白龍から変化した姿というのが、目撃例が少ないとされる上位龍――一部地方では神格化されている生物、黄龍だった。

 外側から見ると白い鱗が段々と金色に染まっていくそれはそれは美しい光景なのだが、残念ながらそれを見ていたのは戦っている魔族だけ。内側まで金色になるわけではないので、真っ暗闇の中でリカルドはなんとなく龍の気配が変わった事に気づいて虚空検索アカシックレコードで調べてわかった。


〝あのー、ちょっと提案いいですか?〟


 激しく動き回っている黄龍に、強さ的にそろそろいいかなと遠慮がちに念話を送るリカルド。


〝なんだ母よ。今ちょっと気分がむきむきでいい感じで吹っ飛ばせそうなのだが――お、今のはなかなか飛んだぞ! 頭がスポーンだ!〟


 気分がむきむきって何?あとどこがスポーンだって?と想像しかけて思考を中断するリカルド。ひとまず龍の語彙に対するツッコミは置いといて、話を持ちかける。


〝まだ魔力を渡せるんですけど、どうします?〟

〝よいのか? 随分と食してしまったと思うのだが〟


 魔力どころか下手したら身体丸ごと食していた可能性がある黄龍なのだが、その辺の突っ込みを始めると理解させるのに手間取りそうなのでリカルドは流した。


〝あぁ、まぁ大丈夫です。次の姿になれるまで渡せると思うんですが〟

〝さらにむきむきに?〟


 黄龍からの思念が喜色に変化した。

 むきむきって脱皮的な感覚なのか筋肉的な感覚なのかどっちなんだろう?と首を傾げつつ、リカルドは肯定を返す。


〝はい。お願いを聞いてもらえればですけど〟

〝なんだなんだ。可能な願いなら良いのだが。可能な範囲にしてくれぬか?〟


 可能じゃなかったら嫌だなぁと思念に乗せて伝えてくる黄龍にリカルドは苦笑し、可能な範囲だと思いますよと返した。


〝この戦いが終わった後も、この場所に定住してもらいたいんです。時々魔族がやってくると思うので適当にあしらって欲しいなと〟

〝それでよいのか?〟

〝はい。そうして貰えればこちらとしてはとても都合が良いので〟

〝こちらも食事ついでに運動も出来て都合が良いが……いや、それが良いというのであればもちろん聞こう。それで魔力をくれるのだな?〟

〝はい〟

〝ならばそうしよう〟


 否やはないと答えが返り、よしと思うリカルド。

 この場所にこれだけ存在の大きな龍が居座ればまず魔族の注意はこちらに向く。オグルのように人間領へと侵攻しようとする魔族が居たとしても、黄龍で堰き止められる公算が高かった。


天使族あいつら吸血鬼に嗾けちゃったからなぁ……そのまま共倒れとかになったら今まで魔族を減らしてたのが無くなっちゃうし……)


 もともと人間領と魔族領の間に堰止めてくれる存在を作る事は、オグルの侵攻をどうにかした後に検討しようと思っていた事だ。

 今回の件は天使族を吸血鬼に嗾けた事が発端となったのだが、魔族領の魔族を減らす動きがこのまま無くなれば、今後もあぶれた魔族が定期的に人間領側に出てくる可能性はあった。

 結果的に龍という存在を置く事が出来たわけだが、運がいいのか悪いのか。よくわからないものだなと思うリカルド。


 そうしてさらに六日かけて魔力を与え続けた結果、無事に龍は次の姿に変化し、そしてその頃には大半の魔族を退け挑戦してくる魔族も居なくなっていたので、やっとリカルドは離脱する事が出来た。

 誰かに見つかると不味いので、日本版リカルドとなりそのままグリンモアの家に帰ったのだが、家の庭に出て日の光を浴びた瞬間、泣きそうになった(気分的に)。


(やっぱ人間にはお日様が必要だよ……)


 人間ではないしお日様が必要な身体でもないが、昼も夜も無い狭い暗闇に閉じ込められていたのはそれなりに堪えていた。

 リカルドに気づいたウリドールが〝神様遅いですよー!〟とタックルかまして雪に顔面からダイブしても、雪の感触っていいなぁ……と、粘膜とも物理結界とも違う感触にぐしぐしと顔を擦り付ける始末。今なら何に触れても素晴らしいと感動できそうな勢いだった。


「リカルドさん!」


 ウリドールの声で気づいた樹が勝手口から飛び出てきて、リカルドは顔を上げた。


「樹くん、無事に戻ってこれたようで良かった」


 樹がラドバウトとハインツの助けで早々にグリンモアに戻って来れていたのは確認していたが、何も知らない振りをしてよいしょとウリドールをくっつけたまま起き上がるリカルド。


