【ある魔女の追想】⑧

「今回こそ……きっと何か変わっているはずだわ。そうよ。きっと……」

 台所の前に立ち尽くしたまま、彼女は呟く。その後ろでは上着を持った秋仁がばたばたと家を出ようとしている。

「遅くなる時は駅の掲示板に書くからね」

 彼は扉のドアノブをひねり、

「うん、咲ちゃんも。行ってきます」

 にこやかにそう言うと家を出た。音を立てて扉が閉まる。一人残された咲子は、スカートのすそを握りしめながら呟き続ける。

「今回こそきっと、何かが変わっているはずなんだから……。今回こそ……」

 しばし一人で、そう呟き続けていた。


 そしてあの日がやってくる。

「僕は……すごく幸せだったんだ。君が、隣にいてくれるだけで……」

 これを聞くのは四度目。今回も同じだった。横にいる彼の顔を見ながら、咲子は思う。

「咲ちゃん……大好きだよ。次も、僕と一緒に……。僕と、さいごまで、一緒に……」

 そしてあの日と同じように、その言葉の先はいくら待っても聞こえない。

 咲子は咳き込みながら体を起こし、連動音と共に施錠されたドアが開くのを待つ。

 三十秒ほど待つと、スマートキーの音と共にドアの鍵が解錠される。咲子はよろよろと手を伸ばし、目の前のスライドドアを開けて外に出る。激しく咳き込みながら、車から這い出て地面に落ちる。

「ねえ、神様。神様……」

 土とよだれと、涙で汚れた顔を上に向ける。

「はい。なんですか?」

 呼びかけると、空中にグラウが現れた。

「は、早く次に、次の世界に……」

「はいはい。いいですよ」

 グラウが指を鳴らす。咲子は視界が暗くなり、意識が闇に落ちるのを感じた。


 それから何度、同じ光景を見てきただろう。何度、「次こそは」と言い続けてきただろう。何度、奇跡が起こると信じ続けてきただろう。何度、愛する人の死に顔を見続けてきただろう。何度、くだけそうな心を必死に繋ぎ止め続けただろう。

 会いたかった人にもう一度会えた嬉しさ。何を言っても何をしても、一度聞いた言葉しか返ってこない悲しさ。いつか見た光景。いつか交わした会話のやりとり。それを何度繰り返し続けてきただろう。

 それでも彼が笑いかけてくれる。彼が名前を呼んでくれる。彼の体に触れると、あの日の、あの時感じたものではない冷たさではなく、彼のぬくもりを確かに感じる。

 そのぬくもりを求めてしまう。彼の笑顔が見たいと思ってしまう。彼の声が、また聞きたいと思ってしまう。今がだめでも、次こそはと思ってしまう。生きていた彼に、もう一度と。


「次こそは、きっと奇跡が起こるはずなんだから……」

 荒い息をつきながら涎をぬぐい、ワンピースのポケットから抜き身の包丁を取り出した。震える両手を動かして掴みなおし、刃先を自分の喉へと向ける。

「ええ。そうですねえ。次こそはきっと、奇跡が起きるかもしれませんねえ」

 そんな彼女を、空中に浮くグラウはにやにやしながら見下ろしている。

「……」

 包丁の刃先が皮膚に当たり、ぷつりと裂けて血の玉が浮かび上がる。

 一瞬の躊躇いのあと、咲子は両手に力を入れ、ぐっと自分の喉に押し込んだ。


 それから何度、自分で死んできたのだろう。

 一度見た光景。一度迎えた同じ日。いつか交わした彼との会話。彼は誰もいない空間に向かって一方的に話している。それを見るたび、その時に彼と何を話したのかを思い出す。その日何があったのか、彼と何をしたのか、思い出たちが頭の中に溢れてくる。

 いつかの日に戻り、あの日が来て、彼は死ぬ。そのあとを追って自分も死に、また同じ日から始まる。その繰り返し。

 いつの間にか「死」に慣れ、それが当たり前になる。あれだけ一歩が踏み出せなかった行為こういを、当たり前に自分でこなせるようになっていた。

 いつか奇跡が起こることを。彼が死ぬ運命が変わると。それだけを心の支えにして、ひたすらに愛する人の死を見続けた。そしてそのたびに自分の命を終わらせ続ける。そしてまた、一度体験した日に戻って彼が死ぬ日までを見る。それで自分の命を終わらせて、また戻る。その繰り返し。

