第5話 急転




 風邪は一週間も経つと影も形もなくなった。

 治るまで真歩まほさんはずっと気にかけてくれたけれど、私はあの時の去り際の言葉が頭の中で渦巻いていた。

 本人に直接確認する勇気も出ない。

 あの思いやりがあって、誰にでも親切な真歩さんが下心を持って接してるなんて思えない。

 逆に真歩さんに恋する私の方が下心だらけだ。

(私のことが好きとか⋯⋯? そんなことありえる?)

 考えても考えても分からなくなる。

(私が深く考えすぎなのかな。あれはただの教訓みたいなもので)

 真歩さんが特別な存在すぎて、私は何でも自分のいいように解釈したくなっているに違いない。

 私は彼女の特別になれるほど、秀でたものなんてないのだから。

 六月も終わろうとしている時のことだった。

 受付にいると、外仕事に出かける社員たちが目に入る。

 その中に事業部の斎藤さいとう部長がいた。

 ワイルド系の見た目で顔立ちも整っていて、女子社員たちからは人気がある。イケオジというやつだろうか。

 女しか興味のない私は、あまり関心がなかったけれど。

 しかし先輩はこの斎藤部長がお気に入りのようだった。

「やっぱり斎藤部長渋くてかっこいいよね。三留みとめさんもそう思わない?」

「そうですねー。でも私はもっと線の細い人が好きかな」

「三留さんはワイルド系はタイプじゃない感じ?」

「まぁ、そうですね」

 私はライバルじゃないということをアピールしておく。

「そう言えば三留さんは最近五十嵐いがらしさんとすごく仲良いけど、五十嵐さん経由で斎藤部長の事何か聞いてない?」

 先輩はひそめていた声を更にひそめて言う。

「いえ、特には。何でですか?」

「そっか。じゃあ、あれ噂なのかな」

「噂?」

「私も他の人から聞いたんだけど、斎藤部長と五十嵐さんって付き合ってるらしいんだよね。二人で飲んでるのを見たって最近聞いてさ。部長は数年前に離婚して独身だし、五十嵐さんも仕事一筋で独身らしいし。美男美女でお似合いだとは思うけど。ただの噂だから本当に付き合ってるかは分からないけどね。噂ならいいんだけどなー」

「へぇ、そんな噂が」

「相手が五十嵐さんじゃ、若さ意外で勝てないし。ライバルなら強敵すぎるでしょ。そこまで部長に本気ってわけじゃないけどさ⋯⋯」

 途中から先輩の話は頭に入って来なかった。

(真歩さんと部長が付き合ってる、かもしれない)

 だとしたら、私など出る幕はない。

 相手が誰であろうと、私など端から恋愛対象になんてならないと分かっていた。

 それでも、胸が締め付けられる。

 もし事実なら、先輩が言うとおり二人はお似合いだと思う。並んでいたらとても絵になるし、仮に交際していたらみんなから祝福されるだろう。

(真歩さんとは今以上の関係にはなれない)

 その事実がもやもやとなって私の中に積もってゆく。

 

 

 ここの所、お昼は真歩さんと食べるのが暗黙のルールのようになっていた。

 今日は何だか顔を合わせたくなかったけれど、突然避けるのもおかしい。

 私は食堂の窓際の席で真歩さんと向かい合っていた。

「しいちゃん、何か元気ないね。また体調悪くなっちゃった?」

「いえ、そんなことないですよ。なかなか晴れないから、早く梅雨明けないかなって」

「毎日曇ってるか、雨だもんね」

 梅雨はあと一ヶ月もしないうちに明けるだろうけれど、私の梅雨は急にやって来て当分明けなさそうだ。

「本当に梅雨だけ? しいちゃんが元気ないと心配になる。もし何か悩んでるなら相談してね。力になれるかは分からないけれど」

「真歩さん、斎藤部長と付き合ってるんですか?」と聞けたらすっきりするかもしれない。しかし、こんな場所で聞くことではない。

「真歩さんが相談に乗ってくれたら、すごく心強いですよ! でも今は大丈夫です!」

 私は笑顔を作ってやり過ごした。

 真歩さんはまだ納得していなさそうな顔をしていたけれど、私は見ないふりをした。

 結局、私のもやもやが晴れることなく増したせいで、お昼以外は真歩さんを避けるようになってしまった。

 どうしても噂が気になってしまう。

 もし本当なら、少しずつ離れなければ。

 じゃないと私はきっと諦められなくなる。

 今だって諦めたくはないけれど、傷が深くなる前に去らないといけない。

 後戻り出来なくなる前に何とかしなければ。

 ついにお昼さえも私は避けるようになっていた。

 真歩さんは気を遣ってか、関心がなくなったのか特に何も言っては来なかった。

(これで、いい。これでいいんだ) 

