破幕 ヨル
「あんなキザなこと言えるんですね」
「……良いからしっかりと見張っていろ」
苦々しい兵衛の声。小菅はにやにやとしながらも縁の向こうに向き直る。そちらに輝く傾いた月。奥方との面会より四半刻ほど後である。生ぬるい風が吹き抜けてどこからかフクロウの声。小菅は笑みを消してぶるりと震える。
「怖いか」
小菅は驚いて兵衛の方を見やる。闇に薄ぼんやりと浮かぶ兵衛の輪郭は、変わらず前を向いていた。
「分かりますかね」
「勘が良いものでな」
ため息をつき、小菅は胸元の小袋をぎゅっと握った。
「そりゃ怖いですよ……人喰い鬼の囮になるんですから」
「それも一月の内にお前の同僚をことごとく喰らい、挙句の果てに陰陽師まで喰らった鬼だ。お前の命を全力で狙ってくる。一度捕まれば命は無いだろう」
小菅は眉をひそめて兵衛をにらむ。
「何でそんなこと言うんですか?」
「自分が今どういう状況にあるか把握しておいた方が良いと思ってな」
「……良い性格してますね」
「よく言われる」
沈黙。兵衛の影がもぞもぞと座り直す。
「……心配するな。鬼がお前に釣られてきたところを、私が斬る、それだけだ。お前は座っているだけでいい。」
「そうですね……はい」
小菅は目を閉じ大きく深呼吸。小刻みに震える腕をさする。弾けたように天を仰ぎ、あーあと声を上げた。
「百合様がいらっしゃったら良かったのに……」
「百合様?」
「はい。凛として、綺麗で……ドジな私にも優しくて、初めてここに来た時も、側仕えになった時にも色んな事を教えてくれて……とっても優しい方でした。」
「喰われたのか」
小菅の唇がきゅっと引き締められた。
「はい。鬼に、最初に……」
「……そうか」
荒れた庭のどこか、虫が鳴く。小さな小さな赤い袋を、小菅の指が何度も撫でる。
「その袋、大事なものなのか」
小菅は驚いたように顔を上げ、頬を染めて袋を見下ろした。
「はい。奥方様に頂いたもので――兵衛殿は何でもお見通しですね」
「……そういえば奥方様の御夫君はどうなさっているのだ?」
小さな沈黙。
「亡くなりました。不慮の、事故で」
「……事故」
「いいえあれは事故じゃありません」
鋭く、素早く、刃のような声に、兵衛は小菅の方の闇を見透かす。影が微かに震えていた。
「殺されたんです、大谷王に。……あいつが奥様を欲しいがばかりにっ!」
慌てたような鳥の羽音。彼女は衣の裾をぎりぎりと握りしめ、床をにらむ。今にも歯ぎしりの音が聞こえてきそうだった。
「大谷、王?」
静かな声だった。途端に小菅の怒りが烈火のごとくほとばしる。
「ええ、大谷王です最低の男です!あの卑劣な男は大殿様の喪が開けるか開けないかのうちにやってきて奥様に迫ったんです……!なんて――なんて卑劣な――ああああいつの下卑た顔!思い出すだけで腹が立つ!鬼もどうせ喰うなら大谷王も喰ってくれれば良かったのにっ!」
沈黙。兵衛は身じろぎした。
「大谷王……とやらは今どこに?」
「知りませんよあんなヤツ!どうせどっかの娘のところに入り浸ってのうのうと――」
「待て」
静かな、それでいてとても強い声だった。小菅はハッと兵衛に振り向く。さらにおぼろげになった兵衛の影が、山の端へ沈みゆく月を指す。
「丑三つだ」
どこか遠くで鐘の音が鳴った。長く二つ、短く三つ。ぴたりと虫の声が止む。風が止む。どこかから飛んできた黒雲が、瞬く間に空を覆い隠した。遠くで神が鳴る。月も星もない、正真正銘の真っ暗闇。
そこはかとない緊張感が漂う。
ひた、ひた、と足音が聞こえた。近づいてくる、近づいてくる、小菅の方へ。
ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひたり。
「おい」
「ぃやあああああああ!」