 自分が死にさえすれば、生きている彼に会える。自分が死に続けてさえいれば、いつかきっと奇跡が起こる。そして死を回避した彼と再びここで暮らすのだ。そう、いつかきっとその日が来る。いつかきっと。

 彼がいない人生など、自分はいらないのだから。彼がいなくなった世界など、自分が生きる理由もないのだから。自分は一度死んでさえ、彼を求めてここに来たのだから。


「……僕、ね、」

 またこれだ。また、何も変わらなかった。

「咲ちゃんと、一緒にいられて……本当に楽しかったよ。幸せで、毎日、楽しかった。僕の名前を呼んでくれる君の声が、君の笑顔が……君が、傍にいてくれるだけで……君が、あの家にいてくれるだけで、僕は……すごく幸せだったんだ。君が、隣にいてくれるだけで……」

 隣にいる彼の顔を見ながら、咲子は思う。これは何度目だっただろうか、と。

 そしてまた、彼は冷たい死体となった。咲子はスライドドアを開け、外に出る。地面に這いつくばりながら、あたりに吐瀉物をまき散らす。震える手を動かして、ポケットから包丁を取り出す。

「あれあれ。まだ続けるんですか?」

 そんな彼女を見下ろし、グラウが言った。

「まあいいですけどね。あなたが自分の意思で選んだ選択というのであれば」

 と、グラウ神は言う。

 包丁の刃先を自分の喉に向けた咲子は、躊躇いもなく刃先を気管へ突き刺した。


「君が、傍にいてくれるだけで……君が、あの家にいてくれるだけで、僕は……すごく幸せだったんだ。君が、隣にいてくれるだけで……」

 またこれだ。また、何も変わらなかった。今回も、奇跡は起こらなかった。

「咲ちゃん……大好きだよ。次も、僕と一緒に……。僕と、さいごまで、一緒に……」

 彼の言葉が弱々しくなり、やがて彼の呼吸が止まる。これは何十回目のことだったろう。いや、何百回目か。これが何度目のことか、もう分からない。

「……」

 咲子は体を起こし、激しく咳き込む。そうしているとスマートキーのスイッチを押した音が鳴り、スライドドアが勝手に開く。咲子は這いずるようにして外に出る。

「……」

 呼吸を整えながら空を見上げる。あの日と同じ星空。この空を見るのも、もう、何度目のことだっただろう。

「今回も奇跡は起きませんでしたねえ」

 と、声と共に空中にグラウが現れる。右手にはサンドイッチを持っている。空いたもう片方の手で、サンドイッチに挟まれたいちごを抜き取る。

「じゃ、次の三百五十七回目に行きましょう。次こそは奇跡が起こるかもしれませんよ? ほら、あと五回か十回か繰り返したら、奇跡が起きるかもしれませんねえ」

 グラウは抜き取ったいちごを指で軽く潰して遊ぶ。

「それともなにか? 今さら死ぬのが怖くなってきたとか? 三百五十六回も死んできて今さらじゃないですか。仕方ないですねえ。ちょっと手伝ってあげましょう」

 指で潰し、遊んでいたいちごを口に放り込む。

「奇跡……」

 咲子は唇を動かして、その単語を呟いた。

「奇跡なんて……」

 咲子はうつむき、地面を見つめた。そして、神を名乗る男の子に言う。

「……あなたは、神様だって言ったわ。ここは地獄でもないって」

「ええ。そうですねえ。ここはあなたが自らの命をチップとして投げた場です。そして僕はいつも退屈している神様です。何がしたいか、何をしようが、その時に思いついた僕の気分次第しだい

