第16話 気分転換の後、動揺
翌朝、まだ日が出る前に起きてきた樹と丁度仕事を終えてお茶で一服していたリカルドは、並んで朝市へと連れ立った。
樹は恐怖心が拭えないながらも初めて落ち着いて見る事が出来る異世界の街並みに好奇心を刺激され、キョロキョロと人込みの中視線を動かしていた。
「手前に玉子を売ってるとこがあって、その続きで野菜とか売ってるとこを眺めて肉屋に行って、あとは乳製品売ってるとことか偶に花を見たりってのがいつものコースなんだ」
と説明しながら、一番最初に辿り着く玉子を売っている軒でおばちゃんから六つ玉子をもらうリカルド。
「連れかい? 子供にしちゃあちょっと大きいようだけど」
「あはは、子供だとしたら何歳の時の子ですか。彼は知人の子でこっちに出てくるって聞いて部屋を貸してるんですよ。偶にお使いでくる事もあると思うのでお願いしますね」
「よ、よろしくお願いします」
緊張気味にぺこりと頭を下げる樹に、卵屋のおばちゃんは顔に笑い皺を刻んで「はいよ、可愛い子だね」と頷いた。
じゃ次行こうとリカルドに促されて、樹はおばちゃんに会釈をして後を追った。
「緊張した?」
「す、少し」
こくこく頷く樹に、リカルドは笑って背を叩いた。
「大丈夫。樹くんは丁寧だから不快に思われる事はないよ。むしろあれだね、こっちの人の方が雑なところがあったりするから、気にしない事だね」
再びこくこく頷く樹に、大丈夫大丈夫と言って次々野菜を買って籠に放り込み、ついでに樹を店の人に紹介していくリカルド。
肉屋まで行って、最後の方には気疲れでちょっとぐったりしていた樹だったが、屋台で売っていた小麦粉を練って焼いた丸い菓子を串に突き刺したものをリカルドに差し出され、広場のようなところで二人でベンチに座って食べた。
「お疲れ様。初めてのところって緊張するよねぇ」
「は、はい……でも、楽しかったです」
パクリと菓子にかぶりついた樹は、じゅわっと中から染み出た強烈な甘さにびっくりして固まった。
予想通りの反応に笑いを堪えるリカルド。
「り、りひゃるほさん……」
「ごめんごめん、噛めばちゃんと美味しいから」
リカルドの言う通り、咀嚼を再開すると生地とまざりあって不思議と果実のようなさっぱりした甘味に変わり目を丸くする樹。
「……美味しい」
「でしょ? 不思議だよねぇ。最初のインパクトがすごいから固まるけど、食べれば美味しいんだよ。俺もびっくりした」
むぐむぐ食べながら樹はそうなんだと頷く。
「まぁこんな感じで買い食いしながら慣れていったらいいと思うよ」
(樹くんにとっては不本意だろうけど、長丁場になる事は避けられないし……息抜きの方法も見つけないとねぇ……)
肩の力を抜いてくれたらいいんだけどとリカルドも丸い焼き菓子に齧り付く。
はい。と、素直に返事をしてお菓子を食べる樹をリカルドは黙って見守った。
「……あれ、何でしょう」
無言で食べていると広場の入り口付近に人の塊が近づくのが見えて首を傾げる樹。
「うん?」
リカルドも気づいてそちらに目をやり、白と青の服にあぁと納得する。
「あれは教会騎士だね。たぶん慈善活動をしている聖女かその見習いの護衛じゃないかな」
「聖女……はー……そっか、勇者がいるなら聖女もいるのか」
樹の呟きに、確かにと思うリカルド。勇者と聖女はセットで扱われる事が多いよなと物々しい一団を眺めながら思う。
「慈善活動って何をしているんです?」
「確か無償で怪我とか病気を治してるんだったと思うよ。あぁそうか、もうじき人が溢れるからこの場を離れた方がいいね」
以前市場で聞きかじった話をしながら気が付いて、急いで口の中に焼き菓子を入れるリカルド。
「治療をしてもらいたい人が来るって事ですか?」
「そ。持ち回りで聖女とかその見習いが担当してるんだけど来る人によって集まり具合が違うとかって話もあるね。今日がどうかわからないけど退散した方が良さそうだ」
「あ、はい」
慌てて樹も焼き菓子を口に入れてもぐもぐと咀嚼した。咀嚼しながら、あれ?と思う樹。
「聖女って一人じゃないんですか」
もごもごしながら尋ねる樹に、リカルドはうんうんと頷く。
日本人としては聖女がそう何人もいるという感覚はないので樹の戸惑いはよくわかるのだった。
「聖魔法をある程度のレベルで扱える女性を聖女って言うんだよ」
「男性の場合はどうするんです?」