「リカルドさんも……」


 良かった……と少し涙ぐむ樹に、そりゃ龍の口に隠れ続けるって言われたら心配するよなぁと苦笑いで誤魔化し立ち上がって樹の肩を叩くと、ひとまず世界樹の方へと歩く。


「ウリドール、もしかして飢餓状態?」

〝お腹ぺこぺこですよ! どれだけ待ったと思ってるんですか〜!〟


 涙と鼻水でずびずびしながら訴えるウリドールに、ごめんってと謝り、世界樹の上から水を撒いていく。


「なるべく果実は作らないでくれよ」


 と言いつつ、半分くらいは諦めているリカルド。龍の中からなかなか出られないとわかった時点でこうなる事も予想できていたので、一個増えようが二個増えようが死蔵するだけだともう割り切っていた。


「あの、リカルドさんが戻ったらラドバウトさんが連絡してほしいって」

「あーだよねぇ……」


 通信の魔道具も龍の腹の中では意味を成さないので連絡は全く取っていないのだが、大分気が重かった。


「ラドもだけど、教会にも顔を出してこないとなぁ……」

「ラクサさんにお願いしてクシュナに大丈夫だと伝えてもらうようには話しましたけど、そうしてあげてください。かなり心配してたみたいなので」


 樹にラクサとカッサ、そしてアーヴァインにだけは嘘混じりの真実を伝えるようにお願いしてあったのだが、樹はその大役をちゃんと果たしていた。

 鬼の残党を始末した後、アーヴァイン、ラクサ、カッサが揃った場で堂々と事前に取り決めた設定(リサという精霊使いが龍を呼んだ事)とストーリー(諸々の理由からリサを死んだ事にしてほしい事)を話し、彼らにそれを納得させて協力を取り付けたのだ。本当に樹に頭が上がらないリカルドである。


「樹くん、ありがとう。大変だったよね……」

「いえ、ハインツさんとラドバウトさんがフォローしてくれたので」

「そっか……」

「それで、あの……」

「ん?」


 どこか言い淀むように視線を泳がせた樹。なんだろう?と首を傾げて待っていると、おずおずと樹は口にした。


「実は、なんで俺があそこに居たのかってラドバウトさんとハインツさんに聞かれて……髪の色も変えてたから疑問に思われて……それで、その、ギルドに俺が勇者だってバレた事とか、そのせいでリカルドさんがあそこにいく事になった事とか……その、それでその辺の事を確かめるって言われて」


 あー……これは副ギルド長を脅したのがバレたな。と、悟るリカルド。ますます連絡を取るのが怖くなってきた。

 思わず口元に手を当てて、ばっくれたら余計に怒られるよな?と自問自答して、ふと樹の髪がいつもよりくすんだ緑色をしているのに気づいた。


「その髪……」


 樹の髪に触れるとパサついて痛んでいるのがわかり、あ。と気づくリカルド。


「そうか、あの魔道具を金髪用に変えちゃったから」


 元々髪色を緑にする設定だったのだが、金髪に書き換えてしまったので樹はグリンモアに戻る前に魔道具を外して髪を脱色し緑に染めたのだ。


「緑の髪にする魔道具を別に用意して渡せば良かったか。気が回らなくてごめん」

「大丈夫です、これはハインツさんがしてくれて……ちょっと不良になった気分ですけど」


 そう言って照れくさそうに言う樹に、リカルドはこの子は~と頭をぐしゃぐしゃと両手で掻き混ぜ、樹はうわわと逃げた。


「あ、そういえばシルキーは?」


 大抵リカルドが戻ればすぐに姿を現すシルキーの姿が無く、言ってからリカルドはそれがおかしい事に気づいて慌てて走って勝手口から中へと飛び込んだ。


〝あ、おかえりなさい。もう少しで出来るので座って待っていていただけますか?〟


 キッチンでフライパンを手にしているシルキーが普通に居て、へなへなとその場に座り込みそうになるリカルド。後ろから追いかけてきた樹が大丈夫ですか?と尋ね、そして、まだ足らないんですけど~!とウリドールも取りすがって来て勝手口が渋滞を起こした。

 ひとまず中断していた水撒きを再開すればウリドールはわーいとすぐに消えて、樹と一緒にキッチンの椅子に座るリカルド。めちゃくちゃ心配して一瞬心臓(無い)が止まったかと思った(妄想)。


〝先にお茶をどうぞ。イツキさんも〟


 二人の前に果物の香りがする紅茶が出され、二人して口にしてほっと息をつく。

 カチャカチャと戸棚から皿が二つ出され、温めていたフライパンに生地が流し込まれてジュッと焼ける音がした。すぐに小麦の生地が焼けるいい匂いがしてきて、手早く折りたたまれたクレープのような生地が皿に乗せられ、二枚ずつほどそれが繰り返された後にジャムのようなものと何かのお酒がフライパンに入れられて、酒精を飛ばす様に掻き混ぜられたらオレンジのような香りが広がってきた。