 グラウは言い、サンドイッチを頬張る。はみ出た生クリームが口の周りに付着する。

「……」

 咲子はうつむいたまま唇をかみしめる。彼女の目から、ぼろぼろと涙がこぼれる。うつむいたまま、咲子は言った。

「奇跡なんて……あなたの、ただの気まぐれなんでしょう?」

 その一言にグラウはにやりと笑みを浮かべて、

「ええ。そうですよ。そのとおり。それを起こすかどうかも、僕の気分次第ってわけです」

 そう言い放った。

 咲子はしゃくりあげ、肩を震わせて静かに泣き始める。この少年は最初から結末を分かっていて、あんな勝負を提案してきたのだ。なんてひどいと、咲子は思う。

「いやあ、笑いをこらえるのに必死でしたよ。同じことを繰り返し続けるあなたを見るのは実に面白かったです。『奇跡』なんてただの僕の気まぐれなのに。もうちょっと、そうですねえ……あと五十回ぐらいこの世界を繰り返したら、奇跡を起こしてあげてもいいかなと思っていたんですよねえ」

 にやにやしながらそう言って、グラウは手にあるサンドイッチを頬張る。咲子はただ肩を震わせて泣き続けている。奇跡を起こすと言った言葉も、嘘か本当か分からない。この神は気まぐれなのだから。

 いつかは。きっといつかは。そう信じていたものは全て、この少年の気まぐれだったのだ。この世界も。自分がここへ来たことも。こうして今生きている自分の命も。全て、この神にもてあそばれていたのだ。

「別にいいんですよ。嫌になったのならやめても。その場合の、ここから出る方法は教えたでしょう? 今までと同じように死んで次の世界に行き、生きているそこの人間を殺すだけ。簡単じゃないですか。今まで自分に向けていた包丁の先を、次はその人間の心臓に向けるだけ。そして思いっきり……ブスリ! これだけです」

 グラウは空いた左手で何かを持つような仕草をして、自分の心臓に手をぐっと押し込む。

「たったそれだけじゃないですか。三百回以上同じ事を繰り返してきて、ここがどういう世界か、とっくにあなたは気づいているはずです。僕が言った勝負がどういう選択のものか分からないほど、あなたは馬鹿ではないでしょう?」

「……」

「簡単じゃないですか。考えるまでもないですねえ。次は本当にあるかも分からない地獄へ、もう一人の命を賭けるだけの話です。

 死ぬことが当たり前になっても、あなたは同じ日々を繰り返し続けた。いつ起こるか分からない奇跡を信じ続けたじゃないですか。じゃあ、それと一緒です。次は自分の命ではなく、死んでまで会いたかった、そこの人間の命をチップとして投げるだけ」

「……」

 咲子は涙をこぼしながら思う。それができていたら、とっくにこの世界から……。咲子は鼻をすすり、しゃくりあげる。

「いいですか。もう一度言いましょう」

 グラウはサンドイッチの最後のひとかけらを口に放り込む。もぐもぐ噛んで飲み込むと、咲子に言い放つ。

「確かにここへあなたを連れて来たのは僕です。あなたにこの世界と、それに見合う二つの物をプレゼントしたのも僕です。ですがそれは全て、あなたが望んでいた物を揃えてあげただけのこと。

 一度目の人生で、死ねずに残った命を賭けると頷いたのはあなた。この世界に来て、僕との勝負をすると言ったのもあなた。この世界でひたすらに奇跡を信じ続け、死に続けたのもあなた。そうでしょう?

 僕はちゃんと言いましたよ。この世界にとどまり続けるか、それともここから出るか。その選択をするのはあなたなんです。その人間の死にぎわをもう見たくないのなら、この世界から出ればいいんです。次の世界でその人間を殺して。それができるかどうかが、僕とあなたの勝負です」

「……」

 咲子は何も答えない。しゃくりあげ、ぼろぼろと涙をこぼしている。

「どうするか決めるのはあなたです。時間は無限にあります。好きなだけどうするか考え、選択すればよいですよ」

 グラウは、鮮やかな赤い目で咲子を見下ろす。

「まあ、これぐらいはサービスしてあげましょう。僕は優しい神様ですからね」

 グラウが言った。すると咲子の細い首に、まるで見えない縄が巻きついたようなあざが浮かび上がった。

 咲子の首に巻きついた、見えない縄が締まる。咲子は「え」に濁点だくてんがついたような呻きを上げる。反射的に首のあざを掻きむしりながら、地面に倒れこむ。死にかけの虫のようにもだえる咲子を、グラウはにやにやしながら見下ろしている。

「あ、え……」

 それが、彼女の最後の言葉だった。喉を掻きむしる姿勢のまま、咲子はそれきり動かなくなった。

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