肩に置かれた手を弾き飛ばし小菅は縁から庭へと飛び出した、瞬間、凄まじい雷光が世界を染めた。感知できないほどに莫大な音に殴り付けられ小菅は庭に転がり落ちた。痛む頭を押さえ、ふらふらと立ち上がる、と、雷、が、固まっている。庭の中央の空間に固定され揺らめいて、光をあたり一面に振りまいている。一瞬の思考停止、及び活動停止。雷の裏からの叫び声。
「後ろ!」
呼び覚まされて咄嗟に横っ飛ぶ。背中に風圧鉤爪の気配。無様に地面に激突し、数回転して植え込みのそば。痛みにしかめながら顔を上げると、そこには巨大な鬼が立っていた。初めて見る鬼がこんなに醜悪で良いのだろうか。イボだらけの真っ赤に染まった体から伸びる、歪んだ巨大な腕、巨大な足。滴る唾液に歯を光らせて、小菅を見下ろすその顔は――
「大谷、王……?」
呟いた刹那咆哮と共に振り下ろされる手。間一髪、悲鳴をあげて飛び退いた。
「よくやった!」
吹きすぎる黒い風。閃く銀光。どこからともなく抜き出された銀の刃が鬼の背中を切り裂いた。空飛ぶ上半身。咆哮、咆哮。小菅は、闇に溶けていく鬼の胸から上を呆然と目で追った。
「これにて落着……か」
兵衛の声に振り向くと、彼の口元が微かに笑んだ。彼は、どこから取り出したのか、自分の背丈よりも長そうな長大な太刀を植え込みで拭うと、それを腰へと持って行く。確かに鞘を滑る音がして、銀の刃は消え去った。兵衛はぽかんと口を開けた小菅の顔を眺める
「これで終わりだ。鬼は無事討ち果たされました、と奥方様に伝えてくれ」
口を開けたままぎこちなく頷く小菅。ふと我に返り、踵を返しかけた兵衛に慌てて声をかける。
「あの、兵衛殿! どこへ……」
「私は――」
振り返りかけたその瞬間、鬼の下半身の断面がごぼり、と泡立ったことを、兵衛は見逃さなかった。逃げろ、と叫んで太刀を抜く、瞬間、巨大な拳が彼の眼前に現れた。咄嗟に太刀で受け止める。巨大な岩石にぶつかったかのようなすさまじい衝撃。兵衛の足が地をえぐり溝を作り出す。御殿に突っ込むその寸前で足を踏み込み無理やり止まって、兵衛は太刀を構えなおした。
痛む両腕。彼がにらむその先には、不釣り合いに上半身が膨らんだ鬼。少々筋骨隆々過ぎる両腕を振り回し、怒りの咆哮を上げるやいなや力強く地を蹴った。
矢のように兵衛に迫るそのさまはまさに紅い稲妻。素早く太刀を滑らせそれをいなすと、兵衛は返す刀で鬼の右腕を断ち切る、やいなや鬼の肩が泡立ち、瞬時に形成された新たな腕が兵衛の背をはたこうとする、のを身を屈め菅笠の天辺を削られながらもかろうじて避け、ため込んだ力を瞬時に解放して兵衛はバネのごとく後ろへと飛び跳ね距離をとる。その間わずか四秒半。まさに電光石火の応酬である。にらみ合う鬼と兵衛。
三秒の空白を破ったのは兵衛のほうだった。先手必勝とばかりに敵の懐に飛び込み、銀が揺らめく、閃く、煌めく。均等に細切れにされて飛び散る鬼の体。肩を波打たせ、禍々しいサイコロを見下ろす兵衛。どうだ、と口が微かに動く。一拍開けて、サイコロたちが一斉に微かに震えた。兵衛が飛びのいた瞬間、もといた空間はもう巨大な鉤爪に切り裂かれていた。そのまま二撃、三撃と振り下ろされる破滅的な太腕を弾き飛ばし、後方へ大きく宙返りして兵衛は雷のたもとへ。
「……
同意するかのようにグルゴロと唸る雷。それに照らされ、闇に沈む御殿を背に浮かび上がるあまりにも巨大な赤い鬼。その体躯はすでに来襲時の数倍にまで膨れ上がり、ぬちゃぬちゃと音を立てて滴る唾液は数十倍に増えている。突如、唾液まみれの口が大きく開いた。
天が震え、地が動く。もはや咆哮とは認識できないほどの巨大な音の渦のなかで、それでも兵衛は落ち着き払って菅笠に手をかけた。
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