 そうして距離が開き始めた頃、私は一人であの飲み屋に向かっていた。

 一人で行くのは久しぶりだった。

 いつも座っている席で、ちびちびとお酒を飲む。酔いどれたい気分なのに、いまいちお酒は進まない。

詩織しおりさん、何かあった?」

 そんな私を気にしてか、女将さんに声をかけられる。

「うーん、ちょっと」

「仕事のこと?」

「いえ。そっちじゃなくて⋯⋯。まぁ、失恋したというか」

「そうだったの。気づかなくてごめんね。それは辛いわね」

「少し堪えてるかもしれないです」

「何か話したくなったら話して。聞くからさ」

「ありがとうございます」

 誰かに思いっきり話せたら楽だけれど、相手が相手だけにそうもいかない。

(忘れよう。全部。元通りになればいいだけ)

 食欲も薄れているので、軽く飲んで食べたらもういっぱいになってしまった。

 私は早めに切り上げて、お会計を済ます。

 レジでお釣りをもらっていると、新しくお客さんがやって来た。その客の顔を見て驚く。

(斎藤部長!?)

 そこには真歩さんと付き合ってるかもしれない、あの部長がいた。

 後から続いて人が入ってくる。

 私がよく見慣れた人の姿が目に止まる。

「あれ、しいちゃん!」

 真歩さんが目を丸くして私を見ていた。

(部長と真歩さんが一緒に来た⋯⋯?)

 二人並んでいるのを見ると、あの噂もあながち嘘というわけではないようだった。

「失礼しますっ」

 私は慌てて店を出た。走って通りに向かって行く。

(終わった、全部終わった)

 自然と私の目からは涙がこぼれていた。

「⋯⋯いやだ、いやだよ」

 私は真歩さんが好きだった。

「いやだ⋯⋯」

 近づけば近づくほど、惹かれていった。

 優しくされるたびに、私の心は幸せが増えた。

「⋯⋯⋯⋯いやだ」

 頑張ったらあの人に届くんじゃないかと夢を見た。手だって繋げたのに。

 だけど、夢は夢だった。

 何でそんなことも分からなかったんだろう。

 真歩さんが優しかったから、それに期待をしたかった。

 私は夢を見すぎて期待してしまった。

 一心不乱に走っていたら、私は躓いて転びそうになり、よろめいて地面に手をつく。

「しいちゃん!!」

 立ちあがると、後ろからの思わぬ声に振り返る。

「⋯⋯しいちゃん」

 肩で息をしながら、真歩さんが私を見つめている。

「真歩さん⋯⋯、何で」

「何か、しいちゃんの様子が⋯⋯、おかしかった⋯⋯、から。お店出た途端に走って行っちゃうから、思わず追いかけて来ちゃったよ。どうしたの、泣いてる? 何かあった? 具合悪い?」