「その場合も聖女って呼ばれるんだって」
「え」
肉屋の奥さんにその話を聞いた時の自分と同じ反応をする樹にリカルドは笑った。
「人の場合、女性の方が適正がある場合が多くてほとんど女性なんだってさ。男性も扱えるらしいんだけど、その場合も聖女って呼ばれるらしいよ。ただ役職持ちの場合はそちらの役職名で呼ばれる事の方が多いから実際に男性に向かって聖女様と呼ぶ機会はほとんどないみたいだけど」
「なるほど……」
不意にリカルドは視線を感じて教会騎士の集団に目を向けた。
(って、あの子じゃん)
教会騎士に囲まれて警護されている聖女はクシュナだった。
白の質素なローブを身に纏い浅葱色の髪を一つに括った装飾など二の次の姿だが、生来の可愛らしさが損なわれる事なく内側から溢れる若さでキラキラしているようにリカルドには見えた。
かなり距離があるがこちらを見ていると感じたリカルドは立ち上がり背を向けた。
「じゃあ行こうか」
焼き菓子を食べきっている樹に気づかれないようさりげなく促して広場を後にする。
リカルドとしては教会騎士など他の目があるところで声を掛けられるのは避けたかった。純粋に目立つというのもあるし、樹の存在を下手に人目に付かせたくも無いという考えからだ。
幸い呼び止められるという事もなく、無事に家へと戻るといつものようにシルキーに出迎えられてリカルドはほっとした。それからちょっと自意識過剰だったかと己に苦笑したが、実際はクシャナが聖女見習いとして騎士に囲まれる自分をリカルドに見られたくないと無意識に思っていたからだ。奥さんがいるとわかって自然と消えた気持ちがもう一度その姿を見た事で蘇りつつあることに自覚はなかった。
クシュナの無意識の感情などリカルドが察知出来るわけもなく、そこからまたいつものように樹の訓練に付き合い夜は雨を降らせて、ちょっと楽しみにしている日がやってきた。
そう。リカルドにとってはこの世界での初めての飲みなのだ。
さすがに酒に酔うという事は出来ないだろうが、それでも雰囲気を楽しめたらいいなぁと就業後に足取り軽く飲みに行くサラリーマンのようにいそいそとギルドに出かけるリカルド。
飲んでみて悪い奴でなければ本物の冒険者のラドバウトを樹くんと引き合わせてみるのもいいかもなと考えつつ、いつものラフな町民姿でギルドに入る。と、なんだかザワザワしていた。
ちなみに鐘六つとは大体午後五時ぐらいの時間帯だ。正午の鐘を一つとしてそこから約一時間ごとに鐘の音が一つずつ増えていくので、鐘六つ。
夕方の時間帯なのでギルドに報告に来ている冒険者が多いのかなと壁際の待合スペースのようなところに移動しようとしたら、死霊屋敷の依頼で報酬を渡してくれた職員がリカルドに気づき急いだ様子で近づいてきた。
「あの、少し宜しいでしょうか」
「宜しくありません」
ここは日本とは違うと、立派に順応して否を言えるようになったリカルドが即答すると一瞬怯む職員。だがすぐに声を潜めて言った。
「ラドバウト様の事で少し」
赤髪大男の、今まさに待ち合わせをしている相手の名前を出されて離れようとしていたリカルドは動きを止めた。
「申し訳ありません。先日お二人が約束されているのを耳にしておりました。
実はラドバウト様がまだ依頼から戻られず……その事でお話しが」
続けられた言葉にリカルドは時を止めた。
何を言われるのかわからないがあまりギルドを信用していないため、面倒ごとに巻き込まれたくないと思っての行動だった。だが、
岩肌の見える洞窟内、広さはちょっとした聖堂程度ありそうなそこは、元々は上品な調度品で整えられていたと思われる空間が広がっていた。
何故過去形かといえば、今まさに戦闘行為によって破壊されつつあったからだ。
黒く艶のある腰まで伸びた髪を持つ妖艶な美女は、冷笑を浮かべてラドバウトの首筋に伸びた爪をピタリと当てており、当てられた方のラドバウトは闇魔法で四肢を拘束されてもなお戦意を失わず睨み返している。
「……思わず来ちゃったけど」
多分敵対してるんだよな?と、時が止まった中二人を見ながら考えるリカルド。
ラドバウトの方はあの厳つい装備が半ば以上壊れボロボロだったので血に弱いリカルドは薄目で見ていたのに対して、無傷の美女の方は豊満な谷間まで見える露出が激しい衣装だったのでしっかりばっちり観察しているのはご愛嬌。
