急幕 ヨハ
それは、一瞬の出来事だった。菅笠があげられるや否や咆哮が止まり、太刀が横殴りに雷に打ちつけられ、そして五本の電光が飛んだ――と気付くよりも早く、くずおれかけた鬼の五体が地に縫い付けられている。
遅れてやってくる落雷の音。五分されているせいかずいぶんと小さいその唸り声の中を、兵衛はゆっくりと鬼に歩み寄りその醜悪な顔を見下ろした。なるほど確かにかつて大谷王と呼ばれた貴公子の面影はある。が、今やその面影は鬼の醜悪さを助長するだけだ。兵衛はちらりと鬼の胸に目をやり、呟いた。
やはり、な
顔を上げてあたりを見回す。ついさっきまで、荒れてはいたものの貴族の庭としての風格を保っていた威厳ある庭は、もはや異形の荒れ地となり果てていた。庭の中央にそびえ、しきりに唸る雷。庭をまっすぐ横切るようにえぐられた二本の溝。そして何より、あちこちにできた唾液の水たまりと無数の巨大な足跡。
そんな混沌の情景の一角に倒れ伏す娘を見つけ、兵衛は彼女に歩み寄る。小菅は白目をむき、泡を吹いて倒れていた。
「小菅」
「はひっ!」
黒目に戻り、がばりと起き上がる小菅。兵衛に気づき、頬を緩めかけるもすぐに顔を歪ませる。
「いったあ……」
「大丈夫か」
「いえ……なんか体中痛くって……」
いたた……と顔を歪め、震える手で頭を押さえかけてまた顔を歪めた。ふと、縫い付けられた鬼に目をやる。
「あれ?あれって――」
初め呆然、次に唖然。呆気に取られた顔で兵衛を見上げた。
「鬼、倒せたんですか? 倒せたんですね!? よかった~」
安堵の顔の小菅。菅笠の向こうの兵衛の顔はうかがい知れない。その口が、重々しく開いた。
「……いや、まだだ」
はえ? と声を上げる小菅。鬼に振り向き、また兵衛を見て鬼を見て、不思議そうな顔で兵衛を見上げる。
「なんで、ですか?」
小首をかしげたそのちょっとかわいらしい顔に、兵衛はゆっくりと銀の太刀を突きつけた。
「……お前が、鬼だ。小菅」
小菅の顔が固まる。理解できない、という顔。一瞬で彼女の顔を喜怒哀楽が過ぎ去って、彼女は最後にひきつった笑みを浮かべた。口の端が、震えている。意味が分からなくて意味が分からなくて、本当にどうしようもなくなった時の、笑顔。
「どういう……ことですか?」
「だから、小菅、お前が鬼なんだ。お前が奴の心の臓だ。」
「え……?」
震える、震える声。
「私は、私は違う。鬼は大谷王でしょ?ねえ、そうですよね」
脆い、ひたすらに脆い笑顔を、兵衛は冷静に、冷徹に打ち壊した。
「……大谷王は死んでいる。一月ほど前、鬼に喰われて、な」
無表情。空虚。色の無くなった目が、ひたすらに虚空を見つめる。
「……おそらくお前は、大谷王への深い憎しみによって自分でもそれと分からぬうちに鬼になったのだろう。そして大谷王を喰らい、彼をその身に宿した……そして――」
ふわ、と小菅の目に色が戻った。怒りの色。
「嘘……うそ……ウソよそんなの!」
彼女はしびれた手で土くれを投げつけ、叫ぶ。
「噓ではない。奴の五体に雷光を打ち込んだ。お前もその痛みを感じているはずだ」
小菅は震える手を掲げ、呆然と見つめた。その顔が深い絶望に染まり、目が泳ぐ。
「でも――でも――」
「お前は奥方様を愛していたんだろう?」
目が止まった。ゆっくりと上を向き、菅笠の向こうを見通そうとする。
「どうして……」
「……勘がいいものでな」
手がだらんとぶら下がり、彼女はがっくりとうなだれた。沈、黙――
「好きになりますよ、あんな素晴らしい方。自分だけのものに、したく、なりますよ……」
彼女の両手が小刻みに震えながら小袋を包む。
「……私は、どうなるんですか……?」
か細く、震える、少女の声だった。兵衛は太刀を微かに揺らす。
「鬼は、斬らねばならない。人の業は、絶たねばならない。それが決まりだ」
「じゃあ私死ぬんだ」
実感のない、素直な驚きだけが詰まった呟き。そこには恐怖も覚悟も何もない。兵衛が一瞬唇を噛みしめたように見えた。
「お嫁に行けなくなっちゃいますね」
「ああ、そうだな」
「素敵な方と、出会いたかったなあ……」
「……そうだな」
まるで何気ない日常のやり取りのように交わされることば。小菅は薄氷のような、今にも泣きそうな笑みを兵衛に送った。
「優しく、お願いします」
「……ああ」
菅笠が持ち上がり、二点が閃いた。即座に少女の体から力が抜ける。それを抱きとめ、兵衛は銀の太刀を彼女の胸に貫き通した。薄い刃に心臓だけを貫かれて、小菅は、少女は、鬼は、精一杯口角をあげて涙を両目いっぱいに溢れさせた。
―――――
最後に微かに口を動かして、彼女の首はがくんと折れた。兵衛はそっと優しく少女を地面に横たえ、太刀を引き抜く。もはや用をなさなくなった赤色が、じんわりと地を染めていく。兵衛は太刀の血を拭い少女の遺体にかがみこむと、赤い小さな袋をそっと、彼女の両手に握らせてやった。優しく少女の顔の上で手を滑らせると、宝石のような瞳は瞼で覆われた。残っていた涙が一筋、微笑みの上を流れる。その様はとても美しいものに見えた。
兵衛は、夜のように冷たくなるまで小菅の暖かい頬に触れていた。頬から手を放し、天を見上げる。雨は降っていなかった。いつの間にか雷は消え、代わりに満天の星空が庭を照らしていた。庭にはもう鬼の体はない。きれいさっぱり闇に還っていったのだろう。兵衛はゆらりと立ち上がり、闇へ一歩。闇に溶けかけた兵衛の背は、一向に闇に溶け切ろうとしなかった。
「……人に非ずして
もう一度だけ小菅を見下ろす。彼女は依然、静かな微笑みを湛えていた。
「……すまない」
ぽつ、と雨粒が地を打つ。兵衛は踵を返し、木戸のほうへと歩き出す。強い風が吹き、散った枯葉の渦がたわんで兵衛を覆い隠す。風が止んだ時、兵衛の姿はどこにも居なくなっていた。
こうして古の都は平安に眠る 蛙鳴未明 @ttyy
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