【『赤の女王』レッド・クイーン】
『赤の女王』レッド・クイーン
場所は変わり、現実世界の隣に位置する「おとぎ話」の世界。赤く染まる城の中では。
背もたれが大きなハートの形になった椅子に座っている人物が、開け放たれた大きな窓から、真っ赤な
「ねえアリスぅ。今日もこの国は平和ねぇ」
と、妙に語尾を伸ばしただらしない口調で、椅子に座る人物が言った。
「そ、そうですね……女王様」
そう返したのは、椅子の前で四つん
少女の小さな背中には、
少女の背中に足を置いているのは、椅子に座って庭園を見下ろしている人物である。
「平和なのは、退屈ねぇ。アリス」
と、足を乗せている人物がまた言った。
二人がいる部屋は床も壁も、椅子も家具も真っ赤に染められている。
ここは『赤の女王』が統べるおとぎ話の世界。『不思議の国』ワンダーランドの城の中。女王の玉座である。
「……あらぁ。また、あのバカウサギが走り回ってるわぁ」
女王は紅茶が入ったカップを片手に、
「そ、そうですね……。女王様……」
少女……アリスは
女王の視線の先には……
よく見ると庭園の中には、そのウサギの他にも生き物たちがいる。
のそのそと這いずって移動している巨大な芋虫。茂みの影で寝転がる巨大なチェシャ猫。薔薇に水をやっているトランプ兵。見るからにここが現実世界とは少し違う場所だということを、その光景だけで語っていた。
「……あら。あそこの薔薇、元気がないわねぇ。手前から三番目、右から四つ目のやつ。庭師がサボったのかしらぁ。ダメねぇ。あそこの担当、誰かしらぁ」
女王が独り言のように言うと、
「は。本日、あの場所に水をやったのはわたくしです、女王様」
と、庭師の格好をしたトランプ兵が音もなく現れた。その体に書かれているのはハートの3だ。
「あれ。元気ないわよぉ」
「……は、」
女王が元気のない薔薇を指さすと、庭師の顔がたちまち青ざめた。
「……も、申し訳ございません! た、ただちに水をやってまいりますので! お許しを、お許しを! 女王様!」
「バカねぇ。水をやりすぎたのよ。アンタ、ダメね。もういいわ」
と、女王が言い放つ。
「お、お許しを女王様! お許しを、お許しを――‼」
女王が、パチンと指を鳴らした。すると庭師のトランプ兵は、どろりと溶けるようにしてその場に落ちた。女王によって、存在ごとこの「おとぎの世界」から消し去られたのである。溶けて広がった残骸も、床に吸い込まれるようにして跡形もなく消えていった。
「……使えないバカねぇ」
言いながら女王は右手の人差し指を枯れかけた薔薇に向けると、横に動かした。すると弱っていた薔薇はたちまち元気を取り戻し、真っ赤な
「女王様。二杯目の紅茶が入りましたよ」
「ん。ありがと」
「……」
美しい唇をカップのふちから離した女王は、ぽつりと言葉を漏らした。
「……なぁに、これ。
その一言に、給仕係の顔が青ざめて凍り付く。
「
クイーンはカップを傾け、中身を床に垂れ流した。女王の機嫌を損ねてしまった給仕係は、ひ、ひ、とひたすら青い顔で
「じょ、女王様、申し訳ありません! き、気温が変わったので、それに合わせて二杯目をお出ししようと……!」
「じゃあ、どうしてそれを一杯目からしないのぉ? アンタもしかして、このアタシを馬鹿にしてるわけぇ? 紅茶の味を変えても分からない奴だって」
「そ、そんなつもりはっ! そんなつもりは
「……はぁ。がっかりよ。もういいわ、消えなさい」
「じょ、女王様! お許しを、お許しを――‼」
パチン、とクイーンが指を鳴らす。その音と共に、ティーポットの給仕係はどろりと溶けるようにしてその場に崩れる。
「給仕係」
もう一度指を鳴らす。すると先程の溶けた給仕係の残骸から、同じティーポットの形をした給仕係が生み出された。
クイーンは左腕を伸ばして手に持っているカップを向けると、新しく生み出した給仕係に言う。
「新しい紅茶よ。砂糖をたっぷりとね」
「はい。ただいま」
二体目の給仕係はニコニコしながらカップを受け取ると、慣れた手つき紅茶を
「お待たせいたしました。お砂糖は六つでございます。お熱いのでお気をつけください」
お盆に乗ったカップを受け取る。すぐさま、もはや紅茶の香りが消えた液体を赤い唇に近づける。
一口飲んだクイーンは、ひとことだけこう言った。
「……まあまあじゃない」
「ありがとうございます」
女王に褒められ、新しく生み出された給仕係は腰を折る。
