『残虐王』スカーレット⑥

「……くそ!」

 本物のスカーレットは、目の前に立ちふさがる巨大な鏡に拳をぶつける。しかし、鏡はヒビが入るどころかびくともしない。鏡面には、真っ赤に染まった浴槽が映っている。

「ペルー……。くそ……!」

 もう一度拳を叩きつける。彼の、くやしさと悲痛ひつうを合わせたような表情が鏡面に反射する。

 油断ゆだんした。痛みを与えて「あいつ」が一度引き下がっていったことで、もう出てこないだろうと決めつけていた。「あいつ」はそのすきを狙っていたのだ。完全に自分の落ち度だ。

 そして、キッチンで魔獣から渡されたあのさかずき。あれは『神の杯』のレプリカだ。中に注いだ液体を飲ませた人間の、内にひそむものを開放する力を持つ神器。

 まさかこの屋敷に一つあったとは。意識と体を奪われていた時、「あいつ」が手に入れ、この屋敷に隠していたのだろう。まったく気がつかなかった。

「……くそ‼」

 後悔と自責じせきを込めて、もう一度鏡を殴る。だが、鏡はびくともしない。後悔しても自分を責めても、過ぎてしまったことはどうにもできない。スカーレットはもう一度鏡を殴りつけた。

 彼がいるのは、あたりを黒いきりのようなものが覆う暗い空間である。そこにあるのは仕切りのように立つ巨大な鏡のみ。鏡は右を見ても左を見てもはしがなく、どこまでも伸びている。

 ここは彼……スカーレットの、意識の中である。本来ならば鏡の向こう側には、いつも体と意識を乗っ取ろうとしている偽物、アダムスが映っている。

「……おい、俺の体を返せ! 聞こえてるんだろ!」

 スカーレットは声を上げ、もう一度鏡に拳をぶつける。しかし何の声も返ってこない。スカーレットは舌打ちをする。

 こうして鏡を殴っていることも、この声も、「あいつ」は聞こえているはずだ。何の反応も返してこないのは、聞こえているのに完全に無視をしているからだ。

 ここにいる本物のスカーレットまだ、ペルドットの国で何があったかを知らない。ペルドットがアーガストの人間たちに“否定”されて『喜劇王』を落とされ、ただ『魔法が使えるだけの人間』になったことも知らない。そしてこの、なんでもありの『“魔法”の世界』で、何かが起き始めていることも知らない。

「答えろ! 俺の体を返せ!」

 スカーレットはもう一度叫ぶ。

『……うるさいな。そんなにわめかなくても聞こえているよ』

 すると自分の声と共に、目の前の鏡面に、ある映像が浮かび上がってきた。

 映ったのは自分が歩いている時の視点だった。周りに見えるのは屋敷の廊下。窓の外は、うっすらと明るくなり始めている。

 偽物は廊下を歩いているのだ。行く先には食事をする広間があることを、スカーレットはすぐに気づく。

『ああそうだ。君の服と下着を借りたよ。上着もシャツも、相変あいかわらずいいしなを着ているね』

 偽物の視界に自分の右腕が映る。言葉通り、偽物はシャツを着ていた。

『それと、地下室のワインを何本か貰ったよ。君はどうせ飲まないんだ。いいだろう?』

 視界に赤ワインを二本持つ、偽物の左手が映る。『撃滅王』アーバンクから貰ったが、度数が強すぎて半分も飲まず、そのまま地下室にしまっていた酒だ。

「……ペルドットはどうした」

 鏡面に映る偽物の視界を睨みつけながら、スカーレットは問いかける。その声には静かな怒りが混ざっている。

『君の同級生、ペルドット・アレイスキーの死体のことかい?』

「答えろ、ペルドットはどうした……!」

『彼は私の部下たちに任せたよ。デザートにしてくれと言ったから、今頃いまごろ下味したあじをつけている頃だろう。楽しみだね』

 と、偽物は言う。

『彼は君の許可なく死ぬことを許されない。なんとも可哀想な餌だ。もしかしたら、リンゴと一緒に焼いている途中、オーブンの中で生き返るかもしれないね。ふふ』

 と、偽物は楽しそうに言う。

 自分の声で恐ろしいことをさらりと言う偽物に、スカーレットは不快感ふかいかんをあらわにする。鏡面に映る、偽物の視界を睨みつける。

『さて、これから久しぶりの食事をするんだ。君には少し、大人おとなしくしておいてもらおう。静かにしてくれと言っても、君は聞かないだろうからね』

 足を止めた偽物の視界に、自分の右手が映る。偽物は右手の指の何本かを、左手で掴んだ。

 そしてすぐさま、掴んだ右手の指を思い切り外側にねじった。ぼき、という中の骨がねじれて折れる音が、鏡面を通してここまで聞こえてくる。

「がっ……!」

 痛みに声を上げたのは、本物のスカーレットだった。

 スカーレットは自分の右手を見る。鏡面に映る偽物の指と同じように、自分の右手の人差し指と中指が、うずまきのようにねじれて無残な形になっていた。

『これで二本。君はあとどれぐらい痛みを与えたら、大人しくしていてくれるかな?』

 偽物はスカーレットが自分の指を折って痛みを与えていた時と同じく、次々と他の指を掴んでは、ぼき、ぱき、と反対に向けていく。そのたびに、本物のスカーレットが痛みに声を上げる。

『ふむ……まだ意識があるのか。この程度ではダメか』

 鏡面に映る偽物の視界に、全部の指がねじれた右手が映り込む。それを見ている本物のスカーレットの右手も、同じように全ての指がねじれて折れている。

『では、こうしよう』

 偽物はワインボトルを窓際に置くと、左手で右手の手首を掴んだ。すぐさまふっと息を吐き、掴んだ右手の手首を思い切り内側に回した。

「…………‼」

 手首の骨がごきりと回転し、ねじ切れて折れたのを感じる。二度目に味わうその激痛に、スカーレットは思わずその場に膝をつく。

『ああ……痛いね。君はいつもこんな痛みを私に与えていたんだよ』

 鏡面から偽物の声が聞こえる。ねじれて折れた手首がズキズキと痛む。

「が、あ……」

 スカーレットは額から脂汗を垂らしながら、痛みにもだえる。折れた右の手首が、煙を上げて修復されていく。

『ここまでしても君はまだ引っ込んでくれないのか。では、もう一度』

 偽物は修復されていく右手首を掴み、もう一度一回転させた。治りかけた骨が、ぐり、と強制的に回され、形容けいようできない激痛が神経を伝って全身をおそう。声にならない絶叫を、なんとか口の中で噛み殺す。

「くそ、俺の体を、返せ……。俺の……」

 消え入りそうな声で鏡面に言葉を投げる。スカーレットは、自分の体が床に落ちるのを感じる。

『ようやく君の体と意識を乗っ取れたんだ。残りの私の魂の欠片がある場所は分かっている。私が完全にこの世界に出てこられるようになったら……この体は返してあげよう。そこまで行ったら、君の体なんて、私にはもう必要のない物だからね……』

 鏡面から聞こえる偽物の声が遠くなる。折られた手首の痛みで、だんだんと意識が薄れていくのを感じる。

『おやすみ。そのまま眠っていてくれよ。気が向いたら……君の話は聞いてあげよう』

 偽物は窓際に置いていた酒のボトルを手に取り、また廊下を歩き始める。

「くそ……」

 鏡面に映る偽物の視界を睨みつけながら、スカーレットは最後にそう言葉を漏らす。そのまま、暗い空間で彼は意識を失った。

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