 シルキーの手早い作業を見ているだけで、あぁ帰ってこれたんだなぁとじんわり精神を癒されるリカルド。

 お待たせしましたと目の前に出て来たシュゼットのようなそれにお礼を言って口にして、これですわーと目元を押さえて染み入るリカルド。

 しばらくそのまま固まっていたリカルドだが、視線に気づいて手をどければ樹が心配そうに見ていたのでちょっと恥ずかしくなった。


「大丈夫だよ。美味しくて感動してただけだから」

「感動……」

「一週間以上龍の腹の中にいた後にこれだよ? 感動以外の何物でもないよ」

「……はら? 腹!?」


 一度呟いてから気づいた樹はフォークを叩きつけるようにテーブルに置いた。


「どういう事です? 口の中に隠れてるって言ったじゃないですか、食べられたって事ですか?」


 樹の勢いにちょっと驚くリカルドだが、本当に食べられたわけでもない(龍に食べるという意志が無いという意味で)ので首を横に振った。


「いや、あいつ生まれたばっかりでその辺の匙加減が全然わかってなくて、口の中だとブレスが吐けないって飲み込まれたんだよ。まあ結界張ってたから何ともないんだけど」

「何とも無いって……一週間も腹の中って……」

「俺空間魔法持ってるからね。物資が持ち込めるから持久戦は強いよ」


 物資が無くても全然平気なのだが、樹が心配している事も理解出来たのでそう言って笑って見せるリカルド。


「そういう問題じゃ……」


 いやでも、リカルドさんならそのぐらいは平気なのか?とどの程度が普通の事なのかがわからなくなっていく樹。

 首を捻っている樹の横で味わうようにじっくりしっかり頂いたリカルドは、早々にやる事をやっていこうと回復した気力で懐から通信の魔道具を取り出した。

 恐怖のラドバウト連絡である。


「………シルキー、晩御飯の希望言ってもいい?」

〝もちろんどうぞ〟

「前に樹くんと鶏肉にパン粉付けて油で揚げてくれたのあるでしょ? あれが食べたいんだけど、出来る?」

〝大丈夫ですよ。出来ます〟


 しばし魔道具を見つめた後に、ダメージを回復させる料理手段をあらかじめ確保しておこうと考えたリカルド。こすい奴である。


 ふうと息を吐いて気持ちを落ち着けて、魔道具のボタンを押す。

 数秒の振動の後に繋がり――


『リカルドか?』

「はい。リカルドです。今回はいろいろ申し訳ありませんでした。仕組んだわけでは全くないのですが、偶然に偶然が重なってああいう事になってしまって、誠に申し訳ありませんでした」


 即行で真面目に謝るリカルド。魔道具に向かって頭を下げる姿は電話片手に頭を下げる日本人そのままだ。


『……直接話そう』


 ブツリ。と魔道具が切れた。

 頭を下げていたリカルドは、内心冷や汗を流した。声が低かった。間違いなくコレ怒ってらっしゃいますよね?と。

 何しろ今回ラドバウトには迷惑しか掛けていない。

 まず第一に、ラドバウトはデルク王国からの依頼を受けていたのだが、その調査依頼を龍によって捕獲され、リカルドが作ったストーリーのせいで反故にした事になっているのだ(リサからの頼みで龍を案内する事を優先させたと思われている)。しかもパーティーメンバーはラドバウトという前衛を一人失った状態で森の奥深くに置き去り状態。無事に帰還していたが、仲間を危険に晒したのはやばい。

 そして第二に、リカルドが作ったストーリーのせいで悲恋の主人公に祭り上げられているという状況。今まで恋人がいた事も無いのに、勝手に大恋愛の物語が作られてしかもラストはバッドエンド。もう女には興味を示さないんじゃないかとか勝手な事を言われている。今後、いいなと思う女性が現れてもその物語が大いに邪魔をする事は請け合いである。

 あとは結果的に樹のフォローを任せてしまったりだとか、そんな感じだ。


「リカルドさん?」


 頭を上げないリカルドを訝しんで樹が声を掛け、のっそりとリカルドは頭を上げた。


「……そういえば樹くん、ハインツに怒られた? 勝手に名前使ったって」

「いえ。どうせリカルドさんが思いついたんだろって言って、そのまま自分の弟子の一人で預かってる奴だから素性は言えないって押し通してくれました。教会の方もリサさんの従弟だと言ったらすごく協力してくれて」


 特に怒られる事もなかったですと答えた樹に、あぁ……ハインツの矛先もこっちに向かってる気が……とリカルド。虚空検索アカシックレコードで調べればすぐにハッキリするのだが怖くて出来ないチキンな死霊魔導士リッチである。


 などとうじうじしていたら二階から誰かが降りてくる気配がして、リカルドはハタと我に返った。

 ハインツにはこの家との行き来が出来る札を渡していたのでたとえヒルデリアだろうとどこだろうと一瞬にして来る事が出来る。

 そうだった!と思い出したリカルドは思わず立ち上がり、だけど逃げるわけにもいかないのでそのまま固まり、そしてキッチンに入って来たラドバウトと視線があって、思わず微笑みを浮かべようとして失敗して引き攣った顔を晒していた。

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