クイーンは近くのテーブルにカップを置き、ケーキスタンドの一番下の段にあるマカロンを一つ取って口に運ぶ。スタンドの一番上の段には一口サイズに切り分けられたケーキが置かれ、二段目にはスコーン、一番下の段には
「……」
と、女王は足置きにしているアリスを見つめた。
「……アリス。アンタ、
「え?」
クイーンは、アリスの背中から足をどける。それから、手を二回叩く。
「風呂よ。大浴場に連れて行きなさい。アタシの服を適当に着せて。隅から隅まで綺麗にするのよ」
クイーンが言うと何もない場所から煙と共に、世話係の格好をした
「かしこまりました。女王様」
「ささ、アリスさま。こちらへ」
女性の一人がアリスを立たせ、部屋の外へと
「……あ、ありがとうございます、女王様……」
「ふん。さっさと行きなさい。ボロボロで汚い足置きになんか、アタシは足を乗っけたくないのよ」
「フ、フ、フ。お優しいのですね。女王様」
と、ユースフェルトの声がした。視界の端に突如として現れた彼に、すかさずクイーンは持っていた紅茶のカップを投げつける。
「……
「
ユースフェルトは熱い紅茶をぼたぼたと顔から垂らしながら、頭を下げる。いれたての紅茶を顔にかけられというのに、表情一つさえ動いていない。いつもの
ひとまずクイーンはユースフェルトの謝罪に、ふん、と鼻を鳴らした。
「アンタがアタシの所に来るってことは、少なからず何かあってのことでしょぉう? 聞かせなさい。それ以外でここに遊びに来たっていうのなら、今すぐにぶち殺して、あの芋虫共の餌にしてあげる」
「フ、フ、フ。それはそれは恐ろしゅうございます」
ハンカチで顔を
「ご
「お知らせぇ?」
クイーンは聞き返す。ユースフェルトは、濡れたハンカチを丁寧に折って胸ポケットにしまうと、言った。
「このたび、第三回目の“魔法の世界のゲーム”が始まりました。他の『王』の皆様がいる表の
「……続けなさい」
「ありがとうございます」
ユースフェルトは一礼し、そして、続きを話し始める。
「あなたさまが統べるこの世界は、全ての
ですが此度のゲームをあなたさまがクリアすれば、この世界を『
「……」
クイーンは何も言葉を挟まない。この「おとぎ話」を統べる女王なのだ。ユースフェルトの言っていることを理解できない彼女ではない。
いくら何でもできる「魔法の世界」といっても、この「おとぎ話」の世界は想像物が集まったもの。“誰か”がいなければ生まれず、生まれても絶対に「
強大な力を持つ『王』はここと表の
「……ゲームのルールと、クリア条件は?」
と、黙っていたクイーンが口を開いた。
「さすがでございます。ご理解が早い」
と、ユースフェルトはにっこりと笑みを浮かべて彼女のことを褒める。上辺だけの言葉にクイーンは心底から
「さっさと言いなさい。
「申し訳ございません。では、ゲームのルールとクリア条件をお話しさせていただきます」
ユースフェルトは腰を折って謝罪すると、話し始めた。
「此度のゲームは前回に引き続き“魔法の世界のゲーム”となっておりまして、監獄にいる『とある駒』を表に出し、最終的にこのゲーム盤を展開させているゲームマスターを殺害することで、今回のゲームはクリアとなります」
「……はぁ? 意味が分かんない。前回に引き続きってことは、前も同じゲームをしたってことぉ?」
「はい。あなたさま方の一つ前の『王』の方々の時に、同じゲームが行われておりました」
「前の時代ってことは……二千年前の、
「前回のゲームの勝者は、残念ながらおりません」
「……はぁあ?」
ユースフェルトの返答に、クイーンは思い切り顔をしかめた。
「前回は一人の『王』がゲームクリア
ちなみに、前回でクリア
「……その駒っていうのは、どこにいるのよ」
「世界の最果てにある監獄、『最果ての箱』の最下層でございます」
「……」
その場所の名に、クイーンの眉がぴくりと動いた。
その建物は呼び名の通り、世界中の凶悪犯が収容されている監獄である。そこへ行くこと自体は簡単なのだが、問題はその監獄がある場所と、監獄の中に入ってからだ。
その監獄がある所は、『同盟王』フランベリアが
フランベリアの目を
「……前回の『王』たちっていうのは、ほとんど死んだって聞いてるわぁ。でも、この世界では基本的には『死なない』……その死んだ『王』さまたち、今はどこにいんのよ」
ひとまず、その「重要な駒」というのは後回しにする。クイーンは手を伸ばし、クッキーを一つつまみながらユースフェルトに聞いた。
ユースフェルトはどこか貼り付けているような笑みを浮かべたまま、淡々と答える。