「えーと? こっちの美女は……ヴァンパイア? しかも真祖じゃないか。なんでこんな人間領の中にまでやってきてるんだよ……食料調達か?」
さくさく
「また俺のせいかよ……」
この真祖のヴァンパイア、名をカーラと言いヴァンパイアの中でも至高の存在と呼ばれている始祖の右腕だった。ちなみに始祖は一番最初にヴァンパイアになった存在の事で全てのヴァンパイアの頂点に立つ。真祖はその始祖から直接血を受けたヴァンパイアで、その辺に転がっているヴァンパイアは大体この真祖が眷属化(ヴァンパイア化)したヴァンパイアが人間の血を啜って眷属化したものだ。
ヴァンパイアは下位であれば頻繁に血を吸う必要があるため人間領内に潜んでいる者も多いのだが、上位の存在ともなるとそこまで血を必要としておらず、気に入った人間を魔族領の自分のテリトリーで飼って気が向いたら遊ぶという事をしている。
では何故、最上位に近いこの真祖が人間領に入り込んでいるのかというと、とあるヴァンパイアを探していたからだった。そのヴァンパイアが、リカルドが人間の少女にしたあのヴァンパイアロードだったのだ。
「……生体操作で支配が切れるとか……知らんかった」
この世界のヴァンパイアはある意味全て始祖から力を与えられた者たちで、それら全てが始祖に服従するよう支配の楔が打ち込まれている。その筈なのだが、それがリカルドが施した生体操作によって消滅していたのだ。
普通なら死んだ時に支配のラインが萎んで消えるところ、ラインがバチンと叩き切られた感覚に始祖は違和感を覚えた。しかも、そのラインがどうでもいい下っ端ならまだしも、一応ロードの階級(真祖が眷属化したヴァンパイア)に位置していたため人間領内に詳しいカーラに調査を命じたのが事のあらましだった。
ちなみにカーラは捜索優先でほとんど人間に被害は出していなかった。ただそれでも十数名の幼児から十代後半までの男女を地下の空間に捕まえており、いずれ魔族領に持ち帰られる予定ではあったが。
「腹立ち紛れにやった事がこんなことになるとは……」
とりあえず地下の方にいる捕まった子供達をそれぞれ調べて親元へと帰す。
全員戻したところで今度は目の前のラドバウトを転移で闇魔法から逃し、辺りを見回すリカルド。
「うわぁ……こっちの人ヴァンパイア化しかかってる……」
ラドバウトの仲間と思われる剣士風の赤髪の男が、だいぶ若そうに見えるこちらも剣士風の蜜柑色の髪の男に取り押さえられていた。
赤髪の方がヴァンパイア化しかかっており既に理性を失っているのか目が逝っている。蜜柑頭の若者が目に涙を溜めて何かを叫んでいる顔をしているが、赤髪男に届いている風ではなかった。
さらに視線を巡らせば、壁際には少女が二人倒れておりその前を塞ぐように魔導士風の綺麗な顔をした菫色の髪の少女がいた。
「……ちょうど気に入った人間を攫ってきたところで出くわしたのか……で、あの子が守ってるんだろうけど……」
もう一度ぐるりと見回してはぁーとため息をつくリカルド。
「どう考えても勝ち目無いよなぁ」
という事は、自分が介入しないとラドバウトは死ぬという未来が待っている。
せっかく飲み仲間になりそうな相手なのだ。ここで死んでいただきたくはないし、そもそもこのカーラというヴァンパイアがやってきたのは自分のやった事が原因だ。どうにかしないと寝覚めが悪いどころじゃないとリカルドは腕を組んで考えた。
「だけど単純にこいつをやってしまうとますますこちら側に部下を送り込むだろうし……」
あ〜〜と言いながら虚空検索で対処を探すリカルド。これはダメでこれもダメでこれなら……ダメか、といろいろと思いつく方法を確かめていくのだがどうにも始祖が諦めてくれない。よっぽど支配を切られたのが衝撃だったのだろうなぁと思うリカルド。
いっそ始祖を潰すか?と、実にリッチらしい殺伐とした思考が過るが頭を振って追い払う。そこまでしてしまってはまた魔族領内で争いが起きてその余波が人間領にも及びそうだと思った。事実、始祖を消滅させた場合魔族領内のパワーバランスが崩れ、さらには誰がやったのかと大騒ぎになる。
自分が動いた事で起きる事象の全てに責任を持つつもりは無いが、それでも大事が起きると分かっていてやるほどの気概はリカルドには無い。基本的には小心者の小物なのだ。
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