 相変わらず優しい真歩さんに、私は涙が止まらなくなった。

「しいちゃん、本当に大丈夫? どうしよう⋯⋯。歩ける? えーっと、どうすればいいんだろう。救急車とか呼んだ方がいいかな」

 初めて慌てている真歩さんを見てしまった。

 救急車の必要はないのだから呼ばれても困る。

「真歩さん⋯⋯、大丈夫です。大丈夫、ですから。ちょっと、感傷的になってるだけで」

「えっ、あっ、そっか。そうなんだね。何か病気とかじゃないなら、良かった」

 安堵した様子に、何だか胸が痛む。

「⋯⋯⋯真歩さんって、本当に優しいですよね」

「どうかな。普通じゃないかな」

「優しいですよ、本当に」

「私は、根っから優しい人間でもないけどね」

「⋯⋯下心があるってやつですか?」

 あの時の真歩さんが言ったことを思い出す。

「まぁね。でもそんなに深く考えないで」

「意味深なこと言われて、そういうわけにもいかないですけど」

「色々、考えてくれたんだ。しいちゃんは」

「それは、そうですね。多少は。感傷的になるくらいには」

 今の私の気持ちを良くも悪くも変えるのは真歩さんだけ。目の前のこの人だけ。

「私がしいちゃんを泣かせたってこと? しいちゃんが最近私のことを避けていたのもそのせい?」

「⋯⋯そうです。どうしてでしょうね」

 私は真歩さんの瞳を真っ直ぐ見つめる。

 届いて欲しいから。私の気持ちが。 

「私は少なくともしいちゃんを泣かせたいなんて微塵も思ってないけど、泣かせるようなことをしてたってことだよね」

「真歩さんは何も悪くないですけどね」

「私は悪くないんだね。なら自惚れてもいいのかな」

 艶やかな微笑みを向けられて、心臓がどきどきと鼓動を速める。それは、背筋がぞくぞくするほどに美しくて、私は目を奪われた。

「しいちゃん」

 真歩さんは私の腕をそっと掴むと、引き寄せて私を優しく抱きしめた。

「私なんかにこんなことされたら嫌かな。嫌だったら思いっきり振り払っていいよ。突き放して。殴ってもいいから」

 初めて感じた、好きな人の腕の中。

 これで抵抗できるほど、私は強くない。

「そんなこと、できません。したくないです。だって、嬉しいから」

 私は腕を伸ばして真歩さんにしっかりと抱きついた。大好きな人に。

 どうして今こうなってるのか、よく分からない。だけど、これは私が夢見ていたこと。たとえ後で覚めるとしても、今はこうしていたい。

「真歩さん、私ずっとあなたに伝えたいことがあったんです。聞いてくれますか?」

「もちろん。しいちゃんの話なら何だって」

「私、真歩さんが好きです。真歩さんのことが大好きです」

「しいちゃん⋯⋯。私も、同じ気持ちだよ。私もしいちゃんが大好き」

 真歩さんに強く抱きしめられて、私は嬉しくて泣いてしまった。    

      

 

 翌日の夜。

 仕事を終えた私たちは真歩さんの部屋に来ていた。

 モノトーンで揃えられた部屋は落ち着きがあって、シンプルで絵になる。

「真歩さんの部屋かっこいいですね」

「そう? ありがとう。でも今のしいちゃんは、狼の巣にいるようなものだから、気をつけなよ」

 いじわるく真歩さんが笑う。

「そうなんですか? 私はここがどこでも構わないですけどね。大好きな人の家ってことは確かなので」

 私たちはリビングのソファに並んで座る。

「しいちゃん、手を繋いでもいい?」

「はい!」

 あの夜景を見た時のように手を繋いだ。

 真歩さんの柔らかくて少し冷たい手が心地いい。

「私たち付き合うってことでいいんだよね?」

「私はそのつもりですよ、真歩さん」

「あぁ〜。良かった。避けられた時はしいちゃんに、嫌われたのかと思ったから」

「そんな風に思ってたんですか? ごめんなさい。てっきり斎藤部長と付き合ってるのかと思って、それで」

「昨日も言ったけど、彼とは何でもないから」

 あの後、聞いたところによると真歩さんと部長は同期で、なおかつ同じ小学校だったらしい。部長が転校して疎遠になっていたけど、入社した時に再会したのだとか。

 それ以来、たまに仕事のことを相談したりされたりする仲らしい。

 私が風邪を引いて家にこもっていた時に、久しぶりに二人で飲んだのだとか。

 それを誰かに見られて、先輩から聞いた噂に繋がったようだ。

「私が好きなのはしいちゃんだけだから。でも、私みたいなおばさんで本当にいい? 後悔しない? しいちゃんならこれからもっと素敵な人と出会えるだろうし⋯⋯」

「何言ってるんですか。私は真歩さんがいいんです。真歩さんでいいんです。他の選択肢はありません」

「しいちゃん、本当に可愛いな〜」

 真歩さんはにっこにっこしている。

(私がこの表情をさせてるんだよね)

 その事実に顔の締まりがなくなりそうになる。

「真歩さん、改めてよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくね」

 叶わないと思っていた恋だけど、今私の手の中には好きな人の手があって、お互い同じ気持ちでいる。

 これから私たちがゆく道のりは平坦なのか、でこぼこなのか分からない。

 もしかしたらとても険しい道かもしれない。

 それでも私は真歩さんと進んで行きたい。

 二人で幸せになるために。  

           

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夢のような時間が恋に変わるまで 砂鳥はと子 @sunadori_hatoko

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