「さあ。確かに基本的には『死なない』この世界ですが、ゲーム盤から落ちた元『王』の皆様たちは、
「……あぁ、そう」
肩を揺らして笑うユースフェルトに、クイーンは適当に言葉を返した。わけの分からないことを言っているなと思いながら、つまんだクッキーを一口かじる。
「他に質問はございますか? 女王様」
ユースフェルトがにこにこしながら聞いてくる。
「……」
クイーンは少し黙ったまま、つまんでいるクッキーをかじる。そしていつものだらしない口調を少し張り詰めて、ユースフェルトにこう問いかけた。
「……アンタは知ってるはずよ。この世界って、なんなの」
ユースフェルトは、にこにこと笑みを浮かべたまま答えた。
「それはお答えできかねます。女王様が『この世界』についてか、『このゲーム盤』についてか、どちらのことを知りたいか
どちらにせよ、あなたさまは今回のゲームにて、ゲーム盤に初めて置かれた駒。この世界についてお話しすることは、あなたさまにこの世界の真実を語る意味となるため、わたくしの口からは何も言えません」
「……あっそ。聞いたアタシが馬鹿だったわねぇ。喋る
またわけの分からないことを言い出したユースフェルトに、クイーンはため息まじりにそう言った。
「じゃ、ゲームマスターっていうやつについては?」
「申し訳ございません。その質問にもお答えすることができません。
それもゲーム進行で得る情報の一つですので、今回のゲーム盤に置かれた駒に、ゲームマスターの名をお伝えすることはできないのです」
「ってことは……前回の『王』には言えるってことねぇ」
「その通りでございます。
前回の“魔法の世界のゲーム”に置かれていた駒は、前回のゲームのことを今回の駒に語ってもルール違反とはなりません」
「ふぅん……。もしかしてそのゲームマスターっていうの、この世界の神様って言うんじゃないでしょうねぇ」
「そうかもしれませんし、そうではないのかもしれません」
「なにそれ。じゃあ、ゲームマスターと神は違うってこと?」
ユースフェルトは答えた。クイーンは聞き返す。
「それには
それにこの世界は『なんでもできる“魔法の世界”』。どんな幻想もおとぎ話も、それこそ神も簡単に生み出される世界でございます。
『誰にとっての神』か、『この世界の神』か、という質問の内容が
「……あっそ。つまり“ゲームマスター”と、この世界の“神”っていうのは、
「あなたさまがそう思われたのならば、そのようにご理解いただけるとよいかと。
この世界の『神』というものは非常にややこしく、わたくしもはっきり『これだ』とはお答えできないのでございます。なにせ『神』というものは、物語の書き手のことも指すのですから」
クイーンが一人でまとめると、ユースフェルトはそう返した。
「じゃ、もう一つ。あんたの出現はどういう意味があんのよぉう」
「わたくし共『審判者』は、今回のゲーム盤にいる主要な駒の皆様へのお知らせをするとともに、このゲーム内容のルールを説明する役割を持っております」
「それで? あんたは敵か味方かって聞いているのよぉう」
「それは『どちらでもない』としか言えません。わたくし共はあくまで透明な駒でございます。敵か味方か、そのような役割は与えられておりません」
「……ふぅん」
「それと女王様。
あくまでこの『“魔法”の世界』に広げられているのは、『物語』ではなく“魔法の世界のゲーム”でございます。遠き昔にゲーム盤から落ちた駒が、再びこの世界……いえ、このゲーム盤に戻ってきて、ゲームに乱入してきても、それはルール
「……」
ユースフェルトの姿が、足元からだんだん蒸気に変わっていく。
「あなたさまがおられるここは、全ての想像物が集まった『おとぎの世界』。あなたの存在を“否定”することは、想像物である自分をも“否定”するということ。つまりあなたさまは、他の『王』の方々より、少し
ユースフェルトが言う。クイーンには、その意味が分からない。細く美しい指を、クッキーに持っていく。
腰のあたりまでを蒸気に変えたユースフェルトが、最後にこう残す。
「わたくしも、今回のゲームは誰がクリアするのか、また、クリアできる駒はいるのか楽しみにしてございます。
それでは。何かありましたらお呼びください、女王様」
ユースフェルトの腰から上が、蒸気に包まれて消える。
「……」
何もかもが赤に染まった玉座で、赤き女王は手に持っているクッキーを口に運ぶ。そのまま、パキ、と噛み砕いた。
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